3ー③ 浮かれた気持ち
「あの……お酒はもう……」
「きみ、結構かわいい……ひくっ……酒がないなら、君でもいい」
男性の体から、息から酒の香りが染み出ている。人の体についた酒の匂いは気持ちが悪い。
「あの、まだ仕事が残っておりまして……」
「そんなの、俺が言えばなんとでもなる」
「ですが……」
「なに? 口答えするのか?」
面倒なことになってしまった。近くに別の職員がいないか辺りを見渡したが、皆忙しそうにしていてこちらに気がつきそうにない。
「それよりも、俺は知っているんだよな……最近、伯爵家のご子息が図書館に通っているとかいう噂があってな。パーティの準備だろうとの話だったが、実はそうではないらしいとか」
この男性は何の話をしているのだろうか。相も変わらずフリージアの肩に手がのっていて、さらに腰にも手を回してきた。
「それで、俺はこの前、見たんだ。図書館で……ひっく……それ、お前だろ? 伯爵家のルーカスと恋仲なんだろう?」
フリージアは硬直した。恋仲? そんなことは全くないのだけれど、そんな話が広まっていることに衝撃を受けた。
「伯爵家の子息と本当に恋仲になれるとでも思っているのか? 身の程知らずな。
俺なら、お前を消すね。
大事な息子が平民なんかに現を抜かしているなんざあ、恥だよ恥。
お前は図書館はクビかもしれないな。いやこの国にいられれば御の字ってところだ。どうだいもし俺の愛人となれば……俺なら守ってやれるぞ」
話は
ただ事実として、図書館でルーカスと話をすることは多かった。公共の場である以上、人に見られることもあっただろう。しかしこんなにも噂になっているとは思わなかった。
男性は腰に回した腕をさらに深く絡めてくる。フリージアは護身術を身に着けているので、酒が回りフラフラになっているこの男を地面に横たえることもできるが、できるということとやっていいことは違う。
「一体何をなさっているのですか」
男性の腕を
「いくらお酒を飲んだからと言って、このような公の場で褒められた行為ではありませんね」
男性はフリージアから離れた。観念したのかと思いきや、にやけた嫌らしい笑みを浮かべた。
「これはこれはバーデン伯爵家のご子息、ご
「何をおっしゃっているのかわかりませんが」
ルーカスの声は冷たく、視線も
「ルーカス様、慌てて行ってしまわれて、何事ですか? これは――?」
ツンとした声の主はリズ嬢だった。
男性の手首を捻り上げているルーカスの傍に佇むフリージアを見て、リズ嬢はあからさまに呆れた様子だ。
「あなたは……侯爵家の……いやはや、なんでもありませんぞ、ちょっと世間話をしていただけで……なぁ」
中年男性は、頭を掻いた。この男性は、伯爵家には強く出られるが、侯爵家には強く出られないようだ。フリージアなすがまま、立っていることしかできない。
「まったく、貴方のような方がいるから、貴族の品位が落ちるのです。お父様にご報告しなければ」
リズ嬢は堂々と言い放つ。
「それだけは……どうか……」
男はかなり焦っている。
そして、私はこれで……と言うと一目散にどこかえ消えていった。逃げ足の速い男だ。
「アリアさん、大丈夫ですか?」
ルーカスが話しかけてくるが、その後ろにいるリズ嬢の視線が怖い。
フリージアがルーカスの問いに答えるよりも早く、リズ嬢の低く響く声がした。
「アリアさんとおっしゃったかしら……それにルーカス様。あの方がおっしゃっていったように、あなた方は恋仲だという噂を、
想定外の質問だったのか、ルーカスは一瞬目を丸くしたが、その後冷ややかな声で答えた。
「そのような事実はありません」
リズ嬢は
「事実かどうかは別としても、そのような噂が広まっている事自体が問題ではなくって?
その通りだと思った。アリアならまだしも、ルーカスは伯爵家の人間なのだから、否応にも注目される。
「私はアリアさんに言っているのではありませんのよ。ルーカス様、アリアさんは平民で護衛の騎士もついていないのです。それなのに伯爵家の子息に目をかけられているとわかれば、誰かに利用される可能性だってあります。危険を伴うのです。ルーカス様はもう少し自覚を持つべきです」
「侯爵令嬢のおっしゃる通りです……」
険悪な空気が流れる。ただし正論である。
フリージアも浮かれていた自分を恥じた。フリージアは月の国の王女で、使命がある。目立つ行動は避けるべきなのに、少なからずルーカスが話しかけてくることを楽しみにしていた。今はそんな浮ついた心なんて持っている場合ではないのに。
その時、わっと沸いた。
驚いてざわつきの大きい方を見ると、視界に入ったのは太陽帝国皇帝だった。フリージアもルーカスもそしてリズ嬢も
会場にいる全員が一斉に頭を下げる。貴族たちから皇帝に向けられるのは敬愛や
皇帝は会場を歩いて進み、前方の一段高い場所へと上がった。その間貴族たちは頭を下げた。皇帝が踏みしめる芝生が沈む音までも聞こえるほどに静かだ。
「今日はティーパーティが開催されると聞いたが、余には招待状が届かなく、まことに残念であった」
その言葉に会場はさらに凍りついた。
「陛下はこのような場はお好きではないかと思い、申し訳ございません。しかし、陛下は招待状などなくともいつでも大歓迎でございます」
開会の挨拶をしていた男性、つまりはルーカスの父バーデン伯爵が即座にそう言った。
「まぁ良い。皆が楽しそうにしていたならそれで良いのだ。余も暇ができたので立ち寄っただけだしな」
皇帝は不敵な笑みを浮かべる。
「せっかく来た事だし、余からも贈り物をやろう。おい」
皇帝が斜め後ろに控えていたアルベルトへ目配せをする。アルベルトは頭を下げて、光の玉を空へ浮かべる。日が落ちかけた夕方の空に、黄色や水色に光る明かりは美しく、使用人や図書館職員の目はキラキラとしたが、その場に集まった貴族たちはその美しさを楽しむ余裕などなく、皇帝のオーラに委縮している。
「陛下、急に来られては皆が委縮していますよ」
緊張の糸がピンと張られた異様な雰囲気の中で、言葉を発したのは、図書館館長である子爵様であった。
「おぉ、丁度良かった。貴殿の紅茶のコレクションで一服させてもらえないか?」
「もちろんです陛下。私の執務室へご案内いたします。せっかくですからここにある素晴らしいお菓子も執務室へ運ばせましょう」
強張った顔の貴族達の中、子爵様だけが余裕のある笑みを浮かべている。やはり子爵様と皇帝は親交が厚いのだろうか?
「皆は自由にしてよいぞ。余はもうここへもどることもない」
皇帝と子爵様はフリージアが立つ場所へ向かって歩いてくる。フリージアは慌てて頭を深く下げる。目線の先に皇帝の黒く大きな靴が見えた瞬間、背筋が凍りそうな冷気を感じた。怖い。フリージアは頭を上げることなくその場をやり過ごした。
頭を下げ続けていると、今度は細くスッとした足と、黒い靴が見えた。その靴は、フリージア方へ近づきながら歩いている。すれ違いざまに一瞬その靴の主の手が触れた。
頭を下げていて顔は見えなかったが、その手の固さと触れ方はアルベルトだと直感でわかった。ほんの一瞬触れた手には折り畳んだ紙が握らされていた。
皇帝と子爵様そしてアルベルトが図書館本館へと入ると、ティーパーティの会場は、雪解けのように元の空気感を取り戻した。
手に握られた紙を広げてみたが、それはただの白紙だった。
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