月と太陽のアリア〜亡国の王女は敵国で恋を知る〜

序章ー②

　広間の重厚（じゅうこう）なドアを開けた瞬間、目に入ったのは兄である王太子アルベルトの姿だった。

　亡くなったお母様譲りの金髪をもつフリージアとは違い、アルベルトはお父様譲りの黒髪をもつ。その黒髪はクネクネとうねって顔の半分を隠しているが、真一文字に結んた唇と鋭（するど）い紺の瞳が、事態の深刻さを示しているようだ。

「お兄様」

　駆け寄って抱きつくと、アルベルトはフリージアの頭に手を置いた。剣の稽古で硬くなった大きな手に触れられると一気に安心感が広がる。

「お兄様、いったい何事なのですか？」

　包まれた腕の中から顔を上げ、兄の顔を覗き込みながら尋ねた。アルベルトは唇の端を無理矢理上げて少しだけ笑った。

　後ろには、アルベルトの乳兄弟のサイラスがいて、難しい顔でこちらの様子を伺っている。

「太陽帝国が攻め込んできた。私は父上に待機を命じられている。フリージアもひとまずここにいれば安全だ」

　アルベルトの声が頭に響いた。いつも冷静で余裕に満ちているアルベルトだが、声色に焦りが乗っているように感じた。

　アルベルトは帝国が攻めてきたと言った。

　少なくともこの世界が現在の太陽・月・花の三国の支配となって二千年あまり、国同士の争いが起こったことなど一度たりともなかったはずだ。絶対など存在しないことはわかっているが、それでも帝国が攻めてきたなど簡単には信じられない。

　アルベルトは、普段冗談ばかりを言う。嘘を巧みに織り交ぜて、当たり前のようにフリージアをからかうのだ。しかし今この瞬間、これが大掛かりな嘘や冗談の類（たぐい）ではない事は、アルベルトやサイラスの表情から嫌というほどに伝わってくる。

　広間は時折地面から伝わる他人事のような轟音と共に揺れ、それと共に、お父様が使う魔法の気配も微（かす）かに感じ取られる。

「まさか、お父様は……魔法を使っているのですか？」

「ああ。そうだ」

　フリージアが尋ねると、アルベルトはくぐもった声で答えた。

「でも、魔法を戦いに使うことはできないはずでは――」

　魔法を戦いに使うことはできない、女神との契約でそうなっているのだと幼いころから何度も聞かされてきた。

　少しの沈黙（ちんもく）の後、アルベルトは大きく息を吐いた。ため息ではない。冷静さを保つための細く長い息だ。

「できないのではない。禁じられているだけだ」

「禁じられている……だけ」

　アルベルトは出来ることなら話はしたくないようで、引きつった苦い笑みを浮かべている。

「いにしえの契約の物語はお前も知っているだろう。女神がその従者と魔法譲渡（まほうじょうと）の契約をした時、魔法を戦いに使うことをかたく禁じた。そして、魔法を戦いに使えば、その代償を支払わなければならないとしたんだ」

　いつもは饒舌（じょうぜつ）でスラスラと言葉を操るアルベルトだが、ゆっくりと慎重に言葉を選びながら話す。

「代償？」

　アルベルトの目を見た。フリージアと同じ紺色の瞳には、いつもの自信と余裕の代わりに怒りの混ざった哀しさが見える気がした。

「代償って何なの？」

　そんな話は初めて聞いた。

　アルベルトは話すべきか迷っているようで、何も言わない。

「お兄様、私はもう子供ではないのですよ」

　フリージアは先程アルベルトに子供っぽく抱きついてしまったことをひどく後悔した。お父様もお兄様もフリージアを子供扱いする節がある。大切にされている事は十分にわかっているが、守られるだけの王女にはなりたくない。

　何も言わないアルベルトに対し、横にいるサイラスが「姫様はもう立派な大人ですよ」と耳打ちしているのが聞こえた。

　「そうだな」とアルベルトも返す。しかし結局口を開かないアルベルトに、やれやれといった表情をしたサイラスは、代わりに話を続けた。

「代償、それは使用者の命です」

「命？　それってどういう……」

　帝国が攻めてきたという事実だけでも受け入れ難いのに、これ以上何をどう受け止めろというのか。

「いにしえの女神から授かった魔力を争いに使えば、その命は二十四時間以内に尽きるとされています。しかしながら、実際に使われた史実はありませんので、真実かはわかりません。それに戦力利用というのも定義が曖昧で、いまいちよくわからないのです」

　広間は静寂（せいじゃく）が支配した。今のサイラスの説明だと、魔法を戦いに使っているというお父様は代償を支払わなければならないということなのか――

　言葉の意味は、理解ができるのに、どうしても脳は真の意味での理解を拒んでいる。今すぐアルベルトに抱きつき、安心感と引き換えに思考を放棄してしまいたい。しかしフリージアは明日にデビュタントを控えている、もう大人であり王女なのだ。ならば、どんな状況も受け入れ、冷静に対処しなくてはならない。そう自分に言い聞かせた。

「代償があるからこそ、父上は私に待機命令を出した。今は、父上と三将軍が魔法で応戦している」

　アルベルトは下を向き、両手拳を硬く握った。長めの黒髪で、表情を覆（おお）い隠しても、いつもとは異なる苦しそうな様子と、悔しさが染み出している。

　重大な場面で自分が蚊帳（かや）の外におかれている感覚。自分が未熟だからではないかという悔しさ。とはいえ何もできないもどかしさ。フリージアはアルベルトが抱える感情が少しだけわかる気がする。

　頭が良くなんでもそつなくこなす、完璧な兄。だからこその自信と醸（かも）しだす余裕、いつだってフリージアをからかう自由で奔放な兄アルベルトはどこにもいない。フリージアは初めて見る余裕ない兄の姿に、かける言葉など何も思いつかなかった。

　　　　　――いにしえの物語

　　　　　始祖（しそ）の女神は、平和を愛し

　　　　　黒の魔王を封印しせり

　　　　　焼けた世界に涙を流し

　　　　　六種の魔力を従者に託す

　　　　　　光と闇の「月の国」　

　　　　　　火と土の「太陽帝国」　

　　　　　　木と水の「花の王国」

　　　　平和は永遠に続きけり