第2話

シオside


 幼い頃から、感情を表に出すなと父さんに教えられてきた。

 感情なんて、この国を生き抜く上で邪魔だからと。感情は恐怖や危険を招くものであり、弱点にしかならないと。

 この国では、みんながそうやって自分を押し殺しながら、何とか社会に適応して過ごしている。


 だけど、カランだけは違った。

 

 あの厳格な母親に育てられたとは思えないくらい、よく笑ってよく泣き、よく怒る。

 曲がったことが大嫌い、考えるより先に行動、とにかく怖いもの知らずで危なっかしい女の子。


 誰がどう見ても異端児なのに、そんなカランのことを陥れようとする人は周りに誰もいなかった。いや、もしかしたら試みて失敗した人はいたのかもしれないけど、そもそもみんな、あまり彼女に近づきたがらなかった。


 それは彼女の母親が国家教育機関で働く上級国民ということもあるだろうが、それ以上に、彼女自身から滲み出るオーラや''見えない圧''に気圧されていたからだろう。


 彼女の振る舞いは、傍から見ると非国民のようにも思えるけれど、決してそういう訳ではない。


 むしろこの国の未来のため、母親への恩返しのため、そして僕を守るため、あの誓いの日から「工作員になる」という一つの夢を愚直に追い続けている。


 誰よりも真っ直ぐで、誰よりも信仰深く、誰よりも優しい女の子。

 

 僕はずっとそんなカランが眩しくて、少しだけ羨ましかった。


♔♔♔


 しかし大きくなるにつれて、父さんの言っていた言葉の意味が、段々と理解できるようになっていった。


 式国は、約100年前に大国から独立したばかりの新国家。その建国の経緯から、他国への不信感と独自性への執着が根付いている。

 特に隣接する日本に対しては、歴史的な影響力を拒絶するため、建国の理念として徹底的に対立的な立場を取るようになった。


 ただ閉鎖的な国家になるだけならまだしも、この国の将軍は日本を「経済力を持つ危険な敵国」として見なすと同時に、その技術力に強い関心を抱くようになる。

 その結果、式国は日本からの技術情報の入手を目的として、裏でスパイ活動を強化し始めたのだ。

 ちなみに、日本でスパイ活動を行う工作員は「シノビ」と呼ばれるエリート的存在で、カランが最も憧れを抱いている職業である。




 ……いや、どう考えても異常すぎるだろ。


 

 僕の父さんは、日本を監視するための通信機器に携わるエンジニア。そして母さんは、何百人もの工作員を治療してきた、国家指定病院の医者だ。

 

 物心ついた頃から両親の会話を盗み聞きしていれば、この国がおかしいことなんて嫌でも分かる。特に母さんは、工作員たちがどれだけ国家から蔑ろにされ、「兵器」としてしか見られていないかを、いつも父さんに悔しそうに話していた。

 

 国の現状を知ってしまった今、昔のようにカランの夢を心から応援することは出来ない。だからといって、全てを彼女に話すことなんてもっと出来ない。

 完全に国を信じきっている彼女にこんなことを話せば、僕や僕たち家族が政府に通報されてしまう可能性があるからだ。


 何より、ただ純粋に夢を追っている彼女に、こんな残酷な事実など言えるはずがなかった。


♔♔♔


 ある日、学校から帰ると、なんだか家の中に妙な空気が漂っていた。

 あまりにも静かすぎるし、両親はいつもいるリビングじゃなくて書斎にいた。

 父さんが無言で俺を手招きすると、僕は言われるままに部屋に入る。ドアが静かに閉まる音が、やけに耳に残った。


 父さんがメモ帳とペンを取り出す。なんで?って思ったけど、ただならぬ雰囲気に押され、僕も声を出せずにいた。父さんがペンを走らせ、数秒後、僕の手に小さなメモが差し出される。



「1ヶ月後、私たちは日本へ亡命する」




 何?




 亡命?




 ………日本?



 一瞬、心臓が止まったかと思った。頭の中が真っ白になる。

 でも、そんな僕を待つ余裕もないかのように、母さんが急いでメモを取り、別の言葉を書き込む。


「誰にも言わないで。特にカランとイセンには」


 イセンとは、カランの母親の名前だ。彼女もまた、国家に忠誠を誓う一人。バレたらただじゃ済まないだろう。

 母さんの真剣な眼差しが、いつもと全然違う。声を出してはいけない。音を立ててもいけない。まるで、ここにも監視の目があるかのように、重い空気が部屋を支配していた。


 喉が詰まるような感覚に襲われて、何も言えない。ただ両親の目を見つめ返すしかなかった。


 すると突然、チリンチリンと、家の呼び鈴を鳴らす音が響いた。

 全員がビクリと反応する。もしや政府の高官?いやまさか……。思わず息を飲み、視線が一斉にドアの方へ向かう。


 次の瞬間、いつもの無防備で大きな声が続いた。


「シオー!いるー?」


 カランの声だ。一番……いや、絶対にこの場を見られてはいけない相手。


 母さんが無言で首を振り、父さんが慌てて手元のメモをビリビリと破く。僕の心臓は鳴りやまない。


「シオー?いないの?」


 僕は必死に深呼吸して、平静を装わなきゃと思うけど、体が固まって動けない。

 母さんが耳打ちするように低い声で「シオ、早く応えて。普通に振る舞って」と言う。


 僕は一瞬だけ呼吸を整えて、ドアノブに手を伸ばした。そして、今まで教えられてきたとおり、頭の中でスイッチを切り替える。表情を整え、声の震えを抑え込む。


 ドアを開けると、いつものカランがそこに立っていた。

「カラン!どうしたの?」少し驚いたふりを交えて、できるだけ自然に声を出す。


 カランは首をかしげて、俺をじっと見上げる。

「何よその顔、なんかあった?」


 ドキッとするが、父に教え込まれた通り、表情筋は一切反応させない。呼吸を浅く整え、「いや、ちょっと勉強してて集中してたから。どうかした?」と、声を落ち着かせて返した。


 カランは「なーんだ、相変わらず偉いねえ」と気を抜いたように笑い、気楽な様子で家の中をのぞき込む。


 僕は絶妙なタイミングで体をわずかにずらして、彼女の視界から両親のいる奥の書斎をさりげなく隠した。指先に微かな汗がにじむのを感じながらも、グッと堪える。


「ねえシオ、聞いて!」

「なに、どうしたの?」

「今回の学期末試験、私4位だったんだよ!まさかまさかの、本気で目指せば、シノビになれちゃったりするかも!」


 誇らしげに胸を張りながら言うカラン。


 ダメだ、ダメだよ、カラン。


 工作員なんて、危険な仕事でしかないんだよ。


 頼む、止めてくれ。止めてくれ。




 


 「……工作員なんて目指すもんじゃない。所詮は国の捨て駒だろ」


 気づけば、抑えられない思いが言葉になって口をついて出ていた。



 その瞬間、カランの表情が一気に凍りついた。目を見開いたまま、しばらくの間ただ僕を見つめていたが、次第に瞳が怒りに燃えはじめる。


「……は? シオ、自分が何言ってるか分かってる?」


 カランの声は震えていた。今にも殴りかかりそうな勢いで一歩踏み出し、顔を近づけてくる。


「この非国民が!」


 思わず息を飲んだ。自分の発言の重さを理解した瞬間だった。けれども、カランは止まらない。


「いくら勉強ができても国のために尽くせないんだったら意味がないだろ!」


 彼女の言葉は鋭く、さっきまでとはまるで別人の形相だった。


「この国が私たちを守ってくれてるんだよ?それに応えるのが、私たち国民の義務じゃないか!」


 僕は何かを言い返そうと口を開いたが、言葉が出てこなかった。カランの熱量に、何も言えなくなってしまっていた。


 「待って、カラン……」ようやくそう言葉を出した時には、もう手遅れだった。カランは鼻で小さく笑い、僕を突き放すような目で見た。


「あんたとはもう一生口を聞かない」


 彼女は一言一言、冷たく吐き捨てるように言った。


「幼馴染の縁を切る、これっきりよ」


 その言葉に心臓が締めつけられる。僕は必死に何かを言おうとするが、声にならない。ただ、彼女が去っていくのを見ているしかなかった。


「さよなら」


 カランは踵を返し、振り向くことなく立ち去ってしまった。

 

 

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