黄牛

畦道 伊椀

黄牛

 暗がりの調度を灯火が掬い出す。その陰に映りこむ二つの姿態。よじりあい、むず痒く一つになる。あるいは多少離れ愛撫し合う。するとひときわいっそうもつれ、そして静かに寄り添い合う。何かを気にして、息をひそめてささやきあう声。

「なあ俺たちはどんなめおとになるのかな」

「めおとなんだからきっといい夫婦になるのよ。」

また抱き寄せた柔肌。黒髪。なまじりに垂れかかる長い髪。


 さわさわと、清水が流れる音がする。頭のうえにもたれかかるえだ葉の群れ、木漏れ日がまばゆい乳のよう。せせらぎのそば、巌の上でうたた寝しているところをゆさゆさと揺らす誰か。

「親父、親父、」と。

 揺れた微睡み。影裡がさえぎる木漏れ日。目覚め始めた世界の中で、ゆっくりと輪郭を結ぶその正体。それがカクロの顔であるのには、早くから気づいていた。じきに成年を迎え、一人前になる、母親似の涼やかな流し目の一人息子。風流れる音、鳴く鳥のさえずりが鮮やかな耳。岩の上、身の上を起こして伸びをした。振り向くと傍らには膝ついた息子。

「今何時だろうな。」

「昼が終わってから、もう随分経ったよ。一体いつまで寝ているつもりだったんだ?」

「お前が起こさなければずっと寝ていただろうな。さて、魚獲りの続きをしよう。」

「もうすんだ。俺が残りを全部獲った。」

岩の上の枕もと、釣具をまさぐる親父の最中、息子はささと言って岩から飛び降りた。親父を放って、飛び散るせせらぎを攫って、びくを拾うと、おい茂る木々の合間に去っていった。早々と。親父の方は、足を挫くのが恐ろしくそぞろ、岩を下ると、足取りそのまま、我が子を見失わないようにその後に続いた。森の枝葉から地に落ちる木漏れ日、それが薄くなると、そろそろ森を抜ける。覆い被さるえだ葉もまばらに、代わりに広い空と高い太陽。野原に出たらそれからは上がったり下がったり、暫くは野面が続く。

 小高い丘が欠け落ちた、崖の脇に我が家を見つけた。伏したような家屋が低い。染みついた牛の糞の匂いがつんと鼻をさす。もううと鳴き声が重ね々ね聞こえてきて、息子の背中姿は、たった今その家屋の中へと消えていった。親父もたどり着けば、丁度戸で鉢合わせ。出ていく息子と入る父。すれ違いざま、「親父、魚をやっといてくれ、おふくろのところだ。」と、息子はそのまま牛舎に消えた。「俺は牛の方を見る」と。己れがこの春とりあげたばかりの、黄牛に夢中の一人息子。家に入ればぱちぱちと囲炉裏の向こう、寝床から身を起こしたばかりの妻の面影が、火の陰にゆらゆらと揺れる。

「サヨ、具合はいいのか?」

「ええ、大丈夫です。」

浮かんだ笑みに寄っていってから座る床。

「もう息子もすっかり一人前ですね。」

「まあ、そうかも知れん。今日も魚はほとんどあいつが獲った。」

と、妻が見上げた梁だった。

赤く嬲られながら暗がりに奥まっている。

「カクロもすっかり大人になりましたね。ここまで育てられてよかったです。」

「これからもずっと暮らしていくんだ。俺たち三人で。そうだろ?病なんてじき治るさ」

「そうですね、そうだといいですね。」

「そうなるさ、そうなるに決まってる。」

窓から差し込んだ日向がしんと明るい。暖かな陽だまりが煤で呆けた床板を洗っている。うっとりと、その陽だまりを眺める妻と、その横顔を見て取る夫。ぱちぱちと焚き火の音だけがしばらくは聞こえる。

「今思えば笑い話ですが、あの子が五歳のころ」妻の声色はあの床板を懐かしむよう。

「かまきりだったでしょうか、甲虫だったでしょうか、捕まえた虫を無闇に引きちぎって殺して笑っていた時は本当にどんな子になるかぞとしました。でも」優しい、働きものの子供に育ってくれてよかったです。という声色があまりに澄み渡って聞こえて、親父はその横顔から目を背けずにはいられなかった。妻ともに見つめる陽だまり。あの灼けた煤だらけの床板が、いずれ思い出になる日がやってくるの怖かった。

「さて、魚に始末をつけなければな。せっかく釣ったのにダメにしてしまえば、カクロに奴にどやされてしまう。」

そうして妻から背を向けて囲炉裏についた。そこに置かれていたびくから魚をとりあげる。干物にするために魚の腹わたをえぐり出す。えぐった腹わたは寄せてすり潰す。この背中は、一体奴からはどんなふうに見えているだろうか?頼もしく見えているだろうか?頼りなく見えてはいないだろうか?

 魚の始末がついた時、ちょうど息子が牛舎から帰ってきた。

「カヨは元気だ。冬越しも大丈夫だろう」

と囲炉裏に腰を下ろす息子。

「そうか。立派な牝牛になるといいな。」

「大丈夫さ。なんたってお袋から名前を貰ったんだから。」

「ああ、きっと気の強い女になるぞ。」

「お袋、もう寝たのか。」

「ああ。疲れたんだろう。なに、もう夜だ。寝かしておいてやればいい。」

「親父。カヨは俺一人に任せてくれないか」

「一人で、というのは少し無理があるな。なんたって我が家の大事な財産だ。それにあれはいずれ領主様に捧げなければならない。領主様は恐ろしいお方だ。責任は重大だぞ。」

「でも、俺だってもう一人前だ。子牛の一頭や二頭ぐらいちゃんと育てられる。俺が一人前にやっているところをお袋に見てもらわなくちゃ、お袋も安心して・・・ 、俺に嫁のあてを見つけえらえれないじゃないか。なあ、頼むよ、俺にカヨの面倒を任せてくれよ!」

「駄目だ。カヨは俺とお前の二人で育てる」

「親父!」

「一年だ!」張りあげた声が部屋中に響く。

「もう一年辛抱しろ。なにもお前を半端者だなんて思っちゃおらん。俺も、サヨも。いずれお前は立派に独り立ちする。それは誰も疑がっちゃおらん。だから焦るな。焦ることは誰も望んじゃおらん。俺も、もちろんサヨもだ。」

「・・・わかったよ」

うつむいたまま立ち上がる息子。

「大声出してすまなかった。お袋が起きるといけない。もう一度だけ、カヨの様子を見てくるよ。」

そう言い残して息子は部屋から出て行った。


 そして冬が来る。

 降り積もる雪こそまばらだが、空高く寒気が野に下ってきて、地の底までも強張らせる。彩が抜け落ちた枯野。仄暗い野面がどこまでも長い。冷えて磨かれた大気が遠く山々まで澄みわたらせる。深閑の森に振り積もるわずかな雪、それが枝を濡らす。強張った氷の水面を冷水が魚のようにくぐり抜ける。ひび割れた厚氷の裂け目から、河流が岩間を砕こうと雄叫びをあげる。厳しい寒さだ。毎年のことだ。だが、それでも命は生き続ける。蓄えた食物を日ごとに分け、わずかばかり日々の糧とする。己れの腹も慰めて、家畜を養い、火を絶やさずに遠く向こうの春を待ち続ける。

 三人親子のうち、病の母はこの冬を越すことができなかった。寒空の下、涙と汗を拭いながら父子は丸太を組み上げる。冬といえども亡骸は腐敗する。それをほうっておくわけにはいかない。凍えた枯野に丸太が組み上がればそれを燃やして亡骸を焼く。積雪はまばらだったが除けた。この頃には、父子の涙は疲れ果てて枯れている。夕闇も過ぎ去った。夜陰に吹きあがる焚火に、枯野は赤くなぶられる。牛舎から引っ張り出してきた子牛のカヨをかたわらにはべらせて、息子はあぐらをかいている。カヨのこめかみのあたりをずっと撫で続けながら、今は亡き母が焼かれ続けるのを見つめ続けている。焚火を映して、めらめらと燃えつづける瞳。うろたえることも背けることもなく、燃えあがる炎を見つめ続けている。


 今日は珍しく雪がつもった。納屋から引っ張ってきた梯子を軒にかけて、屋根の積雪を落としていく。家のまわりの雪を掻き出したあとも、水汲みの沢までの長い道のりを引き続き掻いていく。その日の昼いっぱいまで時間をつかった。食物の蓄えが日に日に貧しくなっていく。家畜に食わせるために、自分たちがこらえる日も設けなければならない。

 だが今年の冬は優しかった。きっとサヨのおかげだろう。仕事終わりに、西の空を見た。太陽は日に日に光輝し、寒さは早くに退いていく。沢の氷は解けてこぼこぼと清冽なみず音に変わる。見違えるように青い空、軽やかに流れる雲。新しく芽吹いた緑が清々しい。高い空から日差しが降り注ぐ野原を、子牛のカヨが嬉しそうに駆け回った。

 春の訪れだ。

 そしてすぐに新しく始まる仕事。冬の間に壊れた道具を直して、芽吹いたばかりの山菜を摘みにいく。森にだんだんと満ちていく命を、沢や隘路に罠をはって分け与えてもらう。先祖代々から受け継いできた畑を耕して、去年の秋の脱穀から逃した分の麦を撒き、世話は毎日欠かさない。その麦がようやく青くひとり立ちしはじめると夏がやってくる。

 命の盛り。青葉を覆すと死の匂いもする。うだるような暑さにやられている家畜の世話をしながら、麦が枯れないように面倒を見つづける。日に日に背丈の高くなっていく麦に割って入って、邪魔な雑草を抜きとっては,念入りに畑から離してまとめる。 

 額の汗をぬぐいながら、親父は西空におちていく太陽を遠く望んだ。あの向こうにサヨはいる。俺の親父もそう言っていた。あの向こう側にサヨは去っていったんだ。いずれ俺もそこへ行くだろう。ならば、せめてその日が訪れるまで辛抱して働こう。辛抱して、あとのことは息子とその家族に任せて逝こう。


 そしてやってきた実りの秋。小麦の穂むらをかき分けて潜りこんで、株の数がばらけないように数えながら鎌で麦を刈り取っていく。刈り取った麦は茎で束ねてひとまず足下に落としていく。たまたま並んだ息子と親父が、自然と競争をはじめた。麦を刈り取るのこそ若い息子が早いが、やはり束ねるので差がついた。それはまだまだ親父の方が早くて、結局、勝ったのは親父だったが、親父の方でも、まさか息子がこんなに早く仕事が出来るようになっているとは思っていなかった。それは今年の春からずっと感じていたことだ。少し前まで虫を捕まえて遊んでいた小僧が。気がつけばもう一人前の立派な男になっている。時が経つのは何と早いことだろうか。気がつけば、今年ももう秋が終わる。


 そうなればいよいよだ。今年の冬が終ったらあいつに嫁を迎えさせよう。そしてその頃には、牛のカヨも領主様に捧げることができているだろう。


 収穫が終わって冬支度をはじめる仕事のある日。その日、カクロは朝早くから町へ出かけていた。冬支度に欠かせない買い物だ。息子一人きりを町に行かせるのは初めてのことだったが、なに、もう奴も一人前だ。心配することはなにもない。だが一方親父の方では、今日しなければならないことはとうの朝に住んでしまった。手持ち無沙汰だ。そうだ、と思いついた親父。裏の薪積み場に回って、薪を物色し始めた。まだ割っていないものから順に、薪の種類を見極めて、小さく、なるべくすじ目がきめ細かいのを。ひとついいのを見つけて、それを鋸で切って細長く形づける。そして小刀で削っていく。研いであった。昔から、木工細工は大好きだったが、やるのはずっと久しぶりだった。この一年はやった思い出がない。サヨが死んで、そんな暇も余裕もなかったからだが、かといって今も暮し向きに楽があるわけではない。今だって息子は町で用を足している。だがまあいいじゃないか、親父も少しぐらいサボったって。


 今日はなにを作ろうか?そうだな、久しぶりにやるから親父の十八番がいい。となれば小刀のさやだろう。カクロの持っている小刀の新しいやつを作ろう。あいつも、これから嫁を迎えて一人前になるわけだから、新しいのが必要だろう。おお、この器材、思ったよりもずっと質が良くて扱いやすい。丁寧に手を加えてさえやれば、ちゃんとしたいいものに仕上がるだろう。久しぶりだが手も良く動いた。そんなこともあって、ちょっと始めるだけだったはずが、つい夢中になってしまう

 慣れた手つきで、器材を手のひらで流暢に扱いながら、小刀で器用に削っていく。小唄交じりに打っていたはずが、いつしかそれも消えうせて、真面目な目つきを、目の前に一心に注いでいた。だがふとした時、そんなにも夢中になっていることに気がついた束の間があった。ぽたり、と涙が木片に落ちた。こんなふうに工作をするとき、隣から俺の手もとをじっと見つめていたサヨがいつもそこにいたことに思い至ったからだ。だが流れ出る涙をそのままに、親父は小刀を容赦無くはしらせ続ける、もちろんサヨはもういない。もういないが、きっと俺たち二人のことを、いつも遠くから見守ってくれている。そのサヨに、死んで再び会った後も、悔いることがないような行いをこれからも続けよう。カクロの嫁はすぐ見つかるだろう。奴はお前にて男前に育った。それに何よりあの働きぶりだ。家は貧しいが、あいつなら、嫁のあてには困まらない。 

 ここまで立派に息子を育てることができあたのは、サヨ、お前のおかげだ。俺一人ではなにも出来なかっただろう。そして俺たちの宝物は、貧しい農民だが、今も立派に与えられた仕事を果たしているぞ。街のお偉いさんがたとは、ちがう。

 まあ、そういう親父の方は木の切れっぱしで遊んでいるだけなのだが。全く、カクロにはいつも助けられてばかりだ。と親父は独りごちして涙を拭った、それからはじっと黙って木工細工をし続ける。「出来た。」と、仕上げのやすりがけ、にす塗りも終ったらしい。仕上がったものを手のひらであれこれ弄びながら思いがけなく笑い、これは思ったよりもいいものができたと喜んでいる。

 そこにふっと人影が差し込んだ。座り込んでいた親父を上から人影が覗き込んだのだ。そいつのことをなにも考えずに見上げると、てっきりカクロだと思っていたのが、立っていたのは町の問屋の亭主だった。いつも世話になっている。それが青ざめた冷たい顔色をしてこちらのことを伺っている。何か様子が変だ。まるで何か親父にはいいづらいことでもあるかのようだった。

「どうした、何であんたがここにいる。カクロはどうした。」

笑顔から一変、何か苛立っているかのように眉をひそめた親父。もう日も暮れる。いくら何でもこんな時間になってまで帰ってこないなんておかしい。そんなこと、今のいままで気がつかなかった。だが、だからと言って眉をひそめる自分もおかしい。それじゃあまるで何か大事に至るようなことが起こったかのようじゃないか。こんなことで親しいものに顔をしかめるのは良くない。打って変って表情を和らげた親父。努めて笑顔を心がけ、自分には何も不安や苛立ちがないかのように振る舞った。

 だが、その振る舞いこそまさに不安や苛立ちの証しだった。なぜここにいるのがカクロではないのか?カクロは一体どうしたんだ?そんな悪寒が這い上がってくる背筋をごまかして、努めて丁寧な言葉がけで、目の前で突っ立っている亭主に再び聞いた。

「カクロはどうしたんだ?まだ町にいるのか?まあ、あいつも若い。どこかで油を売ってるんだろう。そうだ、俺も仕事が終わってな、ちょっと気休めに木工細工をしてたんだ。今度カクロに嫁を見つけようと思っていてな。だから新しい小刀の鞘を作っていたんだ。ほら、見てみろよ。手慰みに作ったにしてはなかなか上手くできているだろう。ほら、どうした?何か用事があるんだろう?俺とあんたの仲じゃないか。言いづらいことでも、そう固まらずに、ほら、言ってみろよ。」

 亭主の方は親父の笑顔から逃げるように目をそらした。そらしたまま、何かを告げようと口を開いたが、ポカと唇が空いたまま動かない。だがしばらくすると窄んで、そこで小さくボソボソと何かを呟いた。親父の耳にはその中身が異様に感じられ、「え!」と大きな声で聞き返したのだった。まさか「カクロが死んだ」なんて聞き間違えを受け入れるわけにはいかない。亭主は本当は何といったのか、それを言葉がはっきりとするまで問い直さなければ。


「だから・・・カクロが死んだっていったんだよ。」

今度の言葉はっきりと聞こえた。亭主は開き直ったようにまっすぐこちらを向いて、いい加減聞き取ってくれと文句でもあるかのように告げた。小首をかしげて白んでいく親父に向かって、ぽろぽろと言葉を継いでいく。途中、親父から目をそらしたり、反対にまっすぐ見つめたり、瞳は色々と揺れ動いていた。「カクロも運が悪かったんだなあ。領主様の行列があったんだよ。おれと二人きりで話している時だった。その行列がお通りするところに子供が飛び出してきたんだ。領主様は惜しみないお大尽でもあらせられるが、ほら、厳しいお方でもあるだろう。いつものように行列の邪魔をした子供を切って捨てようとしてな。俺はカクロとその様子を見ていたつもりが、いつの間にかカクロはそこに飛び出しちまったんだ。カクロは若いから、領主様についてよく知らないからなあ。何とかなると思ったんだろう。カクロは頭をさげた。子どもよりも低く。子どもの頭を押さえてな。でもカクロ一人が陳謝したぐらいで気が変わる領主様じゃないだろう。むしろ引き下がらないカクロを無礼と見なして、カクロも子供と一緒に斬り伏せられたんだよ。」

斬り伏せられるとき、カクロはかなり抵抗してなあ。領主様の戦士もかなり痛めつけられた。でも結局は組み伏せられて、まあそこからは酷い話になるから父親のお前に言うのは控える。俺は一部始終を見ていた。カクロはその・・・なにも吐かなかった。領主様は色々と詰問したが、カクロは口を割らず、親父であるお前のことも、何をしに町へ来たのかも、何も言わずに死んでいった。その・・・遺体だけは後でこっそり俺が引き取った。お前に見せるべきじゃないと思ったから、町の方で焼いて、遺骨にしてこちらに持ってくるつもりだ。先んじて知らせに俺は飛んできた。もうじき遺骨もくるだろう。それまで俺も一緒にいようか・・・ああ、そうか。じゃあ俺は帰るよ。カクロはいい男だった。お前さんよりも、ずっと町のみんなに好かれていた・・・子どもは、なぐられたが、生きている。


 また、花を手向けさせてくれ。それは春になるだろう。その時まで・・・達者に生きろな。


 冷めた囲炉裏にあぐらをかいて、目を瞑ってじっとまぶたの裏の暗黒を彷徨っていた。翌日。囲炉裏の向かい側にはカクロの遺骨がある。窓辺から差し込む日差しが明るい。日向は骨壷の白い上薬のうわ辺を滑り落ち、ニスがはげた炉枠を陽だまりで浸している。過ぎていくのは時ばかり。窓を開けたら『息子が死んだ』という事実が過ぎ去ってくれていたらいいのにと願いながら、そんなことがあるはずがないとまぶたの裏を涙で濡らした。そうしたままを瞑っていても、とめどなく溢れる涙。

 家屋を揺らさんばかりに牛舎からカヨの鳴き声が聞こえる。昨日の夜から、餌も何も与えていない。カクロが一所懸命育てた牛が腹を空かせている。何かを食べさせてやらなければ。牛舎の中に入ると、だいぶ散らかっていた地べただった。ひざまずき、あたり一面の藁をかき集める。一通り集め終わった藁を手に抱いて立ち上がった時、こらえきれず地面にたたきつけた。俺は雄叫びをあげた。

 何のために俺はカヨを育てるんだと、俺は叫んだ。あのカクロを殺した領主に捧げるためじゃないか。ふざけるな。そんなくそったれたことをしろというのか。ふざけやがって、人をコケにするのも大概にしろ。その辺りの農具をめちゃくちゃに投げ散らす。カヨや他の家畜に当たったところで知ったことか!お前達なんてどこかに行ってしまえ!結局、何もかも縛りをほどいて外に追っ払ってしまった。後のことはもう俺が知るか!領主が取り立てに来てもカヨはもういない!その時、俺を殺すなら殺せ!八つ裂きにするなら俺を八つ裂きにしろ!もう命など惜しくも欲しくもないわ!俺に残されたのは俺一人だけ!俺から奪えるものは俺だけだ!だからとっとと奪いにこい!俺から俺を奪いにこい!それがお前達に残されたたった一つの温情だ!俺から俺以外の全てを奪ったお前達が唯一できる憐れみだ!だから・・・早く・・・早く俺から全てを奪い去ってくれ・・・

 炉端は冷え切った。しんと闇が透き通る。そこで白い灰のように凍えていた。枯れた目の隈に涙がにじんでいる。向かいの骨壷は何か語りかけたいことでもあるのか、ずっと闇に沈黙していた。あれから幾日たっただろうか。領主の使いはまだ俺を迎えにこない。

 今日だ。今日こそ俺を迎えにくるはずだ。そう願いつつじっと朝を待つ。やってきた朝。まだ領主は迎えにこない。気がつけばもうすっかり冬になってしまっていた。このままでは、ここで凍えて死ぬばかり。心臓が不気味に高鳴るわりに熱を感じない。炉に火をいれなければ、この高鳴りは冷えたままだ。薪を集めるのは辛いが、冷えて死ぬのは避けなければ。

 お前達が早々に迎えて旅立った西の空。死。それが俺にももうじきやってくる。気がつけばびっこを引き引き外に出て、散らかった粗朶を集めていた。二人の残した守るべき場所を、感情に任せるままにめちゃくちゃにしてしまったなあ。昔からの悪いくせだ。せめて炉に火を入れなくてはならない。どうしても、カクロにだけは笑われたくない。それにあいつだって寒いだろう。こんなことにも、気がつかなかった。俺はダメな男だ。自分の家族を守れなかった。負け犬だ。それでも火を入れて、たった一人でも火の番を続けなきゃならない。あの二人のいた場所のともしびを。たとえ領主に奪われる日がやって来る限りのことだとしても。きっと親父ならそうする。

 だが気がつけば頰に地面が密着していた。倒れて、地面にぶつかってしまったらしい。頬骨が地面を撞突して、摺りつぶれているところから身動きが取れない、そこからちょうど、朝を迎えてだんだんと明るくなる仄暗い西の空が見えた。ああ、俺も死ぬのか。すまないなあ、サヨ、カクロ。親父は生きていくことができなかった。お前達を失って、独り生きていくことはできなかった。生きていた方がずっといいはずなんだけどなあ。お前達にはずっと支えてもらっていた。支えてもらってばかりで、お前達には何かしてやれたかも分からない人生だった。ごめんなあ、親父はもうダメみたいだ。お前達の分も生きていかなきゃならないのにごめんなあ。

 その時、西の空を遮る大きな影が立ちふさがった。牛のカヨだ。立派な頭から豊かな尻まで、あめ色の体を朝まだきに威風堂々晒すカヨの姿がそこにはあった。戻ってきたカヨは俺の目の前に横向けにして立ちふさがったのだ。

 もううという鳴き声が、地鳴りのように朝まだきの張り詰めた大気を揺らした。なんでお前は戻ってきたんだ、カヨ。もうカクロはいないんだぞ。お前だってわかっているはずじゃないか。もし俺のために戻ってきたというのなら、今すぐ引き返せ。俺はお前みたいな立派な牝牛の体や命を領主に売り渡してまで生き残ってもいいようなやつじゃないんだよ。カクロもサヨも俺は守れなかった。守れないどころかあの二人のいた場所をめちゃくちゃにして荒らしてしまった。家財もない。そんな俺に、お前を犠牲にしてまで生きる価値はない。それにもう、俺には立ち上がる力がない。


「私のお乳を吸って」

 

 カヨの声が聞こえた気がした。冷たい地べたにめり込んだ頰を上擦らせてカヨの方を見た。カヨは相変わらずもううと肚に響き渡るような声で鳴くばかり。目の前にはカヨの豊かな乳房。つぶらに垂れた乳首。そんな馬鹿なことを言うな。お前から乳が出るわけがない。お前は子牛を生んだことがないだろう。そんなお前の大事な乳首を俺が吸ってなるものか。俺はこの冬を乗り切ったら領主に引っ捕らえられて殺されるばかりの命。その代わりに、お前がなるとでも言うのか。そんなことは俺が絶対にさせない。死ぬのは俺だ。頼むからお前は生きてくれ。この場所を引き継ぐ資格があるのは俺ではなくお前なんだ。 だってどうみてもお前が一番立派じゃないか。その大きな頭、豊かな腿、何よりその美しい色。領主なんかに渡してたまるか!いけ!俺のことなんて見捨ててどこか遠くにいってしまえ!そんなふうには、もう鳴けなかった。それでもカヨは過ぎ去らない。はらわたに響き渡る声もやまない。そうしているうちに、地に着いた膝がどんどん冷たくなっていく。膝からも頰からも、死の寒気が登ってきて全身を硬直させていく。

 待っていたぞ、さあ、早く登りきれ。そうすれば俺の代わりにカヨは死ななくてすむ。お前が全身に満ち満ちた途端、俺は奈落の底へと叩き落とされるのだ。さあ、やってこい!すぐにやってこい!これで俺は解放される!怨嗟、労苦、失望、諦念。そんな重たい肉を背負ってこの世界を生きていくことから解放される。俺の肉体はいずれ獣に食われ、糞になり、土になり、この俺が生きて踏みしめていた大地の草々の糧になる!そしてカヨ!きっとお前がその草々を食って、俺はお前の肉になるのだ。お前の肉体には俺達の肉が宿る。お前はその重さを豊かな腿に引き受けて、たくましい蹄で地を蹴ってどこまでもどこまで進んでいく!ああ、それはなんと豊かな世界だろうか!なんと美しい世界だろうか!不意に目が上擦った。死が体を軋ませて眼球が上に転がったのだ!いよいよ五体が崩れてきた!四肢がつむじ風に回る枯れ葉のように散逸していく!

ああ、俺は本当に奈落の底に落ちるんだな。これが本当の奈落なんだな。俺は初めて知った。


 だがなんだろうか、あの光。上で何かが点灯している。灯りのようだ。あの明るい優しげな目はなんだろう。一体誰の目なんだ。あんなにも優しい目をして死にゆく俺を見つめるのは。悲しいはずの目だ。悲しい目をしていた。俺が死ぬのを心の底から悲しんでいる。なのに、それを全部受け止めて、ただ俺に優しい眼差しを向けている。

 じいっと黙って。あれは、人の目じゃないな。あれは言葉になんて出来ない。

 ああ、嫌だ。そんな目で俺を見るな。奈落になんて落ちたくない。あんなにも俺に優しくしてくれる目が、たった今この時、俺の目の前にあるのに、奈落の底には落ちたくない。引き返そう、引き返そう。だがここからが大変だろう。どうか保ってくれ。そうして、卵に飛び出していく精子のように首を振りながら、無我夢中であの目めがけて飛び込んだ。口をぱくぱくさせながら、必死にあのつぶらな乳首にむしゃぶりつこうともがいた。口先に蕩けるような優しい感覚が当たった。ここだ!ここに俺を生かしてくれる命の乳があるんだ。吸い付くとつぶらな気持ちが口いっぱいに満ちた。唇をすぼめてぐびぐびと一心不乱に吸い付いた。吸い方なんて忘れた。口いっぱいに甘酸っぱい命のもとが流れ込む。もどかしい喉をうごめせて、一生懸命飲み込もうとした。うまくいかず口から吐き出してしまいながらも、それでも喉元を凝らし続けた。ある時、それが突然喉を超えた。吹き出した水のようだった。乾いた砂が水を吸うように、ぐびぐびと首元から下へと融けていった。潤いに満たされて体がなくなりそうになる。だがそうか、俺には体があったんだ。四肢の感覚が蘇り、繋がった五体の両手で土を掴んで、枯野に額を擦りつけて匂いをすすった。草のかけらがついた唇、吸いたての乳で濡れていた。強く瞑ったまぶたから零れ落ちる涙。死ねなかった。死ねなかった。と泣き叫ぶ。だが泣き叫びながら、たぐり寄せたカヨの腿を這い上がって、その背中を捕まえて立ち上がった。カヨを連れて早くここから逃げなければ。家の中を転がりながら這い回って、持てる限りの荷物をありたけかき集めた。だが外に出ればカヨはいない。うなじに触れる、もううという彼女の鳴き声。恐る恐る振り向くと、それは牛舎から聞こえてくるらしい。とつとつした足取り。あの時垣間見たあの優しい眼差しを思い出していた。

 牛舎にはカヨがいた。いつもの木柵の向こうで、あの優しい眼差しのまま残り少ない飼葉をもぐもぐと食んでいるカヨの姿がそこにはあった。崩れ落ちる膝。背負っていた荷も転がり落ちる。ああ、カヨ、お前はなんて優しい目をしているんだ。なんて憐れみ深い目をしてるんだ。お前よりも優しい眼差しは俺には出来ない。お前のように痛ましい思いを背負って生きることは俺には出来ない。本当はお前の方が生きていた方がいいのだ。本当はお前の方が命を噛みしめて生きていける生命なのだ。牛舎のうわ辺から差し込む朝焼け。それがカヨのあめ色の背中を濡らして神々しく輝いている。その光景から背を向けて、親父は牛舎を後にした。土間から上がり、囲炉裏を越えて、部屋の隅に向かい、その煤で汚れきった床板に口をつけ、唇で吸って、ありたけの思いでそれを濡らして抱き寄せた。かつて妻とともに思いを馳せたこの床板を。俺たちの暮らしにひっそりと佇んでいたこの床板を。


 そして春がやってきた。カヨは領主に捧げられ、春の贄として祭壇の上で引き裂かれた。囲炉裏にはまた新たな火が灯る。その炎を家に移して、親父たちの全てが詰まっている家屋と牛舎を全て焼き払った。領主様からたまわった金銀で新しい家を建て、新しい妻を娶り、新しい子をなして、新しい家族を作った。庭の隅に据えられた三つの墓石には、新しい妻子がいる今となっては偶に寄って偶に手を合わせるだけになっていた。


 新しく買ったつがいの牛からまた新しい子牛が生れる。燦々とした日差しが降り注ぐ野原を、子牛と子供が駆け回っている。幸せそうにそれを眺める隣の妻の肩を親父は抱いて、しばらくは同じ眺めを見つめ続けて過ごしたその日の昼。

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