第14話 幸せの日々
リエリーは何をするでもなく、離宮の庭園にある、
『
言葉を話そうとすると、喉の奥が
自分はどうしてしまったのか……
このままでは王女としての務めも果たせず、ただでさえ何もできないのに、お父様に迷惑を……
そこまで考えると、なんだか頭がぼうっとして、思考が途切れてしまう。
どうにかしなければと胸のなかに不安はある、それなのに、体も動かない、頭も動かない……
シオが、実はお伝えしたいことがあるのです、と穏やかな口調で言った。
なあに?と答えると、シオは「乗馬することを考えると、姫様は怖いですか?」と、セウヤ殿下の事故で落馬を見た、だから乗馬に抵抗はあるかと尋ねたきた。
今は何もする気が起きない、だから乗馬を想像しても疲れる感じがするだけだった。いいえと答えると、シオはお手紙を預かっております、と意外なことを言った。
「誰のお手紙かしら」
「アツリュウ様から」
あまりの驚きに息が止まった。
シオと繰り返し呼んで、すがりついた。日傘が落ちて、シオは両腕で抱えてくれた。
「どうしよう、シオ、どうしよう、どうしよう」
シオは少し笑って、大丈夫ですよと背をさすってくれた。
何に困っているのか、自分でも分からない。でも心がザワザワして、今の自分にはそれはあまりにも強い感情で、とても受け止めきれなかった。
長い時間がかかったけれど、シオに励まされて、なんとか手紙を読むことができた。
【彼女の名前は『お嬢さん』です。
人間の年にすれば70歳くらいのおばあちゃん馬です。
穏やかで、賢い馬です。
指示をよく聞きますが、彼女も年ですから、疲れることはしたくないのです。
だからけして駆け出したりしません。
彼女はのんびり歩きますよ。】
お嬢さんだけど、お婆ちゃん?
「セウヤ殿下が、姫様に乗馬をしてみてはどうかと。それでアツリュウ様が付き添ってくださるそうです。あの方は
この手紙を読んだ晩から熱が出た。
熱はすぐに引いたが、3晩ほど寝込んでしまった。
体が起こせるようになり、なんだかとても寂しかった。
あの手紙を読んだ後、即答で無理ですと断ってしまった。乗馬ではなく、彼に間近で会うのが怖かった。どうやっても無理だと思った。
もう日課のようになるほど、気が付くと手紙を繰り返し読んでいる。
寂しいと思った。涙がこぼれて落ちた。
何が寂しくて何が悲しいのか分からないけれど、離宮に来て初めて涙が出たと思った。
シオが、明日
乗馬はしないで、人払いをした誰もいない厩舎で、『お嬢さん』を見ましょう、と。
それなら大丈夫!と返事ができた。
その晩は夕食をいつもより食べることができて、シオが喜んだ。
その日の朝、シオはに乗馬服を着せられた。厩舎に筒着物では参れませんとシオは譲らない。
帝国式の乗馬服と乗馬
何かおかしい気がする、と行先に違和感を感じた時にはすでに遅かった。
行先は厩舎ではなく、柵の囲いのある広い馬場だった。
馬場の入り口に、1頭の馬と人々が見える。
従者や護衛と思われる男性5人ほどの中に、すぐにその人を見つけた。
馬に向いていて、背中が見える。
胸に苦しさが広がって、顔を伏せた。引き返そうとしたら、シオが強く手を引いて、ぐいぐい引っ張る。
シオひどい、私をだました。ひどい、ひどい、と心の中で怒ってみるが、馬場に着いてしまった。
ぎゅっと目をつぶって、うつむいていた。怖くて顔をあげられない。
シオが繋いでいた私の手を、馬の首に導いた。
お嬢さんは黒い大きな目で、私を見ていた。
とても静かな眼差しで、一目で彼女が好きになった。
彼女は今まで自分が見て来た馬と、あまりに違った。
とてもぼさぼさだった。
今まで自分が乗っていた王室用の馬とは全く違っていて、素朴でなにも飾られていなかった。
栗毛で額に少し白い毛があった。撫ぜているうちに気持ちが落ち着いてきた。
シオが乗馬してみましょうと、てきぱき動いて、踏み台から馬の背に跨った。
どうしてもアツリュウを見るのが怖くて、うつむいたままでいた。彼が引き綱を引いて、ゆっくり馬場を回った。
お嬢さんの背には、つかまる持ち手があり、そこを握って、揺られていた。
入口の人びとから離れ、広い馬場の中でお嬢さんと彼と私だけになってしまった。
息を吸って吐いて、そうっと、伏せた目をあげて、彼を見た。
護衛官の制服ではなくて、黒い簡素な動きやすい服装に、乗馬靴を履いていた。
短く切りそろえられた、少しだけ癖のあるゆるく波うつ濃い茶の髪。
彼の肩がすぐ近くに見えた。細身に見えるけれど、鍛えられた
彼はあの日のように私を見てくることはなかった。
だから、彼の背中をずっと見ていた。胸が苦しい。ぎゅうっと胸の中を握られるみたいになる。
彼も馬みたいに、何も話さず振り返らず、ただ歩いていくだけだった。
どれくらい揺られたか、呼吸が落ちついてきて、遠くを見ることができるようになった。
秋の空は曇っていて、雨をつれてくる風が吹いた。遠くに木の葉が風に舞うのが見えた。
風に当たって少し気分がよくなってきた。あんなに緊張していたのに、だんだんまたぼんやりとしてくる、不思議な安心感に包まれたまま、このままずっと乗っていたいと思った。
お嬢さんの頭が上下に動く。彼女はお婆さんなのだ。疲れたりしないかしら?と目をやると、それきり視線はお嬢さんの
普通の3倍はあるくせっ毛の
馬場を何週か回って、下馬すると、めまいを覚えシオに寄り掛かった。
気分がすぐれないのかと、シオが心配そうにする。
せっかく乗馬の機会を作ってくれた彼に申し訳なくて、なんとか、思いつく言葉で、シオの耳元にささやいた。
「アツリュウ様、姫様は
「たてがみに、酔う?」
今日初めて彼の声を聞いた。そして彼はお嬢さんに話しかけた。
「お前のたてがみは確かに変な揺れ方をする。これを見ていたら確かに船酔いみたいになるかもしれない」
彼はシオに丁寧な言葉で詫びて、次回は
彼の「次回」の言葉が、くすぐられたように胸そわそわさせた。
毎日部屋を訪ねてくれる兄が、また乗馬したいかと聞いてくれた。
兄をちゃんと見て「はい」と口の形を作ることができた。
次に馬場でお嬢さんに会ったとき、リエリーはその姿を見るなり「まあ、お嬢さん!」と心の中で大きな声が出た。
彼女の鬣は大きなお
アツリュウが
この固い毛を何とかまとめて結ばれた、
「お嬢さん、とっても可愛いわ」そう心のなか告げた。
「お嬢さん、姫様が褒めてくださったぞ」
驚いてアツリュウをまともに見上げてしまった。
私今、声に出していないのに、どうして分かったの?
一瞬だけ、琥珀の瞳と視線が交わった。彼はすぐお嬢さんに視線を移した。
乗馬の日が、待ち遠しくなった。
週に3度ほど、その日はやってきて、もう5回乗馬した。
リボンを作る楽しみもできた。部屋でシオと一緒に、レースを編んだり、刺繍をしたり、可愛いリボンをたくさん作った。
乗馬が終わると、厩舎でお嬢さんが体を
アツリュウは流れるように世話をする。それが終わると、お嬢さんのお団子にリボンを結ぶ。
アツリュウが、お嬢さんが動かないように手綱を持つが、リエリーが結ぶ間、お嬢さんはいつでも大人しかった。
心の中で、たくさんお嬢さんに話しかけた。話したいことは次々浮かんだ。
お嬢さんは大人しいのに、たまにアツリュウの頭の毛を優しくもぐもぐしようとする。彼が少年のように笑ってこらこら、とお嬢さんの鼻先をかいてやる姿を見るのが、とてもまぶしかった。
こんな時間を過ごしたことがなかった。
いつも、祖父はいつ
不安に押しつぶされそうになりながら、するべきことに追い立てられていた。
私はとても安心している。
いつも怖かったのに、大丈夫だと思える、守られていると感じる。
彼は絶対に話しかけてこない。
だから、何も話さなくていい。
それなのに、思っていることが伝わっている気がする。
彼は何も言わないけれど、何か起きればすぐに助けてくれる、それは揺るがない確信。
橋の
彼は私を見ていてくれる。
私を守っていてくれる。
頭で考えだすと、それはひどく独断的で勝手な決めつけに思えて、その考えを必死で否定するのだけれど。
それでも、初めて会った時から決まっていたことのように、私は知っている。
彼は私だけを見ていてくれる、と。
夏の気配を残したまま、秋が訪れた。
お嬢さんの背に揺られながら空を見ると、青く澄んだ空が高かった。赤いトンボがたくさん飛んで、時々アツリュウやお嬢さんの頭に停まった。
アツリュウの頭に2匹もトンボがとまった時、思わずふふっと笑ってしまった。
ふいに振り返った彼と目が合った。
けして振り返らない彼が、その1度だけ私を見た。
◇◇◇ ◇◇◇
兄の部屋に自分から訪ねて行った。シオを相手に何度も練習していたが、とても緊張した。
「兄様ありがとう。乗馬はとても楽しいです」
時間はかかったけれど、練習した通り、ちゃんと声に出してお礼が言えた。
兄はうなづいて、何も言わなかった。
手招きして、ここに来ておくれと、彼の車椅子の横の椅子に座らされた。
兄が頭を撫でてくれた。
「リエリーすまなかった」
何を謝られているのか、分からず、首を傾げた。
「お前はよくやってくれた。ありがとう」
兄が繰り返し頭を撫でてくれて、それがお祖父様をお世話してきたことなのだと思い当たると、視界がぼやけて、涙を止めなきゃと思うのに、どんどん溢れてきた。
必死で首を振った。
私は何にもできなかった。おじいさまに何にもしてあげられなかった。
「私は、生きてみようと思うんだリエリー。リュウヤ兄上がしていたように、父上を手伝っていこうと思う。シュロムのために、できることをしてみるつもりだ。兄上に
死にたいと言っていた頃のセウヤ兄を思い出した。
あれから、兄は変わった。こんな兄をリュウヤ兄に見せたいと思った。
泣き止まない私を見て、セウヤ兄が昔からお前は泣き虫だなあと、腕を広げた。その胸に体を預けて抱きしめてもらった。
リュウヤ兄さんが時々こうしてくれたと、寂しさと共に思い出された。
「リエリー、こんな兄で済まない」
セウヤ兄とは思えないびっくりすることを言われ、涙が止まった。
「私は、セウヤ兄様が大好きです」
言葉はちゃんと声になって届き、兄を笑顔にした。
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