第14話 幸せの日々

 リエリーは何をするでもなく、離宮の庭園にある、長椅子ながいすに座って、百日紅さるすべりの桃色の華をぼんやりと見ていた。


 『緑馬りょくばの月』の名をもつ9月、暑さの盛りを過ぎ、一雨ごとに気温が下がる。それでも日中は蒸し暑く、シオが日傘を傾けて日陰をつくってくれていた。


 言葉を話そうとすると、喉の奥がせばまって、熱くなって息を上手く吐き出せなくなる。

 自分はどうしてしまったのか……


 このままでは王女としての務めも果たせず、ただでさえ何もできないのに、お父様に迷惑を……

 そこまで考えると、なんだか頭がぼうっとして、思考が途切れてしまう。


 どうにかしなければと胸のなかに不安はある、それなのに、体も動かない、頭も動かない……


 シオが、実はお伝えしたいことがあるのです、と穏やかな口調で言った。


 なあに?と答えると、シオは「乗馬することを考えると、姫様は怖いですか?」と、セウヤ殿下の事故で落馬を見た、だから乗馬に抵抗はあるかと尋ねたきた。


 今は何もする気が起きない、だから乗馬を想像しても疲れる感じがするだけだった。いいえと答えると、シオはお手紙を預かっております、と意外なことを言った。


「誰のお手紙かしら」

「アツリュウ様から」


 あまりの驚きに息が止まった。


 シオと繰り返し呼んで、すがりついた。日傘が落ちて、シオは両腕で抱えてくれた。

「どうしよう、シオ、どうしよう、どうしよう」

 シオは少し笑って、大丈夫ですよと背をさすってくれた。


 何に困っているのか、自分でも分からない。でも心がザワザワして、今の自分にはそれはあまりにも強い感情で、とても受け止めきれなかった。


 長い時間がかかったけれど、シオに励まされて、なんとか手紙を読むことができた。


【彼女の名前は『お嬢さん』です。

 人間の年にすれば70歳くらいのおばあちゃん馬です。

 穏やかで、賢い馬です。

 指示をよく聞きますが、彼女も年ですから、疲れることはしたくないのです。

 だからけして駆け出したりしません。

 彼女はのんびり歩きますよ。】


 お嬢さんだけど、お婆ちゃん?


「セウヤ殿下が、姫様に乗馬をしてみてはどうかと。それでアツリュウ様が付き添ってくださるそうです。あの方は厩舎きゅうしゃにお勤めでしたから、馬の扱いはお上手だそうです」


 この手紙を読んだ晩から熱が出た。

 熱はすぐに引いたが、3晩ほど寝込んでしまった。


 体が起こせるようになり、なんだかとても寂しかった。


 あの手紙を読んだ後、即答で無理ですと断ってしまった。乗馬ではなく、彼に間近で会うのが怖かった。どうやっても無理だと思った。


 もう日課のようになるほど、気が付くと手紙を繰り返し読んでいる。

 寂しいと思った。涙がこぼれて落ちた。

 何が寂しくて何が悲しいのか分からないけれど、離宮に来て初めて涙が出たと思った。


 シオが、明日厩舎きゅうしゃに行きませんか?と誘ってくれた。

 乗馬はしないで、人払いをした誰もいない厩舎で、『お嬢さん』を見ましょう、と。


 それなら大丈夫!と返事ができた。

 その晩は夕食をいつもより食べることができて、シオが喜んだ。


 その日の朝、シオはに乗馬服を着せられた。厩舎に筒着物では参れませんとシオは譲らない。

 帝国式の乗馬服と乗馬くつを身に付けると、気持ちが少しはっきりしてきた。リュウヤ兄様がよく遠乗りに誘ってくれたことが穏やかに思い出された。


 何かおかしい気がする、と行先に違和感を感じた時にはすでに遅かった。

 行先は厩舎ではなく、柵の囲いのある広い馬場だった。


 馬場の入り口に、1頭の馬と人々が見える。

 従者や護衛と思われる男性5人ほどの中に、すぐにその人を見つけた。

 馬に向いていて、背中が見える。


 胸に苦しさが広がって、顔を伏せた。引き返そうとしたら、シオが強く手を引いて、ぐいぐい引っ張る。

 

 シオひどい、私をだました。ひどい、ひどい、と心の中で怒ってみるが、馬場に着いてしまった。

 ぎゅっと目をつぶって、うつむいていた。怖くて顔をあげられない。


 シオが繋いでいた私の手を、馬の首に導いた。


 お嬢さんは黒い大きな目で、私を見ていた。


 とても静かな眼差しで、一目で彼女が好きになった。

 彼女は今まで自分が見て来た馬と、あまりに違った。


 とてもぼさぼさだった。たてがみがくせ毛で、伸び放題。広がったほうきが首に載っているようっだった。

 今まで自分が乗っていた王室用の馬とは全く違っていて、素朴でなにも飾られていなかった。


 栗毛で額に少し白い毛があった。撫ぜているうちに気持ちが落ち着いてきた。


 シオが乗馬してみましょうと、てきぱき動いて、踏み台から馬の背に跨った。

 どうしてもアツリュウを見るのが怖くて、うつむいたままでいた。彼が引き綱を引いて、ゆっくり馬場を回った。


 お嬢さんの背には、つかまる持ち手があり、そこを握って、揺られていた。

 入口の人びとから離れ、広い馬場の中でお嬢さんと彼と私だけになってしまった。


 息を吸って吐いて、そうっと、伏せた目をあげて、彼を見た。

 護衛官の制服ではなくて、黒い簡素な動きやすい服装に、乗馬靴を履いていた。


 短く切りそろえられた、少しだけ癖のあるゆるく波うつ濃い茶の髪。

 彼の肩がすぐ近くに見えた。細身に見えるけれど、鍛えられた体躯たいくはとてもたくましい。手が体に比べて大きいと気づいた、手綱を持つその大きな手にとても魅きつけられた。

 

 彼はあの日のように私を見てくることはなかった。

 だから、彼の背中をずっと見ていた。胸が苦しい。ぎゅうっと胸の中を握られるみたいになる。


 彼も馬みたいに、何も話さず振り返らず、ただ歩いていくだけだった。


 どれくらい揺られたか、呼吸が落ちついてきて、遠くを見ることができるようになった。

 秋の空は曇っていて、雨をつれてくる風が吹いた。遠くに木の葉が風に舞うのが見えた。


 風に当たって少し気分がよくなってきた。あんなに緊張していたのに、だんだんまたぼんやりとしてくる、不思議な安心感に包まれたまま、このままずっと乗っていたいと思った。


 お嬢さんの頭が上下に動く。彼女はお婆さんなのだ。疲れたりしないかしら?と目をやると、それきり視線はお嬢さんのたてがみに捕まった。


 普通の3倍はあるくせっ毛のたてがみの塊が、右へ左へぼわんぼわんと揺れる、それが彼女の動きと連動せずに、別の生き物みたいに気ままに揺れる、何故だろう、目を離せない……


 馬場を何週か回って、下馬すると、めまいを覚えシオに寄り掛かった。

 気分がすぐれないのかと、シオが心配そうにする。

 せっかく乗馬の機会を作ってくれた彼に申し訳なくて、なんとか、思いつく言葉で、シオの耳元にささやいた。


「アツリュウ様、姫様はたてがみを見ていたら酔ってしまったとのことでございます」

「たてがみに、酔う?」

 今日初めて彼の声を聞いた。そして彼はお嬢さんに話しかけた。


「お前のたてがみは確かに変な揺れ方をする。これを見ていたら確かに船酔いみたいになるかもしれない」

 彼はシオに丁寧な言葉で詫びて、次回は善処ぜんしょしてまいります。と言って馬を引いて去っていった。


 彼の「次回」の言葉が、くすぐられたように胸そわそわさせた。



 毎日部屋を訪ねてくれる兄が、また乗馬したいかと聞いてくれた。

 兄をちゃんと見て「はい」と口の形を作ることができた。


 次に馬場でお嬢さんに会ったとき、リエリーはその姿を見るなり「まあ、お嬢さん!」と心の中で大きな声が出た。


 彼女の鬣は大きなお団子だんごが、ぽこぽこ生えたみたいになっていた。

 アツリュウがたてがみを結んだのだろう。


 この固い毛を何とかまとめて結ばれた、手毬てまりのような連なりが、あまりにも可笑しくて、でも可愛らしくて。お嬢さんに駆け寄った。


「お嬢さん、とっても可愛いわ」そう心のなか告げた。

「お嬢さん、姫様が褒めてくださったぞ」


 驚いてアツリュウをまともに見上げてしまった。

 私今、声に出していないのに、どうして分かったの?


 一瞬だけ、琥珀の瞳と視線が交わった。彼はすぐお嬢さんに視線を移した。



 乗馬の日が、待ち遠しくなった。

 週に3度ほど、その日はやってきて、もう5回乗馬した。

 

 リボンを作る楽しみもできた。部屋でシオと一緒に、レースを編んだり、刺繍をしたり、可愛いリボンをたくさん作った。


 乗馬が終わると、厩舎でお嬢さんが体を綺麗きれいにしてもらったり、水を飲むのを見せてもらった。

 アツリュウは流れるように世話をする。それが終わると、お嬢さんのお団子にリボンを結ぶ。


 アツリュウが、お嬢さんが動かないように手綱を持つが、リエリーが結ぶ間、お嬢さんはいつでも大人しかった。

 心の中で、たくさんお嬢さんに話しかけた。話したいことは次々浮かんだ。


 お嬢さんは大人しいのに、たまにアツリュウの頭の毛を優しくもぐもぐしようとする。彼が少年のように笑ってこらこら、とお嬢さんの鼻先をかいてやる姿を見るのが、とてもまぶしかった。


 こんな時間を過ごしたことがなかった。

 いつも、祖父はいつ癇癪かんしゃくを起こすのか、父はいつやって来て怒鳴りだすのか。

 不安に押しつぶされそうになりながら、するべきことに追い立てられていた。


 私はとても安心している。

 いつも怖かったのに、大丈夫だと思える、守られていると感じる。


 彼は絶対に話しかけてこない。

 だから、何も話さなくていい。


 それなのに、思っていることが伝わっている気がする。

 彼は何も言わないけれど、何か起きればすぐに助けてくれる、それは揺るがない確信。


 橋の欄干らんかんで、彼が自分を見つけてくれたあの時から、

 彼は私を見ていてくれる。

 私を守っていてくれる。


 頭で考えだすと、それはひどく独断的で勝手な決めつけに思えて、その考えを必死で否定するのだけれど。


 それでも、初めて会った時から決まっていたことのように、私は知っている。

 彼は私だけを見ていてくれる、と。



 夏の気配を残したまま、秋が訪れた。

 お嬢さんの背に揺られながら空を見ると、青く澄んだ空が高かった。赤いトンボがたくさん飛んで、時々アツリュウやお嬢さんの頭に停まった。


 アツリュウの頭に2匹もトンボがとまった時、思わずふふっと笑ってしまった。

 ふいに振り返った彼と目が合った。

 けして振り返らない彼が、その1度だけ私を見た。


                  ◇◇◇  ◇◇◇


 兄の部屋に自分から訪ねて行った。シオを相手に何度も練習していたが、とても緊張した。

「兄様ありがとう。乗馬はとても楽しいです」

 時間はかかったけれど、練習した通り、ちゃんと声に出してお礼が言えた。


 兄はうなづいて、何も言わなかった。

 手招きして、ここに来ておくれと、彼の車椅子の横の椅子に座らされた。


 兄が頭を撫でてくれた。

「リエリーすまなかった」


 何を謝られているのか、分からず、首を傾げた。

「お前はよくやってくれた。ありがとう」


 兄が繰り返し頭を撫でてくれて、それがお祖父様をお世話してきたことなのだと思い当たると、視界がぼやけて、涙を止めなきゃと思うのに、どんどん溢れてきた。


 必死で首を振った。

 私は何にもできなかった。おじいさまに何にもしてあげられなかった。


「私は、生きてみようと思うんだリエリー。リュウヤ兄上がしていたように、父上を手伝っていこうと思う。シュロムのために、できることをしてみるつもりだ。兄上にほこれるように」


 死にたいと言っていた頃のセウヤ兄を思い出した。

 あれから、兄は変わった。こんな兄をリュウヤ兄に見せたいと思った。


 泣き止まない私を見て、セウヤ兄が昔からお前は泣き虫だなあと、腕を広げた。その胸に体を預けて抱きしめてもらった。

 リュウヤ兄さんが時々こうしてくれたと、寂しさと共に思い出された。


「リエリー、こんな兄で済まない」

 セウヤ兄とは思えないびっくりすることを言われ、涙が止まった。


「私は、セウヤ兄様が大好きです」

 言葉はちゃんと声になって届き、兄を笑顔にした。

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