第10話 桃色のドレス

 夏の真夜中。嵐雨が降っている。


 ごうごうと風を鳴らし、窓をきしませる。

 強い風にあおられた雨粒が、硝子戸ガラスどに叩きつけられていく。


 真っ暗な部屋の、巨大な机の下で、リエリーは膝を抱えて、その音を聞いていた。


 お祖父様の意識が戻らない。


 もう今夜には……、と医師たちに言われて、今夜で3晩目の夜。

 いつ逝くとも知れない祖父の寝台の隣に寄り添い、離れずにいたけれど、もう限界だった。


 どうしても一人になりたくて、蔵書室の大きな机の下に隠れるように座っている。


 ああ、あのパーティーの後も、こんな嵐雨が降った気がする……

 あのドレスは薄桃色で、流行の肩が膨らんだ、可愛らしい形だった……


 14歳の誕生月に特別なうたげを父がもよおしてくれると言った

 嬉しかった。あまりにも嬉しくて父に抱きついてしまいそうだった。


 そんなことは母が亡くなった時にさえできなかったのだから、実際のところしなかったが、リエリーはその後から、足が地に付かないように浮かれた。


 10歳で別邸に移されて、祖父と2人の生活が始まった。

 もともと人見知りで、人と会うのが苦手だった。王女として特別な存在としてあらねばならない重圧を子供ながらに感じていた。


 されどある日、扉はパタンと閉じられた。

 苦手だと思っていた人々との交流、特に同年代の少女との関りが、自分の世界から完全に取り外された。


 祖父とこの館に居ること。それが父が私に課した務めだった。


 知らない大人に会うのが嫌だった、少女たちに囲まれて本音の分からない言葉を浴びるのも嫌だった。でも全くそれらが無くなってしまうと、10歳の少女が居るにはあまりにも空っぽで、寂しいを通り越し、それをなんと形容していいのかさえ分からなかった。


 あの日のことはよく覚えている。


 朝、夜明け前に起きて『隠れうさぎの舞』の練習をした。王女の自分には、14歳の誕生月に神殿に舞を奉納ほうのうする義務がある。4月の旧名『隠れうさぎ』その舞はなかなか激しく難しく、半月まえから特訓を受けていた。


 舞の練習が終わったら、急いで朝食、そしてお祖父様が起きてくる前に、王女としての教育を、教師達から受ける。

 礼儀作法に、教養、あの頃は帝国語を必死で練習していた。


 けれど、お祖父さまが起きたら即座に王女教育は停止され、彼の気まぐれにしたがって、様々に相手をする。


 経典の読み込み、神殿にほどこされた、彫刻、壁画の元となった神話の暗記、祭りの日程確認。

 あの日はお祖父様が作曲した、聖歌を次から次へと歌わされた。


 そして、午後も夕刻近く、決まって祖父が行くのが大神殿。

 館の隣にあるので、近くはあるが、それでもぐるりといつもの順路を回ると2刻は掛かる。あの日も、裏門の工事の進捗しんちょくを確かめて帰ったら、すっかり暗くなっていた。


 夕食をお祖父様と終えたら、そこから私の絶望的な時間が始まる。

 覚えなければならない。


 王女としてのたしなみも、おろそかにすれば父の怒りをかう。

 難解な聖典、神話、祭りの為の準備に関わる全て、それが頭に入っていないと、祖父もまた激高する。


 机にかじりついて、暗記する。朝までに、覚えてしまわなければいけない。眠っている暇はない。


 「どうしてできないリエリー」

 「なぜ、完璧に覚えられないリエリー」

 怒鳴られて、怒鳴られて、怒鳴られて……


 息がもう吸えない、走り続けて、息が苦しくて、もう息が吸えない。

 でも倒れたら、また怒鳴られるのだ。


 でも、あの晩は違った。

 私には、ドレスがあった。

 桃色のスカートのすそにはレースが施され、刺繍ししゅうの蝶があちこちに舞っている。


 シオと一緒に、生地を選び、形を選び、リボンを選び、お母様の形見の宝飾品の中から、合わせる物を選ぶ。誕生日の宴の準備のすべてが、キラキラして、心から楽しかった。


 王族は神に『舞』を奉納し、貴族諸侯を招いて宴をする。

 我が国の宴は皆でして、観覧かんらんするのが古来からの形。

 舞や、演奏やら、芝居やら、素晴らしい伝統芸術を、集った客に見せて振る舞う。


 けれど、帝国の宴『パーティー』なるものはおもむきがちがう。

 立食して会食し、そしてダンスするのだ。


 いまや上流階級の婦女にとって、この帝国式の『パーティー』で、最新式の帝国のドレスをお披露目ひろめすることが、憧れの象徴だ。


 リエリーの父が許してくれた特別な宴、それは同年代の少女を呼んで、特別なドレスを仕立てて、帝国式のパーティーをすること。リエリーにとって夢のような、きらびやかな世界にいけるのだ、しかも……


 主役は、このドレスを着た自分。


 あの晩は、パーティーを来週に控えて、すべての準備が整っていた。

 どうしても、ドレスを着たくて、夜の学習を放り出してシオにお願いした。


 姿見に映る自分。かわいらしいティアラ。

 でも、一つ問題があった。

 ダンスは練習したものの、相手がいなかった。


 帝国の文化が盛んになって半世紀、まだまだ東の果ての小国には、ダンスの文化が根付き始めたばかり。だからパーティーでは必ず踊らなくてもいい、踊れるものが同伴者を連れて、踊るのだ。

 リエリーに、ダンスを踊ってくれる同伴者は1人いた。


 リュウヤ兄だ。けれど、彼は留学中で、遠い西の果ての『南ルール―ド帝国』にいる。


 学院にこもって出てこないセウヤ兄はパーティーにすらこないのだから。

 来週ダンスをお願いできる人物はリエリーにはいなかった。


 自分が踊れなくても、招待した皆が踊るところを見るのは楽しみであるし、もしかしたら、誰か自分をダンスに誘ってくれるかもしれないし……

 14歳の少女の頭の中は、パーティーで起きるかもしれない、素敵なことでいっぱいに膨らんだ。


 「そうだ、お祖父様に見せてあげよう」


 どうして、あの時、そんなことを考えたのだろう。


 祖父の寝室で、彼はまだ起きていて、熱心に経典を読んでいた。

 ドレスのリエリーを見て、彼は奇跡的に怒らなかった。


 自分の頭の中の世界をおびやかす異質なものを見ると、彼は激高げっこうして取り乱す。けれど、あの晩祖父は、ああ可愛らしい、よく似合っているねリエリー、と微笑んだのだ。


 嬉しくて、たくさん話した。

 ドレスのこと、招待するたくさんの同年代の少女のこと、パーティーの帝国式の食事や演奏団のこと。

 そして、ダンスのこと。

 つれていく同伴者はいないけど……と。

 まさかその一言が、パーティーをあんなことにしてしまうとは思いもせずに告げてしまった。


 パーティの晩の光景は、忘れたいのに、繰り返し鮮明に脳裏のうりを占める。


 「捕まえろ、早く捕まえろ!」

 父の怒号。


 割れてちらばる硝子の破片。帝国式の高価なグラスから、こぼれた液体が床に広がっていく。


 キーキー笑って、走り回る祖父。

 捕まえようとして、走り回る従者や衛兵。丸い卓には白い敷布、見たこともない帝国式の料理が、さっきまで煌びやかに並んでいた。祖父が敷布を引っ張り上げて、料理は倒れて、落ちて、踏まれて、つぶれて……


 ひきつった顔で、壁際に集まる招待客。悲鳴を上げる少女たち。けれど、目の前の茶番に次第に皆が笑いだす。あまりにめちゃくちゃで、何もかもが壊れて、もう笑うしかないほどに。


「皆さま、本日はこの愛孫娘、リエリーの為に集っていただきありがとう」

 祖父の挨拶の始まりは、とても柔らかく、このまま事無く終わるのだと、父も私も切に願った。


 あの晩、パーティーが始まってまだ間もない時刻、王族の馬車に乗って、突然祖父が会場に現れた。

 父も、私も全く予期しておらず、内心大いに取り乱した。


 『水鳥の上様』は姿をおおやけに表さなくなって、もう数十年。重い病を患っていると人々には伝えられていた。その彼が、申し分ない正装に身を包んで、颯爽さっそうと孫娘の宴に現れた。少女たちの親である、上流貴族たちはこぞって挨拶を始める。


 止める間もなく、祖父は式辞を壇上で述べ始める。

 

「きたる200年祭は、シュロム王政の栄華の極み、大賢王ミコヴァナ様の御治世が永久に続きますよう、我ら全てで、心魂注いで成功させましょう」

 

 会場の皆が、あっけにとられて言葉もでない。しんと静まりかえった中、祖父が、目線をあちこちやって、何かを探す。


「陛下はどこぞ? ミコヴァナ様はいずこにおる? 陛下、陛下、200年祭は間近です。どうかそのお言葉を、シュロム王万歳……」


 あなたの代でシュロム王権は途絶えただろう。

 あなたがシュロムを終わらせた、当の本人。


 とっくの昔に、ミコヴァナ王は死んでいる。


 200年続くかに思えたシュロム王権は、あと1年足らずに、ビャクオムにその権威を譲る。

 200年祭は永遠に催されない。


 その祭りの準備を、祖父は彼の人生を捧げ、狂気の情熱ですべてを注いで、今なお続ける。

 その狂気が、衆目の前にさらされた。


「やめさせろ」

 父が叫んで、迷いながらも使用人たちが祖父を取り囲む。

「だめだよ、私はこれからリエリーと踊らなきゃいかんのだ。あの子には相手がいないいだから。私はそのために来たのだよ」


 結局、衛兵を呼ばねば、祖父は捕まらず。人々の目の前で罪人のように彼を取り押さえた。


 何という恥。

 何という失態。


 館に帰り、父はリエリーを問い詰めた。

 何故、祖父がパーティ―のことを知っていたのかと。


「ドレスをお祖父様に見せたかったの」

 言った瞬間、左頬に熱と強烈な痛みが走った。

 父に初めて頬を叩かれた。


 あの時の父の顔は覚えていない。

 あまりに恐ろしくて、真っ黒に塗りつぶされて、声だけが頭に残る。


「どこにも出るな。何もするな。何も喋るな」

 

 あのパーティーでお友達ができるかしらと思っていたの……

 みんなでドレスを見せっこして、仲良くなったら、お茶会を開いてお招きするの……


「おまえはここにいて、あれの相手をしていろ、それがお前の仕事だ、分かったか!」


 終わってしまったパーティー、もう2度と開かれない。

 あるのは、父と祖父の怒鳴り声、怒鳴り声、怒鳴り声……


 暗闇の中、窓の向こうで、風にしなった枝がザワザワと鳴る。

 

 もうすぐ、お祖父様は死ぬだろう。

 悲しむべきなのに、ああやっと、自分は楽になれるのだ。そう思うことを止められない。

 それでいて、怖くてたまらない。


 頭の上には巨大な机。そこでかつて、自分と祖父は大神殿内部の見取り図を広げ、200年祭の計画を練った。参列者の席順を祖父は熟考じゅっこうして決めていく。もはや代替わりして久しい旧当主の名を、リエリーは指示されるままに書き込んでいく。


 当日の式典の流れも、すべて暗記している。大神官の挨拶、陛下のお言葉、祝辞を述べる諸侯の順番、祖父が作曲した聖歌、儀式の舞……


 この机の上で、祖父と祭りの準備をしながら、輝く祖父の目を見ていると、錯覚さっかくしていく。

 本当に200年祭はあるのだと。


 祖父が死んだら、自分は何をして生きていくのだろう。

 この6年間、限界まで詰め込んだ、200年祭の準備の他に、私の体に入っているものなどない。


 私は祖父が死んだら空っぽだ。


 祖父にもう逝って欲しいと思っている。

 けれど、この世で祖父が、私の生きる意味になってしまった。

 彼が死んでしまったら……


 怖くなって立ち上がった。

 机の上には己が作った星座が広がっている。されど闇の中、星は一つも見えない。


 部屋を探して、ろうそくを1本灯す。


 星を探した。

 鯨の心臓。

 兄が取ってしまったが、もう一度置いた橙色の金平糖。


 自分で並べたはずなのに、探しても見つからない。

 彼の瞳が、あの日からずっと脳裏を離れない。


 どうしてもう一度彼を見たいなどと願ったか。

 瞳と瞳が結ばれたあの日から、彼に会いたいと願う自分を止めれれない。


 私が何かを願うなど、許されることではないのに。


 どうしてなのか分からない、だけど、ただ会いたい。会ってあの瞳を見たい。


 鯨の心臓。

 彼の心臓。

 見つけたその粒をそっと持ち上げる。

 指先で転がす。


 少しだけ気持ちが落ち着く。

 そのまま。口元に運んで行って、唇に当てる。

 金平糖の小さな突起が触れて、柔らかく唇をつつく。


 口を開けて食べようと……


 叫び声をあげた。

 信じられないほどの大声をあげて、リエリーは叫んだ。

 金平糖とろうそくを放り出し、床にへたり込んだ。

 床に落ちたろうそくが、床を小さく照らしてすぐ消えた。


「姫様、どうなさいました、姫様」

 シオが部屋の扉を開けた。

「来ないで、何でもないの、お願いだから、来ないで、一人にして……、お願い」

 大きな声は、最後涙声になって小さくしぼんだ。


 シオは入ってこなかった。

 部屋の隅にうずくまって、恐怖に耐えた。己が今しようとした、恐ろしい行動。


 自分はいったい何をしようとした。

 あれはまぎれもなく彼だった。

 私にとっての、紛れもない彼の心臓。


 それを、食べようと……した……


 浅ましくも、自分はいったい何を望んだか。

 狂った嘘の世界にいて、もはやそこにさえ居られなくなる。


 この恐怖がどこからきて、どこに己を連れていくのか分からない、ただ体を抱えて、震えた。

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