第9話 ゆずり葉の指輪

 侍女が足早に近づいて、後ろのシオに耳打ちをした。シオからそれが何の知らせか聞かずとも、リエリーは何が起きたかをすぐ理解した。


 リエリーは淑女の礼をして、兄に今日の訪問を感謝する。

 兄は視線をそらし、少し間を開けてから「ああ」と頷いた。


 自分の後ろにいたはずのアツリュウが、気づいたら兄の後方にいた。

 他の護衛官にもいつもするように、軽い感謝の会釈をして、彼の視線から離れた。


 祖父の寝室に向かうため、東屋を去ろうとしたとき、兄が言った。

「見せてやろうか」


 言葉の意味が分からず、はっと振り返ると、兄はアツリュウを見ていた。

 彼は護衛官の顔にすっかり戻っており、彼は兄の問いには答えず、車椅子の後ろに移動した。


 リエリーが歩き出すと、兄の車椅子が付いてくるのが分かった。

 あの一言で、二人の間で指示と了解があり、兄は私に付いてくることに決めたようだ。


 アツリュウに見せるのだ、私の本当の日常を。


 兄の意図を察した瞬間、目元が熱くなって、涙がこみ上げた。自分が悲しいのだと気づく前にそれが起こって、とても情けない気持ちになった。


 来ないで、見ないでと願ったが、兄の決めたことに反することなどできないのだ。


 「指輪はどこだ! ゆずり葉の指輪だ、早くもってこい」

 祖父がどなり、わめきながら、部屋の中をおぼつかない足取りで動き回る。


 祖父は、リエリーの顔をみると、どこへ行っていたかとなじり詰め寄った。

 後方の兄が「黙って見ていろ、動くことは許さない」とおそらくアツリュウに対して命令した。


 あーあーと叫びながら、祖父は部屋の者をひっくり返し、引き出しを開けては「無い、指輪が無い」と探し回る。

「陛下がご病気だ、急がないといけない。早く指輪をして、ムラドをムラドを走らせないと」


 今回は陛下がご病気の時に、意識がもどったのだと分かった。


 祖父は時々錯乱さくらん状態になる。様々な形があるが、今回のように、正しい認識が戻ってくる時がある。

 彼の頭の中で、祖父の父である大賢王ミコヴァナは、生き続け、王のまま存在している。


 しかし、突然陛下の死が、祖父の中に蘇ってくるのだ。

 恐怖に取りつかれ、祖父は暴れる。


 専属の側仕えによって、暴力がリエリーに及ばないよう常に守られているが、物が飛んで来て、頭を打ったり、祖父の爪が皮膚を引っ掻くことは日常だった。


 「リエリー指輪はどこだ、ゆずり葉の指輪」

 「あの指輪は陛下がお持ちです、お祖父様」


 「そうか、ならばすぐに陛下のところへ参るぞ、ムラドを走らせねばならぬ」

 「分かりました、すぐに支度をいたします」


 リエリーが祖父の言い分に応じてあげると、彼の興奮は少し治まる。

「よしよし、リエリー、そうしよう、今夜が良い、今夜ムラドを走らせる。どうすれば陛下はきっとお喜びになるぞ」


「分かりました、お祖父様。けれど王宮に行く前に、決めておかなければならないことがございますでしょう?」

「なんだ?急いでいるんだ、今すぐ王宮に行かねばならん。」


 リエリーは息を吸う。まるで部屋には祖父と自分しかいないよう。

 屈強な側仕えの男たち、いつも控えていてくれるシオ、廊下で待つ侍女たち、そして兄様、そして……その後ろの……同じ部屋にいても、私は皆と同じ場所に留まることができない。


 ぐちゃぐちゃに荒れた部屋の中で、自分は祖父の狂った世界に入っていく。


「ジラフラ聖典、白の章、大14節。かくしてジラフラは戦に勝利し、遂にかの地リューダへと足を踏み入れん、その乳白色の白き泡に包まれし彼の躰は…… お祖父様、この14節の下りの白き泡をどう解釈するか、まだ決めておりません。バル師の著した研究書によれば、雪ではないかとの解釈もございますけど、お祖父様は……」


 肩で息をしていた祖父が、今度は瞳孔どうこうを開いて、子供のようにはしゃぐ。そうじゃ、そうじゃとまたリエリーににじり寄る。土気色の肌、髪を失った頭頂に太い血管が浮き出る。やせ細った細い指がリエリーの両腕をつかむ。


「そうじゃ、だがわしは霧だと解釈しておるのだ。どうしてかわかるかリエリー」

「はい、聖典ビャクコウの18章第5節の……」

「そうだリエリー、わしが申し付けたように、よく覚えておる」


「さあ、リエリー聖典をもってきておくれ、二人で解釈の根拠をより確実にするために、19章についても検証したい、さあ、早く、始めるぞリエリー」

「はい、お祖父様!」


 声はは弾んで、嬉しそうに答えた。

 実際、自分は嬉しい気持ちになっていた。


 入っていく、深く祖父の世界に入って行く、聖典と、芸術と、神殿と、神話と、かれの膨大な知識の中に入って、話を合わせる。


 本気でないと、祖父に声は届かない。私は本気で思っているのだ、『雪』と解釈するか、それとも『霧』かそれが、今何よりも大切なことなのだと、心から信じねば……


 後ろを振り返って、侍女に聖典を持ってこさせようとしたとき。視線がぶつかった。

 彼が見ている。


 護衛官の顔で、感情を映さずに立っている。

 でも……、その眼差しの奥にどうしようもなく見えてしまった。


 驚きと哀れみ……


 はっと、こちらの世界に引き戻される。

 リエリーと祖父に怒鳴られ、とっさに振り返る。祖父が私を見て……


「あーあー、駄目だ、駄目だ、陛下のところに今すぐ行かねば」

 走りだそうとする、祖父の体を側仕えが止める。

 じたばたと、動いて、あーあーと喚く。


 私がお祖父様の世界から抜けたから、また恐怖に支配されている。

「あかいはなおーせ、あかいはなおーせ」


 祖父が歌いだした。

 シオが後ろから、腕をとって「姫様、殿下に帰っていただきましょう」とささやいた。


 この祖父の「あかいはーなおーせ」が始まってしまうと、彼の錯乱はとても長引く。

 これから、あれやこれやと、彼の気を引きそうな文献のは話をして、彼をしずめなければならない。


 「お兄様、今日はありがとうございました。お忙しい御身とは存じますが、どうか……」

 兄に別れの挨拶をしようとして、言葉に詰まった。


 別れの礼をして、祖父の方に向き直った。

 彼が自分を見ていることを知っていたが、視線を合わせることはできなかった。

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