第8話 初めてと、笑顔

 リエリーは呆けたようにその瞳に吸い込まれていた。

 見ている……

 私を見ている……


 太陽の光を受けると、琥珀こはくの瞳は橙色だいだいいろを増した。

 いつも、心の中で思い浮かべている彼の瞳の色より、ずっと明るく透き通っていた。


 琥珀色は瞳の中心に向かって茶色が濃くなり、そこに光を反射する何かが秘されていて、湖の水面のようにきらめく。やさしい琥珀色は、黒い環に縁どられ、彼の眼差しを強くする。


 まるで、野生の動物に見つめられるような、不思議な力があって、抗いようもなく吸い込まれてしまう。


 彼の瞳を見ることを止められない。


 ただ、ただ、このままずっと……

 

 ずっとこの瞳を見ていたい。


 初夏の爽やかな風が、木立を揺らしながら、東屋の中を通り抜けていく。

 彼のゆるく波打つ、黒に近い茶色の前髪が、ほんの少しだけそよいだ。


 彼の瞳は何も語ってこない、自分になにも求めていない。

 眼差しはただ自然に、私だけを見詰めている。

 だから、私も何も返さなくていい。話しかけなくてもいい。


 彼はただそこにいて、私を見ている。


 胸の中に何かが広がる。とても安心する。

 でも……、少し苦しい……


「……リー、リエリー!」


 びくっと体が跳ねた。

 とても大きな声でセウヤ兄様に呼ばれた。


 東屋の卓の向こうに座る兄様が、額に手を当てて、眉根を思い切り寄せて下を向いている。

 ひどい頭痛を起こしたような顔。


「……は……い、兄様。あの……どうなさいましたか?……もしかして……、お加減……が……」


 兄は深いため息をついて、「違う!」とまた大きな声を出した。


 卓の上には、侍女のシオが思い切り張り切ってくれた、いつもの3倍くらい豪華な茶菓子が並んでいる。

 天気の良い日に兄様が来てくれると、二人でいつもする東屋でのお茶。


 普段、護衛の方は兄様の近くにいるけれど、東屋の中までこない。姿は見えるが離れたところで待機しているのが常である。けれど今日は、兄の車椅子のすぐ後ろ、リエリーの右斜め前に彼が立っている


 また、吸い込まれるように彼の瞳に捕まる。自然な表情で、笑っているわけではない。それなのに何故だろう、ずっと微笑んでいるような、嬉しさが溢れるようなそんな印象が伝わってくる。


 眉はすっと太くて、どちらかと言えば厳しい顔つきなのだけれど、とても柔らかい印象がする。ほんの僅かだけ、目じりが下がっているからだろうか、それで優しく見えるのかもしれない。彼が笑ったら、あの目はどんな風に……


「だから、リエリー!」

 また体が跳ねる。兄様は何故か機嫌が悪い様子。


「おい、アツリュウ、おまえいい加減にしろ。見せてやると私は確かに言った。だがな、そこまで見ていいとは許可していない」

 

 すごい、兄様は後ろを見なくても、アツリュウが私を見ていたことが分かるのだわ、何故かしら。


「おいアツリュウ。お前後ろを向いていろ」

 兄は私を見たまま、とても不機嫌に彼に命じた。


 アツリュウは兄に命じられたにも関わらず、なんの反応も起こさず私を見ている。

「おい、早くしろ」


「嫌です」


 嫌ですと言った!


 凍るような冷たい風がリエリーの背中を吹き抜け、体が一瞬で硬くなった。

 後ろに控えているシオに、心の中で叫んだ。


 シオ、どうしましょう! 兄様に本当に言った。嫌ですと言った。

 怖い、どうなってしまうの?


 話には聞いていた、されど目の前で本当に起きると、その衝撃に指先が震え出した。

 アツリュウを驚きのまま見た。


 彼はわずかに、驚いた表情になり、じっと自分を見つめ返した。

 そして、信じられないことに、ふっと微笑んだ。


「駄目だ、もう見せない。後ろを向け」

「殿下はお約束してくださいました」

 するりとアツリュウが反論した。


 言い返した? 兄様に?

 もう泣いてしまいそうだった。

 どうしよう、アツリュウはどうなってしまうの?

 どんな罰を……


「お前は護衛官だろうが、見るといっても任務としてそこに居ろ。存在を消せ。微塵みじんもおまえがそこに居ることを感じさせるな。消えてなくなれ」

 

 なんと兄は、体をひねって、わざわざアツリュウを見た。そしてもう連れてこないぞと言った。

 アツリュウは恐ろしいことに、不機嫌な顔を兄に向けた。

 そして一つ息をつくと、渋々と言った雰囲気で、後ろを向いた。


 何事もなかったかのように、兄がお茶を飲んだ。

 最近兄が、公務の合間に取り組んでいる、数学理論の話をしている気がした。


 目の前で起きた、信じられない出来事が、まだ呑み込めない。


 兄様に嫌ですと彼が言って、兄様はわざわざ彼に体を向けて、話しかけて、それで、彼が不機嫌な顔をして、そして……

 何も起こらなかった。


 彼の背中を見た。

 彼はどうして魔法が使えるのだろう。


 兄様はとても怒っているのに、怒らないのだわ。


 背が高い方ではない彼。そのせいか、他の大柄な護衛官や衛兵にある威圧感がない。

 均整のとれた、とても美しい体躯をしている。しなやかで、流れるようで、とても自然なたたずまい。

 野生のひょうがそこにいるような。


 「あー」と苛立った大きな声を兄が出した。

 そしてまた、額に手をやり、大きなため息を連続して吐く。


「アツリュウ。リエリーの後ろに行け」


 彼はすぐに兄の命に従い、私の後ろに来た。

「ちがう、後ろを向け。お前の暑苦しい顔を見せるな」


 彼が私の後ろにいる。そう思うとなんだか、頬が熱くなってくる気がした。

 振り返って彼を見たい、それは到底できないことであるけれど。

 彼も、振り返って私を見たいと思っていてくれる気がする。そう思うととても安心する。


 兄様が、こいつは本当に気に障る、今日だけではない、いつもなのだ。と、饒舌じょうぜつにアツリュウの気に入らないところを語りだした。

 本人の前で、あまりに気に入らないと言い募ってびっくりしたまま、返事もできない。


 兄様は止まらない。

「何が気に入らないかといえば、こいつには緊張感というものがない。他の者と、同じことを同じようにしているのに、どうしても真面目にやっている感じがしないんだこの男は、不思議だろう」 

 

 だから気に障ると繰り返しながら、兄が珍しく茶菓子を口に入れた。

「文句も多い、休憩時間が少ないだの、休みが欲しいだの……、だがな、これの扱いは誰よりもたくみだ」


 兄は車椅子の肱当ひじあてのところを、指で示した。

「車椅子の操作において、私はアツリュウに一切の不満は無い。その時に必要な速度、曲がり方、停止の仕方。何よりも私が気に入っているのは……」


 リエリーは別世界に連れていかれたように、目をぱちぱちさせるしかなかった。リュウヤ兄以外で、まさかセウヤ兄が褒める人物がこの世に現れようとは信じがたいことだった。


「間の取り方だ。人と対峙たいじした時の相手との距離の置き方が、私の必要性に合致している。近づきたいと時、遠くから観察したい時、言わずとも絶妙だ。さらに、私を観察している者にこいつはすぐ気づく。とても便利な男だ」

 

 だがな……、と続けながら、兄は少し前のめりになった体を背もたれに戻した。


「それでも気に入らぬ、こやつの態度。気に入っているが、気に入らない。この相反した状態は、推論が誤っているまま、正しい解に行きついたような、非常に不合理な感覚でとても気分が悪いのだ」


 リエリーは少しずつ、兄の話を楽しむ余裕が出てきた。お茶を飲もうとすると、シオが温かいものに入れ替えてくれた。一口飲んで、後ろの彼は、兄の話を聞きながらどんな顔をしているのかしらと思うと、すこし愉快になってきた。


 兄は、少し前かがみになり、秘密の話をするかのように、少し声を低くした。


「先日、厩舎きゅうしゃの兵馬総括長から嘆願があった。アツリュウを短期間でいいから厩房うまやぼうに返して欲しいと。調教が難しい馬がいて、アツリュウなら上手く扱えるだろうというのが理由だ。私は普段そのような瑣末事さまつごとには取り合わないのだがな。少々興味が湧いて、その者から直接話を聞いたのだ。アツリュウは厩舎では、そんなに真面目に働くのか?と」


 そうしたら、総括長はなんと返したと思う?と、兄の目がいたずらをした男の子のようにはしゃいだ感じで、にやりとした。


『はい、あの男はいいかげんな態度で、良く働きます!』


 声をあげて兄が笑った。よく的を得た表現だ、と嬉しそうに、はははと大きな声に出して。


 自分でも気づかぬうちに、一緒に笑っていた。ふふっと声がれた。


 兄の笑いが突然止まって、驚きの表情でこちらを見ている。

 頭を傾げて、どうしたの兄様? と小さな声で聞いた。


「リエリー笑ったのか?」

 兄の問いに、こくりと頷いた。


 ふわりと天使が舞い降りたかのように、優しい顔で兄が微笑んだ。

「リュウヤ兄上が……、逝ってしまってから……、お前は1度も……」


 良かった……、と呟きながら、私の頭を撫ぜようと、兄の腕が伸びてきた。

 しかし、兄が私の頭の上に視線をやって、はっとした顔で止まった。


 呆気にとられたように、しばし私の頭の後ろ上方を見ていた。そしてその表情はみるみる満面の笑みに変わる。小さな男の子が、いたずらが成功して「してやった!」と万歳するような、それは、それは意地の悪い笑み。


「駄目だ、後ろを向いていろ。」

 満足げな兄のたまらなく愉快そうな顔。


「残念だったな。いや駄目だ」

 後ろを向いていろ、ともう一度言って、兄は私に頭を寄せるよう手招きすると、頭を優しく撫ぜてくれた。

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