第7話 鯨《くじら》の心臓

 夜も更けて、すべての支度を済ませ、あとは床に就いて休むだけになったセウヤ殿下の手伝いをアツリュウはしていた。


 側仕えの従者もさがってしまい、二人きり殿下の寝室にいる。


 『ヒルディルド国』は大陸の東の果てにある、大国からは見向きもされない小国である。


 大陸には大国『ハイシャン国』があり、さらに西むこうには小大陸がある、そこには南北に分裂した『ルールド帝国』がある。

 文化の最先端であり、軍事で隣国をねじ伏せた世界の覇者はしゃである帝国。


 船でしかやってこれない小国ヒルディルドにも、近年、帝国からの大型帆船が次々とやってくるようになり、帝国の西様形式が、この50年のうちに、ヒルディルド国にどっと流れ込んできて、生活のありようを大きく変えた。


 いまや市井しせいでは、貴族にも平民にも、帝国の文化が、街の建物から、食文化から、生活様式まで、至る所に流れ込んで、古来の文化と帝国文化が混ざり合って、新しい文化を創り出しつつあった。


 服装はえりのある帝国式にすっかり取って代われ、筒着物つつきものと呼ばれる我が国の装いは、儀式のときの特別なものに変化してきている。


 しかし、王族となると、ヒルディルド国の形式にのっとったものに囲まれている。

 離宮にいると100年前の世界にいるような気分になる。


 王族の服装は、伝統的な筒着物つつきものを着ていることが多い。

 そしてこれが、セウヤ殿下に良く似合う。夜着だというのに、麗しい刺繍ししゅうほどこされた筒着物。


 もう天使にしか見えない絶世の美青年は、美しい着物姿で、そのお姿に全くもって不釣り合いなおもりを片手に持ち、彼が自身に課している夜の体の鍛錬たんれんを行っていた。


 おとぎ話の中にいるような建物で、天使が体を鍛えているのを手伝っていると、自分はいったいどこの世界に紛れ込んだのかと、いつまでたっても慣れない。しかし、殿下は鍛錬たんれん補佐ほさを自分にしか任せない。必ず側仕えを下がらせてしまう。


 殿下は、鍛錬しているところを、他の者に見られたくないのだろう。


 彼の立つことができなくなった両足は、動かさねば、時と共に筋力を失い細くなっていく。


 王子である彼にとっては、身の回りの世話を側仕えがすることは自然で、御召替おめしかえや、御湯などは体を見せて当たり前なのだろが、それでも車椅子の生活になってから、どうしても他者に見られたくない部分を彼は人にさらさねばならない。


 彼を抱きかかえて、寝台に運ぶとき、彼の悔しさを、その無表情の顔から感じる。寝台に移るのに毎夜男の手を借りればならない屈辱を、同じ男として理解していた。


 セウヤ殿下は今、腕を鍛え、己の体を支えて自身でできることを増やそうとしている。


 こんな体になって死にたいと叫んでいたセウヤ殿下。

 様々な気持ちを彼は飲み込んで、今必要なことを、彼は己と向き合い実行しているのだ。

 

 子どものようであり、

 されど、人を操るぞっとするような手管をもち、

 己が失ったものと、独りで向き合う……孤独の……


 王子を何と形容していいのか、いまだ、アツリュウにはよく分からなくなっていた。

 

「今日は、あれからお前に土産があった」


 殿下の言葉に心臓が跳ねた。午後、団長に向かい合った時より、その鼓動の音は早かった。

 あれ……とは、いや、まさか…… 姫様が……私に?


 おい、ぼんやりするな。とセウヤ殿下に不機嫌に言われ、急いで彼の補助を再開した。


 意地の悪いことに、殿下はそのあと何も教えてくれず、淡々と鍛錬を続け、期待を込めて待つアツリュウを時々見ては、フンっと鼻で笑った。


 ようやく鍛錬を終えると、仕方が無いなという顔で、いつものように、彼の車椅子の側に膝間付ひざまづくよう手で示した。彼は上から見下ろさるのが不快で、『長く話す』ときはいつも目線を同じ高さになるようにするのだ。

 

 長く話す。

 セウヤ殿下に仕えるようになってから、アツリュウを何よりも驚かせたのが、彼の饒舌じょうぜつぶりだった。


 彼の独り言なのか、返事を待たれているのか、対応に苦しみつつも、殿下の話相手を務めている。

 その話の中で、心から待ち望んでいる話題が、姫様のご様子だ。


 初めは、この離宮に暮らしていると思っていた姫様は都の外れの別邸に居られるのだという。

 『水鳥の上様』のお世話をして、もう長いとのこと。


 姫様のことを1つ知るたびに、1つ切なさが増す。

 

 花の妖精は、ただ美しく自由に花々の中にいるのではなかった。

 独りで祖父の世話をする、辛い境遇きょうぐうにいる一人の少女であることが、少しずつ、遠い霧の向こうに見えてくる。


「やっぱりやめる。今日はお前もう下がれ」


「そんな! 団長との手合わせという死地から生き延びたのに。なにも教えていただけないのですか」


 殿下に直接返事を返すのは無礼であるが、この寝室では、彼はアツリュウにそれを望む。初めは不敬で罰せられるのを恐れたが、だんだん慣れてきた。


 セウヤがほう?と興味を向けた。


「シンライガはお前を受け入れたか。思ったよりずっと早い、お前は誰にでもなつく猫のようだな。寄ってきて足に擦りついてくると、無下むげにもできぬ、あの男はうっかり猫の頭を撫ぜたか」

 

 いや違う。団長はうっかり撫ぜたんじゃなくて、うっかり殺しにきたんです。と心の中で人間技とは思えない団長の剣技を思い出す。


「まあ、分からぬでもない。お前を見ていると時々どんな余興よりも面白い。暇つぶしに猫を1匹くらい置いておくことにしたのだろう。だが、お前は私の専属だ。父上の仕事はしなくていい」


 シンライガ団長直々の手合わせ、すなわちそれは、団員として認められたということ。これからは他の護衛と同じように、自分もハリーヤ殿下やリエリー王女殿下に付くことも当然あると思っていたのだが、セウヤ殿下の専属とは……

 

 自分はこれからも『セウヤ殿下のお気に入り』という、皆からの嫉妬のまとにされる残念な名札を、首から提げておかないといけないようだ。


「お前の話はよほどおもしろいらしい。リエリーの目がまた丸くなった」


 自分がシュロム宮廷護衛団に来てから2カ月ほど、ずっと緊張の中にいるが、姫様の話を聞く時だけは、何物にも代えがたいの癒しの時だ。


 それはセウヤにとっても同じなのか、姫の話をする時は、温かい茶を飲んでいるときのように、他を寄せ付けない王子の顔がほどける。今、彼の頭の中には、妹が目を丸くしてそこにいるのだろう。


「今日は、お前に贈り物があった。リエリーがこれなら許してもらえますか? と」


 姫様からの贈り物。あまりのことに胸が高鳴り苦しいほどになる。 


「あれは前々から、直接おまえにお礼が言いたいと、繰り返し申してくる。私が必要ないと言って聞かせるのだがな。この頃は、せめてお礼の品を贈りたいと願うが、それもすべて許可していない。そんな1人の護衛官に王女が物を渡すなど、特別扱いできぬ」


 そんな、殿下は私をさんざん特別扱いして、挙句こちらは皆の『矢の的』みたいになってるのに……


 セウヤに指示されて、車椅子の後ろの袋から、小さな包みを取り出し手渡した。

 彼が受け取り、中から小さな硝子がらす小瓶こびんを出した。一目で恐ろしいほどに高価と分かる、王家でしかお目にかかれない骨董品こっとうひん


 その精緻せいちな飾り瓶1本で、馬5頭は買えるのではと思われた。こんな高価なものはたまわれない。


「ちがう、このびんはお前への土産ではない。中を見てみろ」

 高足の小さなたくに、セウヤが小瓶を載せた。アツリュウがのぞくと小さな赤い玉が1粒入っている。

 

金平糖こんぺいとうですか?」

 そうだ、とセウヤが頷く。待ち望んだ、「今日の姫様」の話を始めてくれた。


 姫が、毎日忙しい日々を過ごしていることは常々聞いていた。

 セウヤ殿下から見ればくだらないことではあるが、彼女は祖父の要望に応えるため一日忙しく務め、自由になる時間は、一日の中でそれほど無いのだという。


 そんな生活を続けすぎて、姫は自分の自身の楽しみをほとんど持たないことを、彼は寂しそうな顔で話す。


 ところが今日は、最近夢中になって作っている物が彼女にあるというではないか、セウヤ殿下はそれにとても興味を魅かれたそうだ。


「あれが作った物を見せてもらった、それがこれだ」

 金平糖を指さす。いつだったか、セウヤが姫に土産で金平糖の大瓶おおびんをあげたことがあったという。


「星座が広がっていた」


 セウヤは優しく微笑んだ。それは今日、彼の妹に向けたであろう笑顔。


「あの館には、神殿の見取り図を広げるための、とても大きな卓がある。そこに黒い敷布しきふをして、リエリーは1粒ずつ金平糖を並べて、天の星空すべてを創っているんだ」


 姫様が、星座の形になるように、小さな粒を慎重しんちょうに並べていく姿を思い浮かべた。

 

 体の力がすっかりゆるんだ、柔らかい心地。ああなんて……


 『可愛いい』


 心の声がれそうになったが耐えた。


 姫の小さな幸せを、こうして教えてもらう。

 1つ、1つと我が胸の内にしまう。


 幼い頃、一緒に遊んだ姪子が、宝物だと言って菓子の木箱に、大事に入れている宝物達を見せてくれた。走り回る男子の自分には、何が面白いのか分からなかったが、今の自分はそれと同じ。


 心の中にしまった姫の話を、宝物のように1つ取り出しては眺め、また大切にしまって。そして、また次の1つをだしては愛しく思う。

 彼女の話を聞くと、どうしてこんなに安らぐのだろう。


「これは私の星なのだ」

 セウヤが小瓶の中を覗き込んだ。そして、不敵ふてきな顔を向けてきて、よく聞けすごいだろうと言わんばかりに笑う。


「これは一角獣のつの。リエリーはこれが私の星だといってくれたのだ」


 天に輝く星で、最も明るい星、それが一角獣の角。

 最高の星ではないか! 

 姫様の兄に向ける愛を感じる。


 羨ましいと顔に出ていたと思う。セウヤは頷きながらご機嫌に笑っている。


 しかし、びんの中の金平糖は1粒。

 俺への土産とは?


 次のセウヤの言葉を待つが、少しずつ彼の機嫌が下がってくるのがわかった。


「リエリーはお前の星も選んだ」

 言いたくないな、というセウヤの顔。

 絶対聞く、聞くまで帰らない。


「……くじらの心臓」

 勝ったな。俺はセウヤ殿下に勝った。


 鯨の心臓とは、北天の中心にある星。

 暗く、時に見つけることが難しい。


 しかし、航海での守り星。天でたった1つ動かぬその星を頼りに、大海を行くことができる。

 唯一無二の特別な星。


 嬉しさに身もだえする。

 姫が、金平糖を指に摘まんで、1つ1つと並べて鯨座をつくり、そして心臓の位置に1粒置いて、そして、これは俺の星なのだと、あの人が思った瞬間があって、さらにそれを、この1粒だったら、差し上げてもいいですかと、健気に兄に聞く姿を想像したら、ああ、俺はもうどうしたらいいんだ、この感動を。


 冷たい目でセウヤが見ている。

 

「それで、その金平糖はどちらに?」

 笑い顔は、どうやっても真顔に戻せなった。


「無い、私が食べておいた」

「え? それはどういう意味ですか?」


「だから、気に食わないから、お前の星はリエリーの目の前で、食べておいた」

 一瞬にして、高い場所から蹴り落された感覚。


「殿下は、お前に土産があるとおっしゃいました、先ほど……」

「私は、土産があった。と過去の話をした。よく聞いておけ」


「これは飾っておこう。どこがいいと思うアツリュウ」

 自慢げに口の端をあげて、セウヤは大げさな手つきで、小瓶こびんを掲げた。

 


                ◇◇◇   ◇◇◇


 殿下を寝台に運び、アツリュウは部屋を静かに出た。

 廊下の衛兵に軽く敬礼をして、宿直室に向かう。


 先ほどの、にやにやと意地悪そうに笑うセウヤ殿下の顔が浮かぶ。

 妹の話をする時だけ、彼は柔らかく人に戻る。


 ここは砂漠だ。


 セウヤ殿下は独り砂漠を渡る。


 車椅子の後ろで彼の日常を垣間かいま見る、そこに血が通う会話は一度として無いことを知った。驚くほどに、会話らしい会話をセウヤは人とすることがない。


 彼は指示し、そして報告を受ける。または父殿下から指示を受け、そして報告する。


 それ以外の会話が、彼の周りに存在しない。セウヤの周りの人間はみなよそよそしく、その最たる者が父親で、息子の顔さえ見ずに、最低限のことだけ告げる。王族とは、こんな乾いた砂漠のような世界に生きる人々なのか……


 自分であったら、人との心の触れ合いと呼べるものがなければ、いったい何日もつかわからない。されど、セウヤはこの水のない砂漠を涼しい顔で渡っていく。


 『ハイシャン国』にいるという、砂漠を渡るラクダという生き物のように、無尽蔵むじんぞうに水を溜める袋が、彼には備わっているのだろうか。


 それでもラクダといえど生きた動物、いつかは水を飲まないと干からびて死んでしまう。

 その水が、きっと姫様なのだろう。


 彼にとって、姫様だけが、温かく血が通い、彼を何より愛してくれるたった一つの砂漠の水場。


 そしてたぶん、セウヤ殿下の存在は、姫様にとっても同じなのかもしれない。


 








 


 


 







 





 

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