第5話 捕らえられる
シュロム近衛兵
彼の実家ミタツルギの邸宅でも、馬の世話に関わる仕事の全ては興味深く、暇ができればいつも手を出していた。
自分にもやらせて欲しいと頼んだが、「それはあなた様の仕事ではありませぬ」と
シュロム近衛兵養成学校を16歳で卒業し、一般的にはそこから予科兵士として2年の経験を積み、18歳で近衛兵となる。
しかしながら『金月の名の貴族様』と市井で呼ばれる、大名家ミタツルギの子息であるアツリュウは、本人の希望を全く聞き入れてもらえず、養成学校からさらに士官学校に進まされた。
座学が恐ろしいほど苦手な彼は、息も絶え絶えになんとか過程を修了し、高等士官課に進むことをなんとか免れ、18歳の今年の春晴れて下級士官として
厩房の最高職『
最下級士官の彼には見上げる職であるが、それさえも、士官学校の同期達からすれば、出世の道から外れた、
出世なぞ望まない。
本当は、もう平民として、誰も自分を知らないどこかへ行ってしまいたい。
そう
ならば、自分はここで馬と共にあるものいいかもしれない。
それならば、もう少しここにいられる気がする。
「
遠くからではあるが、その呼び声は絶叫といってよかった。
取り乱し近づいてくる部下、戦争でも始まったか?と思わせる必死の形相。
「すぐに主馬長官室に向かってください。大変です、大変なことです、お客様です、いえお客様ではありません、でん、でん… とにかくお早く」
希望通りに厩房に配置されたこと、そして馬たちと共にあることにアツリュウは満足していた。
配属されて僅か3カ月余り……
しかし今、彼の運命が訪ねてきた。何も知らない彼のところに。
「どういうつもりだ」
それが、第一声。
自分より1歳下の17歳と記憶している、シュロム王家第2王子のセウヤ殿下が厩舎隣の建物の主馬長官室にいる。
輝く銀色の髪にすみれ色の瞳。天使と見まごう絶世の美しさで、彼は怒りをまったく隠そうとせず、その怒気は、真っすぐに自分に放たれている。
片膝を付き、礼の姿勢で頭を伏せたまま、アツリュウは返答に
殿下が、車椅子を使っていると分かった瞬間、苦しい気持ちが胸を突いた。
放水口から水路に投げ出された殿下をお救いしたのは、数カ月前のこと、月日が経ち、それでも癒えぬ深い傷を負ったのだと知り、やるせない気持ちになった。
が、しかし。
そんな気持ちも吹き飛ぶような、まるで断罪するかのような言葉を、殿下からいきなり
はて? 俺はあなたの命の恩人だった気がするが……
何ゆえに、そんなに怒っている?
衛兵と護衛官と従者だろうか、とにかく大勢のお付きを引き連れて、セウヤ殿下は、近衛兵厩舎にお越しになった。ここは元来、殿下のようなお方が来るところではない。
もしや自分を召し取りに来たのか? それで衛兵が? 罪状はなんだろう? 何もしていないが……
自分の斜め後方に控えている、この部屋の主「主馬長官」を下から盗み見ると、「私には関係ない」と言った
「どういうことだおまえ、何故
先ほどより声は低く、落ち着いていたが、凍えるような怒りの冷気を浴びた。
褒美?
褒美を受け取らなかったことが俺の罪状なのか?
アツリュウはさすがに腹がたった。
いきなり現れたと思ったら、訳の分からない理由で怒り出し、もしかしたら引っ立てられる。
なんだこの理不尽さは!
シュロム王家の内情など、18歳のアツリュウは知ることもない。
だが、世間の評判は耳に入ってくる。
セウヤ殿下の父であるシュロム王ハリーヤ。彼は
なぜならシュロム王ハリーヤは、今までに多くの者に
彼の気分を損ねた者を
さらに、シュロム王主導で始めた隣国『ハイシャン』との
身分の低い者の命に対して、ハリーヤ王が敬意を払っていないのは明白。だから彼は
一方ハリーヤ王の息子、第一王子のリュウヤ殿下は巷の評判がとても良かった。
彼の人柄、平民や諸侯への丁寧な振る舞い方、そして慈善活動。帝国留学から帰ってからの、公務における彼の言動はとても注目されたいた。民に愛され、諸侯からの期待を受け、そしてこれからもっと活躍するはずだったリュウヤ王子の死。その悲しみは2カ月が経っても、人々の心から消えていない。
目の前にいるこのお方。
セウヤ殿下は、首都の最も権威ある学院に
今まで
「許す、話せ」
犬に投げ捨てるような言い方だった。
己の地位から見下ろせば、すべてが思い通りに動いて、周りの人間は自分のご機嫌をとって当然と思っているのだろう。
「何故黙っている。答えよ」
黙っていると、
片膝の自分の高さの正面に、車椅子の彼の顔はあった。
距離は近くはなかったが、お互いの視線がぶつかり、己はそれを
「何故、答えない」
無表情で視線を外さず黙っている。多分これは不敬にあたるだろう。
腹立ちのままに、どうでもいいやと思った。
別にこの男に感謝されたくて、あの時堀に飛び込んだ訳ではない。
しかし、結果的には命を懸けて、彼を救ったことには違いない。
それが不敬で罰せられるなら、好きにしてくれ、と思う。
しばらく沈黙の時間が続いた。
殿下の問いに応えない、恐ろしく不敬な態度。
次の殿下の一言で、この若い男はどう処分されるのかと、見守る者たちの恐れと緊張で、部屋の中は張り詰めた空気で満ちた。
「何故おまえが褒美を受け取らぬのか、理由を知りたい」
殿下の声は、若干落ち着いたものになった。
彼もアツリュウから視線を外さない。
鋭く己を見すえる瞳は、納得する答えを得るまで絶対に許しはしないと告げている。
本当の理由を言おうと思った。
されど、皆の前で言うのは嫌だった。
自分の今の状況で、殿下と二人になるのは不可能だ、だから理由は告げられない。
それでも、殿下の後ろに控える護衛官や、後方の主馬長官に意識を向けた、その自分の考えが目線に現れたのだろうか、一瞬後、驚くことを殿下が言った。
「よかろう、おまえと二人で話をする」
殿下は小さく
指示を受けた護衛官が、部屋からすべての人間を出した後、一人残って殿下の後ろに控えた。
「おまえもだ、行け」
「ですが殿下、この者と二人にするわけにはまいりません」
セウヤは鼻で笑った。
「この者はシュロムに忠誠を誓った近衛兵士で、そして私の命の恩人だ。私を害する意思があれば、初めから私を救ったりしない」
向かい合ったまま部屋に二人になった。
この男には、俺に命を救われた自覚があるようだ、今までの態度からは意外だが……
先ほどより落ち着いたように見えるが、彼の目の奥には変わらず激しい怒りが燃えている。
「どうして褒美を望まなかった」
同じ問いが繰り返される。この男は答えるまで絶対に引かないだろう。
「もらう理由がないからです」
セウヤの片方の眉が上がった。
「どういう意味だ」
「殿下を助けるために飛び込んだわけではありません、だから殿下を助けたことで、褒美を受け取る理由がありません」
「ふざけているのか、おまえ」
「ふざけてなどおりません、恐れ多いことでございます。本心より嘘
セウヤが車椅子を進め、間近に来た。美しく整った顔は、ぞっとするほど無機質で、白い
「私をこんな体にしておいて、おまえは私を笑うのか」
より迫るセウヤの膝が己の膝にぶつかった。
セウヤの怒鳴り声が響いた。
「おまえが私をこんな体にしたのだろうが、二度と歩けぬ。それをおまえはその何もなかった体でのうのうと、私を馬鹿にするのか!」
いい加減にしてくれ! 天を仰いで叫びたかった。
この傲慢な男には、物事を判断するのに2択しかないのだ。
気に入るか、気に食わないか。
そのたった2つだけなのだ。
命を救われたせいで、こんな体にさせられたなどど、ふざけたことをほざいている。
学院で
でもこの男は、気に食わないのだ。自分が傷を負い、そして、同じく放水口に入ったのに、無傷で出てきたこの俺が。
この男がここに来た理由が明白になった。
八つ当たりにきたのだ。ままならぬ己の体に苛立って、その苛立ちを俺にぶつけるためにきたのだ。
これが王族か!
傲慢で、残忍で、気が食わなければ、それを理由に平気で殺すんだろう。
その色と同じ瞳を自分は知っている。
「あの日、王女様は橋の
何のことだ?セウヤの瞳が揺らめく。
「あの時、姫様は、間違いなく本気だった。あなたを助けるために、堀に飛び込もうとしていた」
「何の話をしている」
「あなたの妹御である王女殿下が、命を懸けて、あなたを救おうとしていたと、そう申しております」
セウヤの眼が驚きに大きく開く。
「……リエリー……が?」
「そんな……、だが、あれがそうしようとしたとして、到底私を助けることなど叶わぬだろう」
眉根が寄るのが分かった。分からないのかこの男は。
「そうです、助けることなどできない。それでも、姫様は飛び込まずにはおれなかった。絶対に助ける、あなたを助ける。あの方の目に迷いはなかった。それがどういう意味かあなただって分かるはずだ!」
セウヤは膝に置いた手を握り締め、しばし顔を伏せて黙っていた。
「だから、なんだというのだ」
セウヤの握った拳が、力を込めすぎて震えている。がっと顔をあげ、着くほどの近さに顔をよせ、噛みつくように吠えた。
「だから、それが今更なんだというのだ。私はこんな体になった。おまえが助けたりするから、放っておけばよかったのに、そうすれば今頃、死んでしまえていたのに、おまえの、おまえのせいで」
殴り飛ばしてやりたいほどの、怒りが湧いた。
あなたの妹が、命を失ってもかまわないと、
たった一人飛び込んで救おうとした命を、
それを捨てればよかったとふざけたことを抜かす。
「だったら、好きにすればいい。今からもう一度堀に飛び込んだらいい。私はあの時、あなたの命はどうでもよかった。私が助けたかったのは、絶対にお守りしたかったのは姫様だ」
セウヤの体が固まった。
呆然とした顔で、息を止めた。
「私は姫様を止める、ただ1つそれだけの理由で飛び込んだ。あの方は本気だった、止めることは無理だった。だから、だから、あの人のために私は命を捨てた。それだけだ!」
最後はほとんど怒鳴り声になっていた。
セウヤが息を1度だけ吸った。
まるでこの世のものでないものを見たかのように、
部屋は静かになった。お互い何も言わなかった。
静かに波が引くように、頭に上がった血が引き始めた。
何を言った……
俺は、殿下に何を言った……
父上の顔が浮かんだ。
済まない……
俺は不敬罪で、最悪死ぬ……
セウヤは驚きに、しばらく口がきけないようだった。
静かに、不敬の罪を言い渡たされるのを待った。
「私の命など、どうでもいいと…… そう言ったか……」
真顔のまま、ふっ、ふっ、と、彼の口から笑い声のような息が吐かれた。
「私に、もう一度堀に飛び込めと……」
セウヤは視線をはずし、頭の中で何かを思いめぐらしているようだった。そしてだんだん、表情が崩れていき、笑い顔になり、そして、声に出して大きく笑いだした。
「ははは、こんなことを私に言ってのける人間がいるとは」
セウヤがまた至近距離で目を合わせてくる。
さっきまでの彼と、何かがまったく違った。その瞳は光っていた、それは生気と呼べるものかもしれなかった。同じ顔をした別人が現れたように、どこが変わったのか分からないが、雰囲気がガラリと変化していた。
「おまえが褒美を望まない理由を理解した」
セウヤは姿勢を正し、落ち着いた態度でそう言った。
上に立つ者の静かな雰囲気が彼を取り巻いた。
すみれ色の瞳は冷静で、静寂。まるで波の無い、湖の水面のよう。
先ほどまで
もはやその瞳から、感情は完璧に隠され、彼が何を考えているか全く分からない。
彼の美しい
「では、改めて褒美を与えよう。私の妹リエリーの命を救った者へ」
声に出なかったが、え?と息がもれた。
「断ることは許さぬ。これは王子の
「許さぬ。これは
心の中に、想いがめぐった。あの方の眼差しがよみがえり、そして振り払い、望んではいけないと繰り返し己に叫んだ。俺の望む物。心から望む物が1つあった。
「……姫様を」
セウヤは静かにこちらを見ている。
声に出そうとして、唇が震えているのに気付いた。言おうとして迷い、飲み込んだ。
そして……口にしてしまったその言葉を……
「1度だけ……、遠くからでかまいません。1度だけ……姫様を見たい……」
「おまえ名を何という?」
「……アツリュウ・ミタツルギでございます」
「おまえが気に入った。私のものになれ、アツリュウ」
無機質なセウヤに表情が戻り、そしてにやりと笑った。
返事ができず固まったまま、不可解な彼の言葉の意味を考えた。
「アツリュウ、私に仕え、私の為に命を捨てよ」
それは
セウヤはまた声をたてて笑った。そして顔を近づけた。
その瞳は全く笑っていない。まるで獲物に狙いをさだめた、
「おまえが私のものになるのなら、見せてやるリエリーを」
その言葉で、己は知った。
捕らえられたのだ、ああ、だめだ、抗えない。
絶望的に苦しいのに、それは甘美な感覚だった。
あの人を見ることができる……
この誘惑に勝てるはずもなかった。
「特等席で、おまえにリエリーを見せてやる」
もう彼と視線を合わせていることに耐えきれず頭を下げた。
どうしてあの人を見たいなどと口走ったか……泣きたいほど、己が愚かだと思った。
「おまえを私のものにする」
頭を垂れたまま、返事を返さなかった、されど、己はこの
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