第4話 鳥かごの中で
「アツリュウ」
リエリーは兄が教えてくれたその名を、心の中で言ってみた。
この頃は、彼のことばかり考えている。
兄を救ってくれた、
兄はアツリュウに会いに行き、「気に入った」と告げたあの日から、驚くほどの回復を見せた。
彼は堀に飛び込んで、兄の体を守ってくれた。
そして、どんな魔法を使ったのだろう。今度は兄の心も助けてくれたのだ。
兄は気力とともに、元来の冷静な兄自身を取り戻した。
体力が落ちた身を、積極的に動かして、10日ほどで館を出て行った。
あれから数カ月、兄は学院には戻らず、宮廷の公務を引き受けて、父の補佐をして仕事に忙しくしている。
「姫様、シオはもうちょっと待ちきれませんわ」
シュロム別邸の居室で、夜着のリエリーは鏡台の前に座っている。
侍女のシオが、リエリーの髪を
リエリーの専属侍女であるシオは、肌の色が日に焼けたように濃く、漆黒の大きな瞳を持ち、異国の民の血をその身に受け継ぐ。
リエリーの曽祖父、シュロム・コウギョク・ミコヴァナ王の弟にあたるテード王子の妃として迎えられた、『ピプドゥ国』王女。
シオは、ピプドゥ王女と供にやってきた、使用人の一族の子である。
祖国ピプドゥでは高貴な家柄の出であったというシオの祖母は、遠い異国の小国に嫁ぐ姫を支えるために、海を渡ってやってきたのだという。
リエリーの腰に届くほどに、滑らかに流れる銀の髪。真っすぐに銀色に輝くそれを、肩からゆったり垂らすように、シオは慣れた手つきで
寝台に入る前の準備をシオがいつものように整えてくれる。リエリーが彼女に体を向けると、香油を手の甲に優しくつけてくれる。強い香りが苦手なリエリーに、シオが選んでくれた花の香が、ほんのりと包むように彼女を安心させる。
「さあ、早く教えてくださいませ」
寝支度が済んだのに、シオは「さあこれから」という勢い。
リエリーも、大きく頷いて、すみれ色の瞳がキラキラ輝く。
シュロム王女の部屋としては、こじんまりとして落ち着いた印象を与える部屋、しかしすべての調度は一級品で揃えられている。
王家の歴史がかいまみえる空間は、やはり王家に使えるにふさわしい、最高の技術を認めら者たちによって、上品に整えられていた。
このリエリーの居室を一歩でれば、芸術品が高波のように押し寄せる、海外から取り寄せられた様々な置物と、壁に並ぶ大型の絵画、館のあちこちに、大理石の天使や求道者の彫像が、訪れた者に目を合わせてくる。
圧倒するほどの芸術作品の数。
異様な雰囲気の豪華な屋敷。
刺すような日差しに体を焼かれ、逃げ場がどこにもない平原で、やっと見つけた小さな木陰のように、この
「今回も、セウヤ殿下は
兄は、あれから月に数度、リエリーの住まうこのシュロム別邸を訪れる。
屋敷から私用で出ることのないリエリーを気遣ってくれるのだろう。時々様子を見に来てくれる。
今日は蔵書室で、リエリーが作った星図を見せてお喋りをした。
兄は来る度、
「シオ、心の準備はいいかしら? 今日のお話も、私、何度も心臓が止まりそうになりました」
「アツリュウ様は今回何を?」
「3階から飛び降りたそうです」
「ええ! まさか」
シオはピプドゥ語で小さく叫んだ。
リエリーは本当のことなのです、と深く頷くと
兄が「気に入った」と宣言したあの日から、アツリュウは宮廷護衛団の所属になり、兄の専属護衛官に任命された。
兄の車椅子を押す重役を任され、彼の体の一部のように、兄が出向くところについて行く。兄はアツリュウの体が許すかぎり、その役を他に与えず、アツリュウは離宮にほぼ住み込みで兄のみに使えているそうだ。
宮廷護衛団とは、『王の守り』と称される、シュロム近衛兵のピラミッドの頂点に位置する孤高の集団。
家柄、素養、実力の全てを兼ね備えた者たちの中から、さらに選び抜かれた精鋭中の精鋭。
近衛兵になったばかりの18歳で、馬の管理を取り仕切る
シュロム領の領主である月の名の5家の1つである、大名家『ミタツルギ』の子息とはいえ、彼は5男、そしてさらに馬の管理をしていた若輩者が、突然セウヤ殿下のお気に入りとして現れたのだ。
近衛兵の内情などに全く
今回の事件の
「まさか、直接殿下に
「それはさすがにしていません。アツリュウの上官に昼休憩が欲しいと申し立てたそうなのです。セウヤ兄様は、護衛官たちが、どうやってあの気に入らない新人をつまみ出そうかと、内心怒り狂ってる中で、よくまあ呑気に昼が食べたいなどと……呆れたけれど許可なさったそうです」
「まあ、相変わらず
シオは、すでに鼓動が早くなってまいりましたと胸に手をあてた。
「兄様は、業務に少しでも支障があれば許さないと申し渡していました。そして、摩訶不思議なことが起きたそうです。午後の公務の、王宮に行く予定が早まった日。兄がアツリュウを呼ぶように指示すると、彼はすぐに目の前に現れたのだそうです。アツリュウがいた兵舎の建物から兄の元に来るまで、どう考えてもあり得ない早さ、まるで鷹が空から飛んできたようだったと」
シオは目をぱちぱちとさせた。リエリーは聞いたとおりに説明した。
兄がどうやったかと問い詰めると、初めは渋っていたが、彼は口を割った。なんと兵舎から中庭を横切って近道をしたと。されど、それは建物の窓から飛び降り、さらに中庭の高い塀を越えねばならない、常識的に考えて不可能に思われた。そこで兄は後日、やって見せよとアツリュウに命じた。そこから飛び降りるのを見たいと。
「えっそんな! 姫様どうしましょう、それが3階からだったと?」
シオはリエリーの手を握ってきて、アツリュウ様はご無事なのですかと動揺した。
覚悟はいい?話します、とリエリーも鼓動が速まるのを感じながらシオの手を握り返した。
「嫌です。と申したそうです」
「……え? 殿下に?」
リエリーは、結果を知っているのに、それでも手が震えてきた。
「そうなのです。兄様に直接、嫌です……と」
シオは口に手を当ててしばらく何も言えず震えていた。小さな声で、それでどんな罰をお受けになったのです?と恐る恐る聞いてきた。
その日、その場には、大勢の護衛官や近衛兵士が見物に集まっていた。
アツリュウの
私それを聞いたとき、鼓動が早くなりすぎて苦しいほどだったの……と呟きながら胸にぎゅっと手を当てて、リエリーは話を続けた。
「申し訳ございませんでした。殿下がお許しくださるならば、たった今、班長と二人で飛び降りてまいります。アツリュウはそう宣言して、その彼を叱った先輩護衛官を連れて、3階に行ったそうです。そして飛び降りたと」
きゃっ、と小さな悲鳴をシオが上げた。リエリーとシオはまたきつく手を握り合った。
「兄様はね、なんだかつまらなかったと。そうおっしゃったのよ。アツリュウがあまりにも簡単に降りて来たから、なんだか拍子抜けされたのですって」
リエリーはシオに、身振りを付けて、アツリュウがどう降りて来たのかを一生懸命説明した。
彼は、窓から歩く続きみたいに出てくると、2階の窓の突起に1回トンっと乗って、そこから地面にすとんと着地してくるりと1回転、滑るようにあっという間で、窓に顔が見えてから、地に立つまで、3つ数える間もなかったそう。彼があまりに簡単にやったので、なんだか特別な感じが全くせず、兄はどんな余興が見れるかと楽しみにしていただけに、がっかりしたと。
驚きに振るえて声も出ない妹に、さらりと告げたのだ。
「それでね、続きがあるの」
すでに二人はドキドキしすぎて、抱き合うように体を支えあった。
「アツリュウは、飛び降りると、すぐに下から大きな声で「では班長の番ですどうぞ」ってその護衛官を呼んで、皆が一斉にその方に注目して……兄様はそれを止めずに見ていたそう」
「どうなったのでございます、その方は?」
「泣くような声で、どうかご
二人は顔を見合わせて、とはーっと深く息をついた。
「あまりにお話の刺激が強く、シオは訳が分からなくなってきましたが、アツリュウ様がご無事でなによりです」
リエリーは、兄からこの話を聞き終えて、泣きたい気持ちで彼の無事を感謝したことを思い出す。
リエリーは気づけば彼のことばかり考えている。
今どんなことをしているんだろう。
どんな表情を浮かべているんだろう。
彼はどんなことが好きで、仕事でないときは何をして過ごすんだろう。
彼にいつも健やかでいて欲しい。
そして…… もしも叶うのなら。
遠くからでいいから、彼をもう一度見たい。
寝台に体を横たえると、いつものように、シオが優しく「お休み、可愛いお姫様」とピプドゥ語で
「いつか、セウヤ殿下がアツリュウ様を連れてきてくださるといいですね」
シオが、リエリーの切なる心の声を代弁してくれた。
灯りを消そうとして、シオは動きを止めた。
熊の叫びのようなうなり声が、遠く夜の闇に響いてくる。
リエリーはすっと身を起こし、寝台を降りる。
シオが無表情で、夜着の上にガウンを羽織らせる。
お祖父様が目覚めて、
それはこの館に仕えるの全ての者が知っている、一つのままならぬ
彼女が逃げだすことを許さない、この館の変わらぬ現実。
『リエリー様しか、上様をお
リエリーは先導するシオの灯りに続いて、部屋を出た。今夜は、日の出までには落ち着くといいのだけれどとと思いながら。
祖父は『水鳥の上様』と呼ばれている。
シュロム王族は、祖父の代で王権を失った。
王が住まう王宮へビャクオムが、代わりに離宮へシュロムが、
200年余り続いた、両王家の居住地は、月の色が『銀』と決まった日ひっくり返った。
首都モーリヒルドには都の中心に湖がある。
湖を挟んで、北に離宮、南に王宮。
『水鳥の宮』と呼ばれる離宮は、白い姿を水面に映す、さながらシラサギを思わせる美しさ。
対となる王宮は、黒を基調に荘厳にそびえ、月女神様が統べる闇夜を表現している。
祖父は水鳥と呼ばれる離宮に住まう、大賢王と名高い強い王の息子だった人。
だから人々は「水鳥の上様」と彼を呼ぶ、もう王になれない、かつての王太子様。
彼はまだ己が王太子のままだと信じ続け、今やこの身が、なんの力も持たぬ、老人に姿を変えたことを認められない。
彼が46歳で父王は崩御し、若き日に、その美しさを誉めそやされた面影はもはやなく、老い衰えて89歳。されど43年間揺るがずに、彼の頭の中では、
狂言と暴挙を繰り返す彼を、リエリーの父ハリーヤは離宮から追い出した。そして祖父が何よりも愛する芸術を詰め込んだ、郊外の小さな館に閉じ込めた。
リエリーの父は無情にも、年端もいかぬ10歳の少女であった娘リエリーを、祖父とともに鳥かごに閉じ込めた。それがお前の役目だと言い渡して……
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