第3話 褒美《ほうび》はいらない

 枕に銀色の頭がうずもれて、もう長い間、身じろぎもしない。

 リエリーは寝台の横の椅子に腰掛け、横たわる兄を見ていた。


 やはり彼女も長い間、身を動かさず、声を出さず、そこにいる。

 ただ、そこにいることが、彼女の役目なのだ。

 

 あの事故から2カ月。

 救出されたセウヤ兄は命を取り留め、見た目には傷は癒えている。


 目に見えない傷。 

 17歳の兄の体の中に、もはや永遠に治らない傷が残された。

 医師たちは早い段階で、回復の見込みは絶望的だと残酷にも断定した。


 用意された車椅子。

 窓辺を向いて置かれた車椅子は、まだ一度もその持ち主を乗せていない。



 シュロム家の第二王子セウヤと王女リエリーは、ちまたではシュロムの天使と呼ばれている。

 

 シュロム王家にまれに現れる銀の髪とすみれ色の瞳で生まれた二人。


 そのうるわしい姿は、大神殿に描かれる天使が、現世うつしよに降り立ったかのようだと、人々は感嘆かんたんする。


 1才違いの兄妹は、幼い頃から双子のようによく似ていると言われる。

 しかし、似ているのは顔だけで、兄は別世界に住む人のようにリエリーの想像の及ばないところで生きている。


 セウヤ兄は幼児の頃から、恐ろしいほどに賢くて、家庭教師たちを悩ませたと聞く。


 家庭教師が新しい教本を兄に渡すと、翌日から彼は表紙さえ開かない。


 けれど教師が質問をすると、兄は黙って教本の扉絵を指さして『〇ページ』と答える。教師が教本のそのページを開くと、ちょうど彼が指さしていた位置に、質問の答えとなる箇所かしょが記載されている。


 セウヤ兄は教本を丸ごと暗記してしまうのだ。


 セウヤ兄は幼い頃から近しい者には気味悪がられた。

 彼は恐ろしいほど賢いが、時に彼の出す『正しい答え』が、人をぞっとさせた。


 あれはリエリーが5つの頃、彼女は庭園の芝の上に、小鳥のひなを見つける。


 7つ年上のリュウヤに雛を巣に戻してあげたいとお願いすると、リュウヤ兄は、庭師に梯子はしごを借りてあげようとその場を離れた。


 リエリーが大事に手の中にしまっている雛を、セウヤ兄が「それをこっちによこしてみろ」と言った。

「私が一番いい方法を知っている」と。


 リュウヤ兄が戻って見たのは火のように泣く妹。

 セウヤ兄はリエリーの目の前で、その雛を生きたまま土に埋めたのだ。


 問題があるのなら、その根源を断てばよい。

 セウヤ兄はそのように考えるようだった。


 リエリーが10歳、セウヤ兄が11歳で母が病で亡くなった。


 母の使っていた品々にすがりついて泣く妹を見て、次々と母の形見を捨てていく。

「泣いて母が生き返る訳でもない、どうしてそんな無駄なことをする。泣くな」とセウヤ兄はリエリーを叱った。


 セウヤ兄なりに、リエリーのことを大切に思ってはいてくれる。けれど、時にリエリーの想像もしなかったやり方で、セウヤ兄は「彼にとって正しいやり方」をするのだった。

 

 セウヤ兄が12歳になると、彼の興味は具体物から抽象物に移った。


 数学の世界に、彼はあっという間に取り込まれ、推測して論理的に結論を見出す作業に没頭ぼっとうした。

 頭の中の世界に、彼は入ってしまい。長い間出てこなかった。


 子供の体に、大人の頭脳。そんなセウヤ兄を、リュウヤ兄は、いつも隣で導いた。

 セウヤ兄はリュウヤ兄の言うことをよく聞いた。


 周りの同世代の子供とは会話もせず、大人を言い負かし、孤立してしまうセウヤ兄。けれど、リュウヤ兄だけは特別で、「兄上、兄上」とリュウヤ兄に暇さえあればくっついていた。

 

 セウヤ兄の頭脳が家庭教師の手に負えなくなり、学院に入ると、たちまち彼の優秀さが広まった。


 眉目秀麗びもくしゅうれいな少年は神童と呼ばれ、人々の注目を集めた。身長が伸びて声が低くなると、兄は行く先々で年頃の婦女子からの、ため息交じりの甘い視線に取り囲まれた。


 さらにシュロムに属する諸侯が、セウヤ兄と懇意になろうと取り巻いた。

 彼らは、あまりにさといセウヤ兄に夢を見るのだ。


 彼がいずれシュロムの長となり、その聡明さで王権を取り戻すであろうと。


 甘い視線の婦女子にも、便宜を図って近づこうとする貴族諸侯にも、セウヤ兄は興味を示さなかった。

 嫡男のリュウヤ兄をおとしめる発言を、匂わせる相手には容赦なく、合理的な氷の言葉で切りつけた。


 どんなに褒め称えられても、セウヤ兄はリュウヤ兄を慕っていた。

 リュウヤ兄は優秀な弟が自慢で、二人は仲の良い兄弟だった。


 

「…… セウヤ兄様……」

 リエリーが呼びかける声は、広い部屋のなかでか細く消えた。


 何とか食事を細々ととるが、彼の意思は、生きる方とは反対へ向かっている。

 事故から目覚めて、彼は1度も床から出ようとしない。

 

 あの事故の日、セウヤ兄は水門の放水口から、水路へ投げ出され、そのまま体は沈んで見えなくなった。近衛兵たちが次々に救助に向かったが、流れに押し戻されて、放水口に近づけない。けれど……


 あの人が、深みから兄を持ち上げて、水路のふちまで抱えて運んでくれた。彼は兄を追い、同じ場所に沈んだので、見つけることができたのだ。

 

 琥珀色の瞳のあの青年は、兄を助けてくれた。

 リエリーとの約束を、彼は命をして成し遂げた。


 奇跡のように助けられた命。

 リエリーは兄が死なずに済んで、心から感謝した。


 助かって良かった。

 良かったはずなのに。


 彼女の胸は部屋の空気がすべて岩になって、彼女の胸にのしかかってくるかのように、重い。さりとて逃げ場もなく、ただうつむいて、その重苦しさに耐える。


 長兄のリュウヤ兄が突然逝ってしまい、その現実を呑み込めないままに、次兄は大怪我を負いもう歩けない。

 一度に押し寄せてきた現実を、受け止めきれない。


 私は、今、どうすればいいのか。


「セウヤ兄様…… あの…… 体を、少し…… 起こしましょう。寝てばかりでは良くないと…… 」

 それを口に出そうとすると、胸がザクザクと刺されるように痛い、でも彼女は、父に言えと命じられている言葉を声にした。


「足は、じきに良くなりますよ…… だから、少し動かして」


「死ねばよかった」


 低い、感情を含まない冷えた声。

 兄から、今までとは違う言葉が漏れた。


『黙れ、黙れ、黙れ、もう歩けない。もう二度と歩けないことを私は分かっている。その、嘘で固めたおぞましい慰めを、口にするなと何度言えば分かるんだ』

 

 この2カ月間、兄は感情を渦巻かせたまま沈黙し、耐えきれなくなると癇癪かんしゃくを起して、リエリーに怒鳴り散らした。


 兄は意識を取り戻した後、足の激痛に苦しんだ。

 彼の両足は放水口で引っかかり、捻じ曲げられ骨は砕け、けんも複雑に切れてしまった。


 治療によって、痛みからは解放されはしたが、両足首の損傷がひどく、元に戻すことは無理だった。

 悲しい事に、彼の頭脳は、己の体に何が起きたのかを素早く正確に把握した。


 彼の足首から下は無残な形となり、もはや立つことも絶望的、人の助けがなければ動けない体であると理解した。


 頭で理解はしても、感情は追いつかない。


 取り乱す兄を見て、父は早々に部屋を退散して、それきり訪れない。

『足はすぐに良くなると、繰り返し言って慰めておけ』

 リエリーにきつい口調で命令し、父は本邸に帰ってしまった。


 都の外れに建てられた、シュロム家別邸。

 リエリーが祖父と暮らす、小さくて豪華な、寂しい館。


 リエリーは、病んだ祖父の付き添い係。


 父に命じられて10歳から家族と離れて、祖父に付き添ってきた。

 そこに兄が、やはり祖父と同じように傷つき心を病んだ兄が、この館に加わった。


 我を失って喚き散らす祖父を、リエリーは何度も見てきた。

 癇癪かんしゃくを起して、怒りを向けられることに、慣れてしまった。


 だが、慣れてしまったからと言って、私が祖父に何をしてあげられただろう?

 兄に、これから何をしてあげられるだろう?


 何もできない私は、父の言いつけを守って。

 ただ、ここにいるだけ、それが私の役目。


「あの時、死んでいればよかった。」


 静かにセウヤ兄は言った、いつものように怒鳴らない。

 だが、その言葉は、彼の悲しみが、より深まったことを告げていた。


「リュウヤ兄さんがいない世界に、生きていても意味がない」


 セウヤ兄様の絶望、あれほどまでに慕っていたリュウヤ兄様を失ってしまった。セウヤ兄様が深く兄を敬愛していたことをリエリーは誰よりも知っている。


 それは、リエリーにも同じく訪れた、光のない世界。


 リュウヤ兄は、リエリーにとっても、シュロム家に灯る唯一の光だった。


 暗闇の中で独り時を過ごしていると、ふと頭上に灯りが灯る。

 見上げるとリュウヤ兄様が、どうしたリエリー? と微笑みかけてくれる。

 空気みたいに忘れられた自分をリュウヤ兄様は、ちゃんと存在しているのだと、気づかせてくれた。


 セウヤ兄様にとっても、リュウヤ兄様は同じように、光だったろう。もしかしたら、自分よりもっと、セウヤ兄はリュウヤ兄に頼り切っていたのではないか?


 賢いがゆえに、世界と上手く繋がれない彼が、唯一リュウヤ兄に手を引いてもらうことで、なんとかこちら側に留まれていたのではないだろうか。


 父は尊大な口調で、リュウヤ兄に命令ばかりしているように見えたが、実質は兄に助けられていたようだ。


 父の傲慢ごうまんさが原因で起きる、シュロム領での問題や諸侯との軋轢あつれき。それを上手く取り持っているのはリュウヤ兄なのだと、セウヤ兄から聞いたことがあった。


 王権を失った廃れ行くシュロム家。


 それぞれの方向に散ってしまいそうな、父と祖父とセウヤ兄、そして私。バラバラな糸をなんとかつむいでシュロム家を支えてくれていたリュウヤ兄様。

 

 目を閉じて、開いたら、世界は一変した。

 リュウヤ兄様は死んでしまった。

 

「せめて、リュウヤ兄さんが殺されたことを、あいつの罪をおおやけにしたかった。それなのに… 機会は失われてしまった」


 セウヤ兄は長い時間をかけて、体を起こした。


「気が付いたら、こんな体。」

 彼がもたれかかれるよう、リエリーは背中に枕を入れて支えを作った。

 久しぶりに体を起こした彼は、しばらくぼんやりと外を見ていた。


「友だと…… グイドは俺の友だと、リュウヤ兄さんは言ったんだ」

 独り言のように兄が言った。


「友と信じた相手を殺すのかと、リュウヤ兄の信頼を利用したのかと、そう考えたら」


「私はグイドを許せない」

 兄は現王の名を呼び捨てた。


「リエリー、私の動かない体には、この怒りしか残っていない、こんな体と心でどうして生きていけるというのか、どうして助けた、どうしてあのまま、溺れ死にさせてくれな……」


 そこまで言って、彼は突然、頬を打たれたようにハッと目を見開いた。


「リエリー、私を助けた者がいると聞いた。男だ、私と同じように放水口から流された」

 自分を助けた者に、彼はようやっと、意識を向けたようだった。


「その男はどうなった。生きているのか? 無事なのか?」

「お怪我はなく、お元気にされていると聞きました」


「どこにいる? 何者だ?」

「どこ…… にいらっしゃるかは存じませんが。あの…… ミタツルギ家のご子息とお聞きしました」


「ミタツルギ家の息子だと?」

 兄は薄く笑って馬鹿にしたように言った。


「私を助けて、ミタツルギ家のそいつは名を上げたことだろう、そいつは怪我なしか? 幸運なことじゃないか、父上から褒美ほうびもたいそうもらったのじゃないか? この私をこんな体にさせておいて、その男は喜んでいるだろう」


「あの方は、そんな、喜ぶなんて」

 リエリーは兄の怒りが、命の恩人である彼にまで向いたことに驚いた。


「あの方? 会いに来たのか、その男は? この私の無様ぶざまな体を、確認しにきたのか?」

 セウヤがの苛立ちが増すことが怖くて、リエリーは体を固くする。


「違います、あの方は…… なにも、なにも望まなくて、だから、私はお会いすることはなくて、お礼を申し上げることもできなくて、だから会ってはいないのです」


 言葉がつっかえ、要領を得なくなると、セウヤ兄はいつも苛々する。リエリーはいつ怒鳴られるかとおびえながら続けた。


「それで、私はお話を伝え聞いただけで、その……あの方は褒美ほうびを断られたと」

「褒美を断っただと」


「は……い、そう聞きました。父上が望むものを褒美にとミタツルギ家にお伝えになりましたが、でも、あの方は何も望まないとお返事されたそうです」

 

忌々いまいましい」

 長い沈黙の後で、兄が口にした言葉の意味がよく分からなかった。


「ふざけるな、何故、褒美を断る」

 どうして、兄が彼に対して激高しているか、分からない。


「許さない、私をこんな体にしておきながら、聖人気取りか? 崇高なことでも成し遂げたと思っているのか? 」


 けれど兄は顔を赤くする程に、体を震わせる程に、怒りはさらに増していく。


 そしてとうとう、永遠に床から出ないと思われた、その体を動かした。侍従に「出かける」と宣言するほどに。


「その男に会いに行く」


 リエリーは兄の体の回復を望んでいた。

 歩けなくなっても、車椅子で生きていく彼を、誠心誠意支えて生きていこうと思っていた。

 

 早く気持ちを安らかにして、あの車椅子に乗ってくれたらと、そう思っていた。


 兄を前向きに変えるのは、優しさとか思いやりとか、将来への希望とかそういうものだとぼんやり思っていて、自分にどうすれば、兄の心に見合うだけのものが出せるのか、毎日考えていた。


 けれど、彼を車椅子に乗せたのは、あの人への怒り。

 リエリーにはセウヤ兄の心の仕組みがどうなっているのか、とうてい理解できなかった。


 命の恩人であるはずの、あの人を……


 セウヤ兄を、

 そして私を救ってくれたあの人を……


 セウヤお兄様、お願い、彼を傷つけないで。

 

 恐ろしい変化を見せ、兄の痩せた体はきびきびと側仕えに命令し、身支度を整えさせた。

 セウヤは車椅子を侍従に押させて、リエリーを残し部屋を出て行った。


 呆然としたまま、兄が出て行った扉を見つめた。

 恐ろしいほどゆっくりと進む時の中で、兄を待った。


 侍女が食事を勧めても、到底食べる気持ちにはならなかった。

 陽が真上に登り、下って夕日になり、細く長く部屋に影をつくる。


 あの日

 橋の欄干らんかんの上で

 彼は静かにリエリーを見つめていた。


 琥珀こはく色の瞳は黒いに縁どられ、強く印象に残るまなざし。

 あの瞳は、何かを強く宿やどしていた。


 それが何であったのか分からない。

 されど、その強い何かは、矢のように真っすぐに放たれて、彼女の胸の中心を射抜いた。

 

 彼に射抜かれた胸は、もう元に戻らない。

 痛みではない、けれど痛みと形容するしかない強烈な何かを、彼女の胸は抱えている。


 繰り返し、

 ひたすら繰り返し、

 リエリーの脳裏によみがえる彼の琥珀こはくのまなざし。


 彼の身を案じた。

 セウヤ兄が彼を傷つけてしまうことを恐れた。

 彼の体も、そして心も、傷つけて欲しくないと強く願った。


 窓から差し込む夕日が色を失い、濃く青い闇が部屋を満たし始めた頃セウヤは帰ってきた。

 

 どう言葉をかければ、彼の無事を確認できるのか。

 頭の中で目まぐるしく考え、そして何も言葉は見つからず立ち尽くす。


 兄の目は満足げに笑っていた。

 瞳孔どうこうが大きくなって、興奮している。


 嬉しそうな顔にぞっとした。

 彼は何をしてきたのだ?


 兄はもう何年もそうしていたかのように、自然な感じで、車椅子を両手で動かしで彼女の正面に来た。


「あいつが気に入った」

 兄は一言、リエリーにそう告げた。

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