命の恩人
留木石木花
1
まどろみのなかで、わたしはぼんやりと考えていた。
それは、彼といつまで一緒でいられるのか、ということについて。
*
病院のベッドの上で、わたしは目を覚ました。ずっと眠っていたような気も、ほんのうたた寝だったような気もする。
月明かりのない、静かな夜だった。わたしは何となく、どうしてわたしがここに居るのかについて、振り返っていた。
生まれつき、わたしは身体が弱かった。病気の正確な名前は何度聞いても覚えられなかったけれど、とにかく臓器が悪いらしい。それでも幼い頃は普通の子と変わらない生活ができていた。肉体の成長に伴って臓器への負荷も増していって、小学四年生を迎えた春、ここにやってきた。それから、わたしはずっとここに居る。せめてもの救いは、心臓の機能だけは人並みだったということだ。常日頃は腕に何本か針を刺して、一週間のうちに二回、なんとかという特別な治療を受けるだけで、急に命が尽きてしまうようなことはないらしい。
同年代の子は、みんな中学を卒業していると聞いた。「あの子、家業を継がされたのよ。まだ子供なのにかわいそうよね」「あの子が私立の高校に行ったのよ。貧乏なのに親不孝よね」――ママはよく、そうした話を聞かせてくれる。わたしはというと、外の世界への興味を表明するような機会が、とうになくなってしまった。昔はたくさんわがままを言って、ママやお医者さんを困らせていた。「もっと大きくなれば身体が手術に耐えられるようになるから、それまでの辛抱だよ」――そう教えられて、わたしは大人しい子になった。最近のママは、そんなわたしの変わり様をとにかく憂いている。
「あなたも子供なんだから、もっとわがまま言っていいのよ」
けれど、わたしはこのままでも良かった。
あさひ君がいるからだ。
あさひ君は、わたしのお兄さんだ。正確に言えば血の繋がりはなく、近所に住んでいたというだけの男の子。年齢もわたしと同じなので、幼馴染という方が近いのだろう。でもわたしは、ずっとお兄さんと呼んでいた。十六にもなればさすがにそれが奇妙なことだと自覚したので、今は普通に名前で呼んでいる。昔から、あさひ君はわたしの憧れだった。運動も勉強も難なくこなし、どこか大人びていて年不相応な妖艶さのある顔つきも魅力的だ。わたしだけでなく誰しもが、子供ながらに彼を篤く好んでいたと思う。何より、わたしに対するあさひ君の態度にはいつも思いやりがあった。それは彼にとって、自分より恵まれていない人間に対する普遍的な対応だった――とは分かっていたけれど、わたしにはそれがどうしても嬉しかった。わたしが学校に行けなくなってからも、あさひ君はよくお見舞いに来てくれる。次はいつ逢えるのだろう、次はどんな話を聞かせてくれるのだろうと妄想を膨らませているだけで、わたしの簡素な日々には豊かな彩が散りばめられていたのだ。
わたしが眠っていた間にあさひ君が来ていたら……ふとそんな心配を覚える。あさひ君だってそんなに頻繁に顔を見せてくれるわけではないのだから、その貴重な一回をみすみす逃すというのは、わたしにとって自身の命の灯が枯れるよりも残酷なことだ。が、わたしはすぐに安堵の息を吐く。お見舞いのとき、あさひ君は決まって一冊、小説を持ってきてくれる。「最近読んだんだけど、これが面白くてね。ぼくはもう読み終わったから、フウカちゃんにも貸してあげるよ」――背の高いあさひ君はわたしを優しく見下ろしながら、その小説をわたしの枕元に置いていく。あいにくわたしは難しい漢字が分からないので、その本を繙くことはできないけれど。前回あさひ君が持ってきてくれた本がまだ残っているので、あさひ君は来ていないはずだ。
寝転んだまま、本を胸元に手繰り寄せる。わずかに感じられるぬくもりは、たぶんあさひ君のものだ。次はいつ、あさひ君の顔を見られるだろう……そんなことを考えていると、次第に目蓋が重くなってくる。
次に目を覚ましたとき、あさひ君はわたしの病室にいた。
この頃のあさひ君は、いつもちょっと派手なジャケットを羽織っていた。髪にも目立たないながら特徴的な差し色が入っていて、聞けば、高校に通いながら読者モデルをやっているのだという。それで、あさひ君は自分の見た目に気を使い始めた。初めてその姿を見たときのわたしは、あまりの格好良さに見つめているのも恥ずかしくなって、ぷいとそっぽを向いて照れ隠しに「変な女が寄ってきそう」と言ったものだ。そのときのあさひ君の困ったような微笑みは、久々に自身の幼稚さで他人に迷惑をかけてしまった罪悪感も相まって、強く記憶に刻まれている。
が、今のあさひ君は見る影もなかった。
カーテンの隙間から射し込む朝日に包まれて、あさひ君はわたしと同じ、つまらない病院服を着ている。顔色には生気がなく、右腕と右足にはギプスを巻いて、点滴と松葉杖を常に側に置いている。その様子にわたしは酷くうろたえ、言葉を失った。けれどわたしをまっすぐ見つめる瞳の穢れなさは以前と変わらず、それだけのことに、わたしはほっとする。
何があったの、とわたしは何度もあさひ君に尋ねた。けれどあさひ君は何も言わず、ただわたしを見ているだけ。じれったくて声を荒げそうになったそのとき、あさひ君は枕元の本を手に取った。そして、わたしにその本を読み聞かせた。久しぶりに聞いたあさひ君の声は身体中に染み渡るようで、思わずうっとりしてしまいそうだったけれど……頁を捲る指の覚束なさも同じくらい気掛かりで、わたしはずっと、複雑な気持ちであさひ君の声に耳を傾けていた。
しばらくして、見覚えのあるお医者さんがやってくる。お医者さんは、あさひ君に何があったのか、わたしに教えてくれた。
――一週間前、あさひ君は交通事故に巻き込まれた。高校からの帰りしな、普段はまるで車の往行もないような細い農道で、軽自動車に撥ねられたのだ。その言葉から覚える印象以上には、大きな事故だったという。当時、車は八十キロ近い速度で、土埃とけたたましいエンジン音をあげながら走行していた。暴走車の接近に気づいたあさひ君は道を逸れ、道脇の畑に踏み入ってまで避けようと試みたが……ぬかるみに足を取られたのか車は突如進行方向を翻し、あさひ君を撥ねた。運転手の四十代女性は、衝突の衝撃で頭を強く打ち、帰らぬ人となったそうだ。
幸い、あさひ君は当たり所が良かった。重体ではあったものの即死ではなく、お医者さんの懸命な治療もあって一命を取り留めた。今、あさひ君は予後の観察も兼ねて、ここに入院している――。
お医者さんが話している間、あさひ君はずっと沈痛な面持ちだった。それがなおさら事故の凄惨さを物語っていて……わたしはあさひ君を可哀そうに思うと同時に、胸を撫で下ろしたい気分にもなっていた。
あさひ君が生きていてよかった。今は、それ以外のことなんてわたしにとって些事に過ぎなかったのだ。
それからの毎日は、こんなことを言うのはたぶん不謹慎なのだけど、息が詰まってしまうくらいには幸福だった。かつては稀に顔を見せてくれるだけだったあさひ君が、ずっとわたしの前にいてくれる。そして、ずっと本を読み聞かせてくれる。おかげでわたしはその物語を初めて理解することができて、すぐに、それを好きになった。何よりもまず、あさひ君とその気持ちを共有するという体験を心から悦んだ。そんな中、あさひ君はときたまわたしの容態を気遣って、わたしのことを撫でてくれる。その手つきの、なんと優しいことか!
わたしは、かねてより抱えていた一つの心配事が、ついに解決したのだと思った。あさひ君といつまで一緒に居られるのか――このまま、ずっと一緒に居られるのだろう。そんな確信が、わたしには芽生えていた。
けれど、何事も望み通りにはいかないものだ。日が暮れて、文字を読むのも難しいくらい辺りが暗くなると、あさひ君はいなくなってしまう。死人のように静まりかえった夜のしじまはわたしには切な過ぎたけれど、また日が昇れば、あさひ君は決まってわたしの前に姿を現した。そして、物語の続きを教えてくれた。いつも同じ本なのがちょっと残念だったけれど、それでもあさひ君のぬくもりを常に感じていられるというだけで、わたしは有頂天の気分になることができたのだ。
*
そして目を覚ましたとき、あさひ君はいつものように、わたしの前にいた。
昨夜の静寂が嘘のように、窓の外は喧騒に満ちている。これもまたいつも通りのことで、この棟の向かいには町一番の広さを誇る総合公園があるのだ。恵まれた子供たちや、恵まれていないにしてもわたしほどには不幸でない患者たちのはしゃぐ声が、いつも風に乗って伝わってくる。今日はいつにも増してよく晴れていて、外も、いつもより少し騒がしいようだ。
そんな中でもあさひ君は変わらずわたしの前で本を読んでいて、わたしは、その声をまるで音楽のように堪能する。ふと、あさひ君が窓の方を妬ましげに見やった……ような気がした。けれど次の瞬間にはわたしと目が合っていて、そしてあさひ君は、わたしのことをなぜかちょっと力強く撫でてくる。
しばらくすると、見慣れた顔の看護師さんがやってくる。もう、お昼ごはんの時間だ。看護師さんは慣れた手つきでベッドレールにトレイを取り付け、わたしの好みの埒からやや外れた病院食を用意する。覚束ない手元で箸を取るのと同時に、看護師さんによる問診が始まった。
「それで、
「だいぶ快復してきました」
と答えるものの、看護師さんはどこか憂いを含んだ眼差しでわたしを注視する。
「そうですか。いえ、それならいいんですが……口うるさいようですが、我慢をしてはいけませんからね。こちらの質問には素直に答えていただかないと、適切な処置ができなくなってしまいますので」
そこまで言うと、看護師さんはシーツの上で開かれた小説に目を向ける。
「いつも、その本を読まれているんですね」
「はい」
「他のものは読まないんですか?」
その問いには、微笑んで答える。
「別に、どうしても本を読みたいというわけではないんです。この本だから、読んでいるんですよ。これを読んでいると、何というか、あの人が身近にいることを強く感じられるんです。先生も知っているとは思いますけど、あの人は、私にとって特別な人ですから」
看護師さんは、どこか含みのある曖昧な笑みを浮かべてただ一言、
「なるほど、そうですか」
とだけ言った。
直後、お医者さんが病室に入ってきた。あさひ君に起こった不幸な出来事について教えてくれた、男の先生だ。
「その件について、大切なお話があります」
と何やら厳めしく切り出したお医者さんの話に、わたしは耳を傾ける。
「実は、もう一度、あなたに手術を受けていただきたいのです。
詳しくお話しましょう。まず、あの瞬間のあなたの容体は、悲惨なものでした。緊急の移植手術が要されましたが、日本では未だ臓器提供が一般的でなく、ましてあなたと同年代の未成年による臓器の提供など、本病院はおろか我が県でも前例がありません。一応、十五歳以上であれば本人の意思表示か家族の承諾があれば臓器の提供を受けることが可能なのですが、如何せん、その歳で臓器提供について明るい子供も、我が子の臓器をすすんで譲り渡したいという親御さんもおりません。そのため当時、あなたのドナーは選択の余地がありませんでした。あなたの手術の直前に急な不幸によって脳死状態となった、あなたと同い年の子の臓器を、あなたに移植したのです。
全くの奇跡でした。あの歳で自ら意思登録を行っている子がいて、その子とあなたのABO血液型が一致していた。HLA型は違いましたが、幸い術後の拒絶反応も見られませんでした。もはや、神様が見ているとすら思える巡り合わせ――ここまでは以前お伝えしたかと思いますが、覚えておりますか?」
「もちろん、覚えています。その人が誰なのかも聞きました」
するとお医者さんは、どこか申し訳なさそうな顔で続けた。
「ではここからが本題なのですが、実は……異性の臓器を移植した場合、術後の拒絶反応がなくともいずれ予後が不安定になるケースが多く見られるのです。前回は応急処置として手術を行いましたが、我々は目下、別のドナーを探していました。それが、ついに見つかったのです。今すぐにでも二次移植を行うべきだというのが我々の見解です。
もちろんあなたの意思を優先するつもりですが、どうでしょうか。臓器の具合が悪いということはありませんか、折原さん」
……二次移植? どうして?
わたしはこんなに健康だというのに。
それに、あさひ君と離れ離れになるなんて、絶対にあり得ない。
返答がないのを見かねてか、お医者さんは静かだが熱の籠った口調で言う。
「確かに、あなたにとってその人は特別な存在なのでしょう。多分に皮肉的な形ではありますが、あなたが運命のようなものを感じていたとしてもおかしくありません。事故で胸部を強打し、肋骨が折れ、心臓が破裂してしまったあなた。そして、身体が弱く本病院にずっと入院しており、それでも心臓だけは常に健やかであり続けた彼女。そんな子があなたの事故の直前に息を引き取り、奇しくもあなたの命を救うことになったのですから。その子の死を無駄にはしたくない……そんな思いが、あなたにはあるのでしょう」
病室の壁に掛けられた、あさひ君たっての希望で持ち込まれた姿見。
その中で、あさひ君は悩ましげに下唇を噛んでいる。
だめ! ――そうわたしは叫ぼうとした。けれど口はおろか、身体のあらゆる部分はわたしに応答してくれない。
「ですが、冷静になって、よく考えてください。そもそもあなたをこんな目に合わせた相手こそ、
やめて。
やっと一緒になれたのに。
こうすれば、わたしたちはずっと一緒でいられるはずだったのに。
わたしの激情を優しく宥めるかのように、あさひ君はわたしのことを撫でてくれる。けれど鏡に映るあさひ君の顔は苦しそうで――あさひ君はベッドの上でうずくまり、心臓のあたりをきつく抑えている。
あさひ君は息も絶え絶えに、しかし燃え滾るような激高を孕んだ声でこう言った。
「べつにそんな理由じゃない。ただ、手術が怖かっただけなんです。でももう限界だ。心臓の調子も、私をこんな目に合わせた奴の娘が、私の中に居るということも! ――先生、どうか、今すぐに移植手術をお願いします」
「わかりました。すでに手術の準備はできています。ついてきてください」
そしてあさひ君はベッドから立ち上がった。お医者さんに手を引かれ、鏡の前から消えていく。わたしの言葉が届くことはなく、それからというものあさひ君は、二度とわたしの前に現れなくなってしまった。
命の恩人 留木石木花 @IsokohanaTomegi
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