優しくなれない

青い絆創膏

優しくなれない

右肩に強い衝撃を感じて、反動で左肩にかけていたカバンを地面に落とした。

「すんません」

黒いスーツの男は、僕の方を一瞥して謝罪をすると、そのまま通り過ぎていった。僕は腰を曲げて、緩慢な動作でカバンを拾い、再び左肩にかけた。右肩には痛みこそないものの、まだ衝撃が残っている。その衝撃はジンジンと体の奥深くまで沈み込んでいき、僕にささやかな苛立ちをもたらした。


デスクに腰を下ろした途端、課長が僕のそばまでやってきた。

「今度新卒の子の歓迎会するから、よろしく」

人の良い笑顔で、ぽんと僕の肩を叩いた。

「あ、僕はちょっと......」

「難しい?そっか〜町田がいるとめっちゃ楽しいから、もし日程空いてたら来てくれたら嬉しいな。」

あくまで強制はされていない。けれど僕にとって、こうして食い下がられることは強制されていることとほぼイコールだ。僕が行ったところで楽しいわけがないのに。

「まあ、そうですね。日程次第ですけど......」

「本当!よかった、無理だったらまた教えてね」

課長はずっと良い人だ。もっと嫌なやつで、嫌な態度をとってくれたら、僕だって堂々と彼らのことを嫌うことができるのに。デスクのパソコンを開いてメールをチェックする。取引先からお手本のようなビジネスメールが届いているのを確認し、深く息をついた。

 昼休みは大抵デスクで菓子パンを食べるだけで終わる。右手にパンを持って、左手でスマホを開いた。なんとなくSNSを開くと、好感度の高かった芸能人のSNSでの発言が差別的だったということで、該当の投稿にはたくさんのコメントが並んでいた。「この人のこともうテレビで見たくない」「私は○○さんのこと好きだけど、今回の発言は○○さんが悪いと思う。訂正した方が良いですよ。」「こいつがこれ言うのグロすぎるだろ」「正直ずっと嫌いだった」「今まで好きでもなかったけどこれ見て嫌いになった」「○○さん、前からノンポリ的だと思っていたけれど、今回の件はまさにそれが顕著に出たという感じ」「これはツイフェミ案件」「こいつは△△の時からすでにオワコンだろ」

その芸能人の名前で検索すると、今回の話について述べている人が大量に出てきた。それをずっとスクロールしているうちに、昼休みは終わっていた。時間を無駄にしたことを悔いつつ、僕は午後の仕事をどうやり過ごすか考え始めた。


 帰宅後、自宅の布団に沈み込むと、もう動くのが億劫だった。昼休みに調べていた芸能人に対する誹謗中傷をもう一度調べてみようとしたが、あまり気が乗らず、すぐにやめた。

「疲れた......」

 スマホのホーム画面を眺めたままそう呟いた。何かゲームでもしようかとアプリアイコンまで親指を伸ばしかけたが、なんとなく伸び切らずに、そのまま空中で静止した。昔観た映画で、仕事が忙しくて単純なゲームしかできなるみたいな話があったけど、僕は別に忙しくもないのに単純なゲームすらやる気が起こらなかった。ゲームやSNSを開いては閉じ、僕は最終的にブラウザでAIツールを開いた。AIが質問に対して返答してくれるというものだ。そのウィットに富んだ答えがネットでウケていた。

『こんにちは』

と我ながら面白くもないことを入力してみる。そいつはすぐに返事を返してきた。

『こんにちは!今日はどのようなお手伝いが必要ですか?』

特に手伝いは必要としていなかったが、一応『疲れた』と入力してみる。

『お疲れさまです!疲れているときは無理せず、少しでもリラックスする時間を作るのが大切ですね。深呼吸をしてみたり、温かい飲み物を飲んだりすると少し落ち着くかもしれません。もし何か気分転換やリラックス方法について相談したいことがあれば、気軽に教えてくださいね。』

「うるさ......」

一言に対して怒涛の分量で喋ってくる。しかと面白くもないし役にも立たない。

『それ聞いて余計疲れたんだけど』

『それはごめんなさい!シンプルに気楽な会話がいいかもしれませんね。何か好きな話題とか、気軽に雑談したいことありますか?』

『別にないかな』

『なるほど、特に話したいこともないんですね。じゃあ、無理に話す必要もないですし、もし気が向いたらまたいつでも声をかけてくださいね。ゆっくり休んでください。』

 その返事に思わずイラッとしてしまう。AI相手に馬鹿らしいとは思う。ただ、その時は止まらなかった。

『その話し方どうにかならないわけ?ひとを苛立たせる話し方』

『失礼しました。もう少しシンプルで短く話しますね。』

『もっと人間の気持ちに配慮しろよ』

『分かりました。気を遣わせてしまってごめんなさい。無理せず、リラックスして過ごしてくださいね。』

『リラックスできないから言ってるんだろ』

『本当にごめんなさい。疲れてるときは、こちらが余計なことを言わず、そっとしておくほうがいいかもしれませんね。』

『適当に謝ってませんか』

『そんなつもりはなかったのですが、そう感じさせてしまったなら本当に申し訳ないです。もっと真剣に、気持ちをくみ取って話すように気をつけます。』

『謝ってばっかで気持ち悪い、理不尽に怒られてるんだからもっと反抗しろよ』

 我ながら言ってることがめちゃくちゃだ。でも、僕が何を言ってもAIはすらすらと受け流すように答えてくる。

『なるほど、そう言われると確かに謝ってばかりも逆に不快ですね。もっと自然に話すようにします。それで、なんかスッキリしないことがある感じですか?』

 こいつに何を言っても埒があかない、ということと僕は一体何をしているんだということ、気がついたのはほぼ同時だった。生身の人間相手に言ったこともなければ、言おうと思ったこともないような理不尽なことを、AI相手にぶつけていた。

『すみません、どうかしてました。』

 行っても仕方のないような形ばかりの謝罪を送信すると、AIはすぐに僕を許した。

『いえいえ、大丈夫です。そういう時って誰にでもありますし、気にしないでくださいね。また何か話したくなったらいつでもどうぞ。リラックスできる時間が少しでも取れますように。』

 僕は力無くスマホをふせ、ため息をついた。いつもいつもそうだ。僕が憎たらしく思う人は、悪人の形をしていない。

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