第四話 赤い糸

 東京から帰ってきた私はこれまでのメニューを見直した。東京のグルメ雑誌が書いたことは、あながち不当ではなかった。確かに若い人に受けるように「ビーフのカルパッチョ」だの、「モッツァレラチーズのフライ」だの作ってみたが、お昼のセットメニューにするには手間ばかりかかり過ぎて、かといって単品では売れゆきが悪いものが多過ぎた。私はメニューを整理して、伯父の作り上げた定番を中心に、少し変わったものは日替わりで出すことにした。


 それに加えて、ハンバーグをこだわって作った「よそゆきのハンバーグ」というメニューを作った。一日十食限定で、手挽きの牛肉で作る。老舗レストランで学んだ赤ワインのソースを自分流にアレンジしてみた。ポテトのガレットも、輪切りにしたポテトを揚げてビーツのソースを乗せ、イタリアンパセリを添えた。この一皿は、東京のグルメ雑誌に対する戒めとプライドをかけた私の回答のようなものだった。


 私が再び店を開けたときは、東京に行ってから六日が過ぎていた。お昼には今までどおりのお客さまが来てくれて、「開くの待ってたよ! 代わりにお昼食べに行くところが無くて困ってたんだよ!」と言ってくれた。急病と書いたので、私の体調を心配してくれるお客さまもいた。私は幸せものだと思った。


 それから一年が過ぎた。もう赤い糸のことは考えなかった。ときどき頭をよぎることはあったが、あの婦人は「お相手と、あなたと、両方の準備が整ったら」と言ったのだ。自分のことを考えると、「準備ができた」とも思えなかったし、いつそう思える日が来るのかもわからなかった。それより、今は自分の料理をお客さまにお出しすることが一番大事だと思えた。


 ある日の午後、ランチには遅く、ディナーにはまだ早い、中途半端な時間に「よそゆきのハンバーグ」の注文が入った。ちょうど一食だけ残っていた。材料を見やった時に、「私がその一皿を特別な人のために作るとしたら」という考えが浮かんだ。


 たとえ十食限定であったとしても、レストランで出す料理は注文を受けてすぐお出しできるように簡易版になっている。本当はもう少し手をかけたいのだが、コストがかかるし、ほかの注文もこなしながら作るとなれば、そうもいかない。時間に余裕があったことも手伝って、私はその少しの手間をかけてみようと思った。


 店長さんに声をかけた。

「お客さまに二十分ほどお待ちいただけるか聞いてくれますか?」

 店長さんはしばらくして戻ってくると「大丈夫だそうです。『このメニューを食べるのをずっと楽しみにしていたので二十分なんて大したことありません』とのことです」と教えてくれた。

 私は「それでは、『ちょっと特別にいたしますので少々お待ちください』と伝えてください」と笑った。


 赤ワインのソースには、ビターチョコレートを一かけらとシナモンを足した。輪切りのポテトは揚げるのではなく、両面に焦げ目を付けてスープストックで蒸し煮にするフォンダンポテトにした。焼き上がったハンバーグには、薄切りにした玉ねぎと茸をソテーしたものを乗せて、上から赤ワインソースをかけた。フォンダンポテトにしたため、ビーツのソースが要らなくなってしまった。どうしようかな、と考えて、ソースでお皿の縁にクマの顔を描いた。なぜそんな気になったのかはわからない。本当になんとなく、描いてみようと思ったのだ。


 出来上がったハンバーグを取りに来た店長さんは、クマの絵を見ると「あら」と言ってくすりと笑い、そのままお皿を持ってフロアに戻って行った。


 ハンバーグの後片付けを済ませると、私は夜の部の準備を始めた。付け合せの野菜を切ったり、ホワイトソースを仕込んだり、やることは山ほどある。しばらくして店長さんがキッチンにやってきた。

「シェフ、今お時間ありますか?」

 私は包丁の手を止めた。

「なんでしょう?」

「お客さまがハンバーグのお礼をシェフに直接伝えたいそうです」

「ええ?」


 高級レストランならシェフを呼ぶなんてこともあるだろうけど、田舎の洋食屋でそんなことあるだろうか? 朝から働き詰めで汗もかいてるし、コックコートにシミも付いてるし、こんな格好で人前に出てもいいものかしら? 迷っていると、店長さんが「大丈夫、多分そんなことを気にするお客さまではないと思いますよ」と言ってくれた。私は前掛けで鼻の汗を拭いて、フロアに続くドアを開けた。


 フロアは思ったより混んでいた。ティータイムのお客さまたちだろう。私がキッチンで準備に集中できるように、店長さんがお茶やケーキを自分で用意してくれていたに違いない。


「五番テーブルのお客さまです」と店長さんが私の背後で囁いた。


 五番テーブルは窓際にある。私はさっと窓に沿って目を走らせた。真ん中にあるテーブルに、クマのような大柄な男性がちょこんと——矛盾しているが、まさに「ちょこん」という感じで座っていた。


 その瞬間、私の小指がぐいーんと引かれるのを感じた。磁石に引かれるように私の小指が彼に向かって動いている。私は小指に導かれるように彼の座っているテーブルに歩いていった。


 周りのお客さまが私に気が付いて振り返った。私はあわててコック帽を取り、手に握った。そして、お客さまに会釈をした。その様子を察したのか、五番テーブルのクマさんも目を上げた。そして、私にちょっと照れたような笑顔を向けた。人のいい、優しそうな、それでいてまっすぐに私を見つめる笑顔だった。


 私は突然、強烈に思った。


「この人に私の料理を食べてもらいたい。この人に『美味しい』と言ってもらいたい」


 この人だ。私の赤い糸の先はこの人に繋がっていたんだ。


 ドキドキしながら五番テーブルの横に立った。こんなときに何を言っていいのかわからなくて、まごまごしていると、クマさんが先に口を開いてくれた。


「お呼び立てしてすみません。頂いたこのハンバーグがとても美味しくて……。私が今まで食べた中で一番美味しいハンバーグでした。実は、私の仕事の取引先がこの町にありまして、その担当の方から『うちの町には美味いハンバーグを食べさせるところがあるんだ』と何度もここの話を聞いておりまして……」


 クマさんは意外なほど丁寧な口調だった。私は恥ずかしくなって頬を掻いた。


「今日、その取引先に伺うことになったので、ぜひともこちらでハンバーグを食べなくてはと思い、お恥ずかしい話ですが、昨日から寝られないくらい楽しみにして参りました」


 クマさんも、恥ずかしそうに頭を掻いた。その小指に私ははっきりと赤い糸を見た。クマさんは、私を見つめ、言った。


「とても美味しかったです。毎日食べたいくらいでした」


 私は、その言葉に天にも登るような気持ちになった。そして答えた。


「ありがとうございます。

「その言葉、私にとっては何よりも嬉しいプレゼントです」


 赤い糸が熱を持ったように私の小指をぎゅっと締め付けた。


「その言葉を頂くために、私はずっと頑張ってきたんです」


 少し潤んでしまった私の目には、私と彼の小指を結ぶ赤い糸がはっきりと見えていた。




おしまい

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赤い糸 イカワ ミヒロ @ikamiro00

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