第三話 ソールズベリー・ステーキ

 朝早く東京駅に着いた私は呆然としていた。人、人、人。川の流れのように人が動いていく。その流れにどうやって乗ったらいいのかわからない。赤い糸を辿れるだけ辿ってみようと思って、始発で地元を出発したが、この駅からどうやって乗り換えればいいのかもわからない。とりあえずは赤い糸が頼りだ。どこに着くかはわからないが、赤い糸が導く先に行ってみよう。


 迷路のような駅構内をぐるぐると回り、上に行ったり下に行ったりしながら、私はやっとあるプラットフォームに辿り着いた。オレンジ色の列車が到着しては人を吐き出し、また大量の人を乗せて発車していく。……っていうか、これって「電車に乗る」って言わないよね? 「電車に押し込まれてる」?


 私のようにぼうっと突っ立っているだけで既に邪魔になっていることがわかったので、私はホームの端にある柵に身を寄せて、行き交う人々を観察した。不規則にごった返しているように見えるが、人々は次発、次々発の電車を待つべく精巧な順番で動作を繰り返しており、その間を降車してきた人々が出荷される芋のように行進していく。電車に詰め込まれた人たちはゴム人形のように窓に張り付いている。


 駄目だ。私はこの電車には乗れない。ぎゅう詰めになった電車を見送り、そちらの方向に伸びている私の赤い糸を眺めた。ビルの間から差し込む朝日に照らされて、赤い糸はところどころきらめいて見えた。


 未来の旦那さま、もしあなたが東京に住んでいるなら、私はあなたの運命の相手にはなれそうもないです。



 人混みを避けて東京駅を出て、まっすぐ歩いていったら緑の多いところに辿り着いた。少しほっとする。ランチの時間になるまでこの辺りを散歩しよう。ケータイの地図を見ると、このまま歩いてレストランまで行けそうだ。


 私の着いたところは皇居だったらしい。ひたすらお堀端を歩き、公園をぶらぶらして、お昼近くになって予約していた老舗レストランに向かった。レストランのビルは車が行き交う忙しい通りに建っていた。お花屋さんのようなきらきらしい入口を通って、目的の階へと向かった。


 レストランの入り口では、品の良い男性に迎え入れられた。中では、お金持ちそうな奥様たちのグループや、平日から何をしているのか若いカップルが既にテーブルに着いていた。平日に何をしてるのかは、もちろん私も同じで、その上お一人様だ。浮いている、完全に浮いている。


 しかし、ここまで来たのだ。東京のおハイソな「ソールズベリー・ステーキ」を食べてやる!


 前菜のサラダを頂いた後、パリッとアイロンのかかったテーブル クロスを眺めてみたり、ナプキンの分厚さで一枚の値段を想像してみたり、ぴかぴかのカトラリーのメーカー名を探してみたり、一人ながら忙しく過ごしていると、待ちに待ったメインディッシュがやってきた!


 ウェイターが恭しく「メインのソールズベリー・ステーキになります」と、皿を置く。


「神戸産の和牛に、フランスのペリゴール産のフォアグラのソテーを添えております。ボルドレーズ・ソースには、エシャロットとジロール茸が使われております。サイドはポテトのガレットとなっております。ごゆっくりお楽しみください」


 呪文のようなメニュー紹介だったが、私の目は点だった。だって……、だって、眼の前にあるのは……。


 ハンバーグじゃないの!!!


 私はテーブルの下でこっそりとケータイを覗き込んだ。ふむふむ、ソールズベリー・ステーキはアメリカのソールズベリー博士というお医者さんが滋養強壮のために編み出したハンバーグ風のお料理らしい。私はなんだか気が抜けて、ソールズベリー・ステーキハンバーグなら何度も食べたことがあるわ、という顔で一口頂いた。


 ……美味しい。


 さすがに老舗レストランだ。ハンバーグをソールズベリー・ステーキと呼ぶだけある。フォアグラはとろけるようだし、そのコクがハンバーグ、いや、ステーキに丸みと奥行きを出している。ステーキも手挽きなのか、不均質な口当たりが肉々しくて良い。ソースも赤ワインの香りと渋み、そして苦みがバターのコクと合わさって素敵なハーモニーを醸し出している。平たく焼かれたポテトのガレットも、下に刷毛で引いたように敷かれていた赤くてほんのり甘酸っぱいソースにつけて食べるとさっぱりして美味しい。同じ赤いソースで小さな花模様が横に書いてあるのも可愛らしかった。


 私は一口ひとくちを大切に味わった。多分、この先一生一万円のハンバーグを再び食べることはないだろうから。


 気持ちよく満腹になった私が口元を拭いていると、ウェイターがやってきて「ご満足いただけましたか?」と私に尋ねた。私はうなずき、プレートを下げる彼に「ポテトの下に敷いてあったソースは何ですか?」と聞いた。ウェイターは「ビーツという赤い蕪の酢漬けをピューレにしたものです」と答えてくれた。「そうですか、ありがとうございます」と返しながら、私は自分のメニューにも取り入れてみようと考えた。そこでふと、私は再び料理をする気になっていることに気が付いて、一人で微笑んだ。


 食後のコーヒーを飲みながら、レストランの大きな窓越しに東京の景色を眺めた。この街にはたくさんの人が働き、住んでいる。世界でも最大級の都市だ。そんな中には、一万円のハンバーグを出すこんな高級レストランも、千円のハンバーグを出すチェーンのレストランもあるだろう。


 私が経営するのは、地方都市の小さなレストラン。店長さんと私が二人だけで切り盛りしている。昼時の OL さんやサラリーマンのお客さまは、手挽きにした神戸牛のハンバーグを食べに来るわけではない。手軽でお財布に優しい、でも美味しいお昼を食べにくるはずだ。夜や週末のお客さまは家族連れが多い。今晩はご馳走を食べたい、子供の誕生日のお祝いをしたい。小さな私には、伯父の作るちょっと手の込んだ、でも飾り気のない洋食が楽しみだった。そうだ、私は、伯父のあの味を残したいと思ったのだ。東京のおハイソな味を目指そうと思ったのではないはずだ。


「田舎の洋食屋」上等。私は、私が美味しいと思う洋食屋を目指してやろうじゃない!


 帰りの列車を待つ東京駅のプラットフォームで、私は線路の向こうに伸びていく赤い糸に話しかけた。


「いつか、あなたが美味しいと言ってくれる料理を作りながら、あなたのことを待ちますね」

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