第二話 冷や水

 亮平と別れてから一年が過ぎた。私は調理学校を卒業して、キッチンを一人で仕切るようになった。忙しい昼時は伯父が来て手伝ってくれるが、今は仕入れから仕込み、後片付けまで自分ででるようになった。フロアは以前から働いているベテランの女性が一手に引き受けてくれている。私はキッチン担当で裏方なので、敬意を込めて彼女を店長さんと呼んだ。


 伝統の味とはいうものの、全く同じ味付けではお客は続かない。伯父の昔ながらのレシピでは、今ではしょっぱ過ぎたり、油っぽかったりする。私は伯父と相談しながら、昔の味を残しつつ、少しずつレシピを変えていった。


 それが功を奏したのか、徐々に若いお客さまが増え始めた。昼時は近所に勤める OL で混むようになり、ローカル誌に取り上げられたりもした。


 その頃からだ。ほんのりと赤くなっていた私の小指にはっきりとした赤い糸が見え始めたのは。私は、自分は正しい方向に歩いているのだと思った。レストランを盛り上げて、ちょっと名が知られるようになったりすれば、グルメ批評家と知り合って、その人と結婚するんじゃないかと想像したりした。


 私は流行を取り入れたメニューを考えるようになった。ランチには女性が好みそうなデザートを付けたり、食べられる花を添えたりした。レストランの仕事を頑張れば頑張るほど、赤い糸は長くなっていった。普段は見えないのだが、見ようと思うとふわっと浮き上がって見える。一度興味が湧いて、赤い糸の先がどこに繋がっているのか追っていったことがある。私の町の中央にある駅に辿り着いて、ホームの中まで入ってみたけれど、赤い糸は線路の真ん中を上り方面に細く儚げな様子で伸びていた。


 私のシェフ歴が三年目に入った頃、東京のグルメ雑誌の編集部から電話があった。東京から二時間ほどで行ける場所で人気のレストランを取材しているという。私のレストランのことをローカル誌で読んだらしい。取材の申込みを私は一も二もなく承諾した。


 私の想像は本当になるのかもしれない。全国誌で取り上げられて、女性シェフとして注目されるかもしれない。もしかしたら、取材に来るグルメ批評家と恋に落ちるかも……! 私は小指の赤い糸にキスをした。


 数日後、グルメ雑誌の編集者とカメラマンがにやってきた。私は受付嬢時代のスキルを再び動員し、ナチュラルメイクを施して、ヘアサロンにも行って、取材に臨んだ。


 今はすっかり引退していた伯父にも手伝ってもらって、いつもより良いお肉やお魚でお料理を作った。取材用の写真を撮る作業は大変だった。予定していた数品をお出しすると、写真映えがするようにもう少し量を盛れとか、ワインも新しく開けろなどと、細かい注文があった。これも記事のためと思い、指示通りに盛り付け直した。私の写真を撮る時には、伯父と二人で写真を撮ってもらった。伯父はもう引退した身だからと遠慮したのだが、伯父なくしてはこのレストランは続けられなかったので、私は是非にと言って写真に入ってもらった。そのときに、カメラマンは私が着けていたコック帽を伯父に被るように言った。初代シェフなのだからと、私も同意した。カメラマンが撮った写真は良く撮れていたと思う。その後、編集部の二人は料理をすべて平らげ、私の経歴やなぜ料理の道を目指したのかなどの話を聞くことはなく、広告料金と称して、飲食代も支払わずに帰っていった。それでも、東京の雑誌に載ると思えば安いものだと思ったし、これでうちのレストランの知名度も上がるはずだと、雑誌の発売日を楽しみに待った。


 雑誌の次の号がいよいよ発売されて、私はコンビニで買った雑誌を家まで待ちきれずに店を出たすぐその前で広げた。うちのレストランの名を課した記事の内容は、散々だった。気取った飾り付けの割には古臭い味。流行りを追いたいのか、昔ながらの味を目指すのかはっきりしない。値段の割に量が少ない。あたかも伯父がシェフで、私がスーシェフのように書かれているのも心外だった。中でも一番の打撃は、「所詮は田舎の洋食屋」という締めくくりの言葉だった。


 悔しくて涙が出た。自分の今までの努力をすべて否定された気がした。伯父もその雑誌を買ったらしく、「僕が頭を突っ込んだばっかりに……」と謝りの電話がかかってきたが、伯父のせいではない。私は「まだまだ私の修行が足りないってことです」とできる限りの明るい声で電話を切ったが、心はひどく傷付いていた。


 それから何を作っても楽しくなかった。毎日来てくれるお客さまがいるので、仕込みをし、料理をお出ししていたが、作業は機械的だった。店長さんが私のことを心配してくれたが、彼女に相談する気にさえならなかった。


 ある朝、とうとうレストランに行く気にもならなくて、店長さんに連絡した。店長さんは「ずっと頑張ってきたから、しばらくお休みしてみたら?」と言ってくれた。私は店長さんの優しさに感謝して、レストランのドアに「急病のため、一週間お休みします」と張り紙をした。


 三日ぐらいはぼうっと過ごしていたのだが、四日目に「東京に行こう」と思い立った。「うちが『所詮は田舎の洋食屋』ならば、東京のレストランはどんなものなのか」と思ったのが一つ、もう一つは赤い糸のその先を追ってみようと思ったのだ。


 私はインターネットのグルメサイトで東京の高級そうなレストランを探してみた。どうせ行くなら、トップクラスの料理を食べてやろうと思った。しかし、いろいろなレストランがあり過ぎる。混乱してきて、もう東京行きは諦めようかと思ったそのとき、銀座にある老舗レストランの一万円もするというランチの広告が目に入った。「今月のメニュー」と書かれた下には「ソールズベリー・ステーキ」と書いてあった。どんなステーキかは知らないが、一万円もするからには、さぞかし東京らしいスカしたおハイソな味がするに違いない。私は鼻息も荒く、そのランチを予約した。

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