赤い糸

イカワ ミヒロ

第一話 お告げ?

「赤い糸が見えていますね」


 振り返ると、着物の女性が座っていた。彼女の前には小さな机と椅子。

 誘われるようにその椅子に座った。


「あの……運命の相手と繋がっているっていう、あの赤い糸ですか?」

 そう聞いた私に、着物の婦人はにっこりとうなずいた。そして、私の手を取ると小指を示した。

「ほら、ここ。少し赤くなって見えるでしょ。むず痒い感じがするんじゃない?」

 私は驚いて言った。

「そうです! 少し前から、なんだかむずむずして。私、飲食店に勤めてるんで、伝染る病気だったら困ると思って皮膚科に行ったんですけど」

 婦人は笑った。

「そうじゃないわ。運命の赤い糸よ」


 疲れ切っていた私の心が急浮上した。

 亮平と付き合って、もう三年。もしかして結婚を考えていてくれているのかもしれない。


「いつ頃結婚できそうですか?」


 何の占いかはわからないけれど、私は両手の手のひらを婦人に見せた。

 婦人は私の両手をとり、しげしげと眺めてから、再び私に微笑んだ。


「今すぐではありません。お相手と、あなたと、両方の準備が整ったら」


 婦人は私の手のひらをまた見やって言った。


「この方は、あなたの作ったご飯を美味しい、美味しいと言って食べてくれるでしょう。あなたは、この方に美味しいご飯を食べていただけることだけを目指してください」


 私の心の中に、亮平が美味しそうにご飯を食べている様子が浮かんだ。


「わかりました。私、頑張ります!」


 手のひらから目を上げると、婦人はどこにもいなかった。

 振り返って、周りを見回すと、私は誰もいない通りの端に両手を上向きに広げて立っていた。



 そんな不思議なことがあってから三日ほどして、亮平からメッセージが来た。


「今度の火曜の夜、会える? 話がある」


 私の心は躍った。プロポーズかもしれない!


 亮平とは前の会社で知り合った。私は受付嬢。亮平は関連企業の営業だった。顔を合わせるうちに亮平からデートを申し込まれた。受付嬢の中でも亮平は人気だったので、私は誇らしかった。交際は順調だった。私が会社を辞めるまでは。


 私の伯父は小さなレストランを経営していた。地方都市の洋食屋で、誕生日やお祝いごとは伯父のレストランで過ごしていた。その伯父がレストランを閉じるという。年を取って、一人でキッチンに立つのが辛くなったのだそうだ。伯父の息子たちはそれぞれ会社で役職があり、レストランを継ぐつもりはないらしい。


 この話を聞いて、私は居ても立っても居られなくなってしまった。子供の頃から慣れ親しんだあのレストランが無くなってしまうことに焦燥感を覚えた。一日中ショーケースの中のマネキンのように笑顔を作って過ごす毎日より、長く続いたレストランの味を引き継ぐことの方が意味のある大切なことに思えた。


 両親は「大変だぞ」と言ったものの、反対はしなかった。伯父も喜んでくれた。亮平は戸惑ったようだが、応援すると言ってくれた。私は希望を胸に辞表を提出した。


 その意気込みがしぼむまでに時間はかからなかった。料理をするのは大変だった。仕込みは朝早くから始まり、店を閉めても後片付けや翌日の準備があった。しかも私は料理には素人だった。昼はこれまでどおり伯父に任せ、調理学校に通った。朝と夜はレストランに詰めた。


 それでも止めようとは思わなかった。伯父の気持ちを考えると、今更引き返すことはできなかった。しわ寄せは亮平に行った。忙しくてデートもできなかった。会えば愚痴ばかりになってしまった。最初は土日に料理を食べに来てくれた亮平も、次第に仕事を理由に寄り付かなくなった。メッセージも一週間に一、二回に減った。


 レストランの定休日は火曜日だ。その日に亮平が会いたいという。私は午前中からネイル サロンに行って、普段はできない爪のおしゃれをした。普段はもう止めてしまった受付嬢仕込みのお化粧をして、お気に入りのワンピースを身に着けて、約束のカフェバーに行った。


 亮平は既に来ていて、おしゃれをしてきた私に少し驚いたようだった。

 いつもどおりに挨拶をして、お互いの近況を聞き終わった頃、亮平は咳払いをして言った。


「メッセージで言った話なんだけど……」


(来た!)と私は思い、背筋を伸ばして座り直した。笑顔になりすぎないように、少し改まった顔を取り繕った。


「俺たち……、別れよう」


「……は?」


 思わず口に出てしまった。


 亮平が言うには、きれいにお化粧していた私が好きだったこと、ニコニコと彼の話を聞く私を気に入っていたこと。レストランに勤め始めてからは、化粧っ気もなくなり、いつも疲れていて、どれだけ仕事が大変かという話ばかりになって、何度も辞めてしまえばと言ったのに、耳を貸さなかったと言う。亮平が好きだった私はいなくなってしまったそうだ。


 反論はできなかった。


 一人残されたカフェバーで、赤い糸の婦人のことを考えた。「ガセネタ掴ませやがって!」と思った。私は立ち上がった。婦人に会ったあの通りに戻ってみよう。婦人に文句の一つでも言ってやらねば気がすまなかった。しかし、彼女にどこで会ったのか思い出そうとしてもあやふやで、結局その場所には辿り着けなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2024年11月8日 07:00
2024年11月9日 07:00
2024年11月10日 07:00

赤い糸 イカワ ミヒロ @ikamiro00

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ