第26話 聖女様が選ばれた道だから
この世界では神殿に住まい奉仕生活をする者であっても、それが神に自分の全てを捧げるという意味になるわけではない。人付き合いが制限されることはないし、恋愛も自由だ。それは俺がそういう世界観にしたからで不思議はない。それでも特定の既婚者の女性の元へ男が足繁く通うのは世間的に褒められる行為ではないだろう。
しかし神殿は知らぬふりをするどころかそれを歓迎すらする雰囲気にあったらしい。
なんでだ。
「その理由は終末の兆しにあります」
負の感情から生まれる【ダァル・ルア】は魔物を生み出す。
タズム周辺では、普段、頻回には魔物が姿を現すことはない。が、エイミがひどく心を患っているときには、強いものものではなかったが魔物の目撃情報が増えていた。
それほど人口のないこの集落で起こる出来事はすぐに皆で共有する情報となる。集落全体が次第に不穏な空気を孕み始める。
神殿はこの状況をぼんやり見過ごすことはできない。エイミの心の傷を癒す必要があり、かつ、そこからひろがる悪い空気を取り除きたかった。
人々には彼女を責めることでダァル・ルアが生まれる危険を説く。そして、皆で彼女の心の癒しに当たることがリィム・ルアが満ちる世界につながるのだと。そんな中で傷心の彼女を支えるタイロンは人々の不安を取り除くに充分過ぎる存在だった。
なるほどね。
ナグムの話はなおも続く。
二人の心の距離は近く親密な関係だったが、神殿の知る限りでエイミは夫がいるにも関わらず不貞を働く女性ではないし、タイロンも真面目すぎるほどに真面目な男だったため、男女の関係ではなかったという断言は出来ると言う。
彼女と周囲の人々の心の落ち着きとともにタズム周辺に魔物はほぼ見られなくなった。そして集落は平穏を取り戻す。
そんなある時、突然、彼女の夫が戻ってきた。母の容体も落ち着きようやくここへ戻ることができたと。しかし、母の側に誰かがいる必要があることに変わりはなく、留守を知人に頼んではきたが急いで戻る必要がある。
夫の訪れは深夜。二人の出発は早朝のこと。エイミはタイロンに事の次第を告げる時間を得られず、急ぎ書き上げた書簡を一通残してして旅立っていった。
日が昇っていつも通り神殿を訪れたタイロンにその書簡が渡される。しかしタイロンはそれを神殿に突き返した。
その日以来、彼女からの書簡はタイロンに開けられることもなく神殿預かりとなり、彼は酒を浴びるような生活を始める。成り行きの一部始終を知る神殿は知らぬふりもできずタイロンの心を癒そうと考えるが、タイロンは荒れ続ける。
酒浸りの生活を始めたタイロンは酒を切らせると暴れだすようになった。それに呼応するよう鳴りを潜めていた魔物たちがまた姿を見せ始める。
心乱しかけた酒飲みがひとりいるだけの話だ。本来そんな簡単に魔物が生まれてくることはない。それはエイミのときだって同じだ。しかし世界を満たすルアの均衡が大きく乱れているせいでちょっとしたことでダァル・ルアが溢れ出す。そして魔物が生まれてくる。
それ以上の凶事を恐れて神殿はタイロンを静かにさせるため、周りの人をそれで安心させるため、行き過ぎた飲酒を黙認した。いや、黙認どころか積極的に手助けした。そのおかげで、今の平穏が保たれているのだ。
ナグムはそう締めくくった。
話を聞く前は詳しい説明を拒むかと予想したけれど、結局、思いもかけずナグムは詳細に話した。むしろこの件を誰かに相談したくて仕方がなかったのかもしれない。
まぁ、その気持ちもわからなくないし、そうする理由もわからないとは言わないよ。
だけど。
それじゃ解決にならないだろう。
タイロンは見るからにアル中だ。このまま続ければ近いうちにこれよりもっとひどい状態になるだろう。
なのに話し終わったナグムは妙に晴れ晴れとした顔をしている。
「聖女様がこうして来て下さいましたから、それも今日までとなるのでしょう。これでタイロンも我々も救われます」
晴れ晴れの理由はそれか!
まぁ、どういう状況であろうと連れていくつもりではあったんだけれど。なんだかなぁ。
「今を思えば、これまでのことも女神レイネスに示された道だったのでしょう。彼に洗礼名を与えよという女神のお言葉、しかと受け取りました」
ナグムは後ろに控えていたノォラに目配せする。
「ここへ来るよう私の名でタイロンに伝えてください」
え、ちょ、待て待て!
「洗礼名って本人が嫌がってるのに与えるものじゃないと思うので、その辺は無理をしなくても……」
洗礼名付きで呼んだとき、あいつ、めちゃくちゃ嫌そうな顔をしていたんだよな。話がこじれて進まなくなるのが怖い。
「しかし女神からの預言でありますから……」
「いいから! 本人がいらないって言ったらつけなくていいですから!」
俺の大声にナグムは肩を揺らして発言半ばで口を閉じた。
ナグムとノォラは面食らった様な表情で少し顔を見合わせた。
「聖女様が預言と違う道を選ばれるというのなら、それもまた間違いではないのやもしれぬ」
ナグムがつぶやくとノォラが頷いた。
「そうですね。聖女様の選ばれた道を信じましょう」
随分と簡単に納得しちゃうんだな。もしかして、この世界観、結構行き当たりばったりでまかり通ってしまう感じなんだろうか。
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