第7話 ケシュトナのアイシャ 1
背後の扉が大きく開き、息の上がったサイラスが飛び込んできた。
「まだ走ってはいけないよ」
「とくに問題ない」
ほら、と両手を広げて腕をぐるぐる回してみせた。むしろこの身体になる前より快適なくらいだ。肩こりも腰痛もないし、何より軽い。
サイラスは俺をじっと見つめ、俺の言う通り問題がなさそうなのがわかったのか大きく息をつくと少し顔を強張らせた。
「君はここに倒れていたんだよ」
俺の小説でもアイシャはここに倒れていた。それは同じだ。だが、違う。それは召喚された少女【愛紗】なんだ。
「どうなっているんだ」
声に出すつもりはなかった。だが、意外にも大きかった俺のつぶやきを聞いて、サイラスが足早に歩み寄り俺の前に立った。
「やはり、いつもと様子が違うみたいだね、アイシャ」
「違う」
アイシャじゃない。
つい語気が荒くなった。
サイラスは膝をつき俺と目の高さを合わせた。困ったように眉根を寄せている。
「なんだか話が噛み合っていないようだね」
噛んで含めるような、子供に言い聞かせるような、そんな口調でサイラスは話し続ける。
「違うと感じているのは私の方なんだけど、アイシャは何がちがうと言うの」
「違うから」
「でもね、アイシャ」
「だから、違うってっ!」
俺の怒鳴り声にサイラスは一瞬息を飲み、何か言おうとしたのか口を開く。
「ここで騒ぐのは感心できないねぇ」
静かに、叫んでいるわけでもないのにピシリとした響きで俺達を打ったその声は重い扉の向こうから飛んできた。
ゆっくりとした歩調で扉の向こうから姿を表したのは年嵩の女性。サイラスと同じ型で紫襟の白い法衣身に纏っている。背丈は今の俺よりも低く、髪はほぼ白い。灰味がかった青い瞳は決して鋭くはないが油断ない雰囲気で俺に向けられている。
「ルディア・オル・グラニー」
確かめるべくその名を口に出すと、彼女は眉をひそめ、その左を大げさに釣り上げた。
「呼び捨てとは聞き捨てならないね。アイシャ・エル・リィン」
記憶に間違いはない。
神官ルディア。この神殿の最高責任者で、サイラスの育ての親でもある。
サイラスの次はルディア。
やっぱりもう、疑う余地なし、なんだよなぁ。
今までこの状況を疑いたい自分がずっとどこかにあった。でも、本当はもうわかっていたんだ。認めなくちゃいけない。ここは間違いなく小説の中なんだ。
だけど、どうしても腑に落ちない。なんで主人公だけが違っているんだ。【アイシャ・エル・リィン】。全く聞き覚えない名だ。そして俺の中にある、俺のものではない記憶。アイシャ・エル・リィンが生きて過ごした記憶。
「アイシャ・エル・リィン」
「はい」
問いただす声に自然に返事が出た。
「あの、俺……」
いや、アイシャなんだから【俺】は変か。このアイシャも俺の書いている方もどちらも一人称は【わたし】だ。ここはやっぱりそれに沿うべきか。
「わたしは……」
待てよ。
一体何を言うつもりだ。
俺は【佐藤亮】でアイシャじゃない。もう、この子はアイシャじゃなくなった……そう言うのか。それは信じてもらえるのか。そもそもこの状態は俺がアイシャの中に召喚され転移した状態なのか。それともリアル世界で俺が死んだとすればここに転生した状態なのか。アイシャも倒れていたと言うから、この子の命に関わる某かが起きていたのならありうるかもしれない。あるいは俺はまだ生きていて、夢を見るみたいにアイシャの中の新しい記憶として入り込んだ状態だろうか…アイシャだった時の記憶もしっかりある。記憶喪失から戻った状態に似ていると言えなくないのか。その場合……
「アイシャ・エル・リィン」
ぴしりと打つ声に俺の意識は思考から眼の前に呼び戻された。
「瞼を開けて眠っているのかい」
伏目で低くそう言われて、慌てて首を横に振った。
自分が生み出した登場人物の筈なんだが……何だろうな、これ。迫力に押されてドギマギしている自分ってどうなんだよ。
「まったく。一体、何だって言うんだろうね」
ルディアの溜息で、自分が堪えきれずに笑い声を漏らしていると気づいた。
このシチュエーションで笑うのは、ないよな。マズいよな。うん。わかっているんだが。
「ルディア様。アイシャはやはりどこか調子が悪いのかもしれませんね」
不安げなサイラスを一瞥してルディアは鼻で息をつく。
「この子が見当違いのおっちょこちょいなのは今にはじまったことじゃないがね」
「え、アイシャってそんな感じの子なのか」
俺の漏らした感想に、今度は二人の視線が揃って突き刺さる。
しまった。声に出しちゃうのはまずかったな。
「ええと……」
本当だったら、明らかに召喚されてるってシーンに居合わせたルディアが、目覚めた愛紗に『よくぞ参られた。救世の聖女よ!』って言ってくれるんだよな。どう説明したものか。
「俺……」
いや、違った。
「……わたし……が倒れたときって傍に誰もいなかった、のかな」
「そう。聖石の変化に気がついて私がここへ来たときにはすでに倒れていたんだよ」
神妙な顔でサイラスが答える。
つまり、俺の場合その展開は、ない、と。
「召喚された人がどこにいるのか……知っている人はいるのかな」
俺の質問に答えようとしたのか、口を開きかけたサイラスを杖をかざしてルディアは黙らせた。
ルディアが俺を伏し目がちに一瞥する。
「質問ばかりじゃないか」
う……いや、ちゃんと話さなくちゃとは思っているんだが……
「それに、私は今までの教義で【召喚されるのが人】だとは一度たりとも言っていないんだがね」
ああっ。そうだったのか。アイシャはちゃんと教義を聞いていなかったのかっ。
「そもそも」
ルディアの声が俺を打ち続ける。
「召喚があったなどと一度も明言していないはずだが」
……その通りだ。
サイラスは訝しげに俺達を見比べている。
「そしてね。私も、他の誰も、召喚があったという事実をまだ確認できていないんだよ」
あっ
「聖石が輝きはしたが、それらしき姿はなかったからね」
ルディアが静かに足を踏み出した。
「聖石による召喚があったことを知っている口振り」
背にしていた扉を離れゆっくりと静かに歩み寄ってくる。
「そして、その時聖石の前にいたのは」
ルディアが俺の前に立った。手を伸ばし皺だらけの細い人差し指で俺の喉の下辺りを突いた。触れたか触れないかの強さの筈なのに、貫かれたみたいに身動きが取れない。
「たった一人」
ルディアは揺るぎない視線で俺を捕まえたまま、決定的な一言を俺に投げる。
「お前だよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます