第2話 冴えない小説家志望の冴えない事象

 「あ! 今ちょっと見えたよね!? 観覧車!」

 

 車窓の端にカラフルで遊園地にはお馴染みの建造物を見つけて、美咲は俺の袖をグイグイ引っ張る。


「静かにしろって。お前は小学生か」


 言われた美咲は俺の袖を放すと辺りを見回した。

 

 遊園地目的の客が殆どだろうこの路線は、平日の昼下がり、それもだいぶ中途半端な時間のせいか、乗客はそう多くない。大学生らしいカップル率が高い。自分たちだけの世界に入りがちな彼らにとって美咲の大声なんて耳にも入らないのかもしれないが。


 居住まいを正して美咲は見え隠れする観覧車に視線を留めている。


「ずっと、……と、……来たかったんだ……」


「何?」


 美咲は切れ長の目をパチパチさせてから小さく首を横に振った。

 

 古いこの路線は結構ガタガタとうるさい。ちょっと懐かしい感じのこの雰囲気は嫌いじゃないけれど、小声で話をするにはあまり向いていないかもな。


「ねぇ」


 美咲がスッと顔を寄せて来た。分かりやすい内緒話のポジション。俺の右肩に美咲の髪がサラッと触れて微かに甘い匂いがして。瞬間的に息が止まった。胸の奥に何かを突きつけられているみたいな、何か罪に問われているような。

 

 確かに静かにしろとは言ったがなぁ。ちょっと近いと思うぞ。


「続きはあるんだよね?」


「続き?」


 肩こりを気にしている体で止まっていた息を静かに吐き出した。いや、肩こりは本当にしているんだけれど。この状況は更にそれを悪化させている。絶対に。


「だから、【終末のラ卜……」


 ……!!

 

「ストップ!!」


 俺から飛び出した大声に自分自身で凍りついた。周りにいたカップルたちが振り返る。口を開けてこっちを見ていた美咲が直ぐに我に返ってあちこち小さく頭を下げる。と、好奇の視線が外れみんなそれぞれの世界に戻っていった。


 あり得ない! 恥ずかしすぎるだろう! こんなところで言うとか! ええっと、ちょっと待った……この身の置きどころがない感じを一体どうしたら……

 

「あのなっ、みさ……」


「ストーップ」


 美咲は小声で言いながらピンと立てた人差し指をすっと俺の口の前に立てた。


「静かにしろって。お前は小学生か」


 くっ。そっくりそのまま返してきたな。


 美咲が喉の奥でククッと笑う。揺れた人差し指が俺の唇をかすかにノックする。


 ま……まずはその指をどかせっ!


 軽く背を伸ばしつつ少しだけ左へと尻の位置をずらす。

 美咲は指を立てていた手を引っ込め、俺が開けた距離を当たり前のように即座に詰める。


「あるんだよね?」


 ……だから……近いって!


「続き」


 内緒話のポジションに戻って、見上げてきたそのとき、車内放送が終点への到着を告げ始めた。


「ほら、もう着くぞ」


「あ、誤魔化してる!?」


 立ち上がろうとした俺の腕を美咲が両手で捕まえる。


「ねぇ、教えてよ」

 

 ホームに滑り込んだ車両は結構雑なブレーキで。

 

「……っ!!」

 

 予想していなかったらしい美咲は鼻先から俺の二の腕に突っ込んだ。


 俺から手を離して鼻を押さえている美咲を尻目に俺は立ち上がりリュックサックを肩にかけ直す。


「行くぞ」


「待って!」


 美咲が追ってくる気配を背中に感じながらホームに降りた。


 ぶつかられた二の腕の感覚がおかしい。美咲の鼻の形までわかりそうなくらい生々しくて。


 改札に切符を吸い込ませて外に出ると、駅の出入口かつ遊園地の切符売り場となっている広場に立った。

 

 しっかりしろ、俺。あれは美咲だ。成りはでかくなったけれど、前と変わらない、ちびっこ美咲だ。やっていることを見てみろ。まるでガキだ。


 そんな俺の心の声を吹き飛ばす勢いで美咲が腕に絡みついてきた。


「ねぇ、あきら! 私いいこと思いついちゃった!」


「いや、まぁ、いいよ……」


「まだ何も言ってない!」


 大して並ぶこともなく自動券売機で入場券を購入。ゲートを通って施設案内のリーフレットを手に取った。


「で、何に乗りたいんだ?」


「遊園地と言ったらまずコーヒーカップでしょ!」


 コーヒーカップって言うと、あれだろ。語彙力もへったくれもない説明しか思い浮かばないが、名前そのまんまのコーヒーカップの中に入ってくるくる回るやつだろう? 


「あ、その顔はバカにしてるでしょ」


「いや、だって、あれは子供が乗るやつじゃないか」

   

 リーフレットを開いて園内マップに目を落とす。

 

 ええと、コーヒーカップはどこだ……そもそも、そのアトラクションの名前がわからないんだが……


「あきら、わかってないなぁ! コーヒーカップの楽しみ方、教えてあげるよ!」


 美咲は俺の手からリーフレットを抜き取ると、マップに目を落として約3秒。


「あった!」


 ええ⁉ もう見つけた⁉

 

「【リコちゃんのティーパーティー】!」


「……リコちゃん……?」


「リコちゃんはこの遊園地のイメージキャラクターでヒロインだよ!」


 早口でそう言うと、リーフレットを持っていない左腕で俺の右腕をフックした美咲は歩きだした。半ば連行される形で俺もついていく。


 ちょ、歩くの速くないか?


「大体、コーヒーカップなのにティーパーティーって……」


「コーヒーカップって単なる総称だよ!」


「……それくらいわかる! が、ちょっと気になったからツッコんだだけで……」


「あきらって意外と変なところで細かいよね。なんか、おじさんぽいっていうか!」


 ……ほっとけよ……


 

 美咲の説明では【リコちゃんのティーパーティー】は人気アトラクションらしく、行楽日は30分以上の待ち時間はざらにあるらしい。


「よかったー! 次の回で乗れそうだね! やっぱり平日に来たの大正解!!」


 美咲はピョコピョコ跳ね跳んでからリーフレットを畳んでバッグに入れた。


「あきら、めっちゃ息切れてるね」


「……おじさんだからね」


「自分でそれ言っちゃうんだ!」


 お前がさっきそう言ったんだよ。

 

 ジトッと横目で見下ろすと美咲は急に黙り込んだ。なぜだか、見上げてるく表情はどこかソワソワしている感じがする。なにか言いたげななのに勿体ぶっているような。


「なんだよ」


「ね、さっき言いかけた話なんたけどさ」


 少し落としたトーンでそう言いながら美咲がピタッと張り付く距離で隣に立った。


「私、あきらの小説に挿絵描いちゃおうかな」


 はぁっ⁉ なんだ突然。


「大丈夫! 結構練習したからそこまで下手じゃないと思うよ!」


 早口に言い募る。


「いいアイデアじゃない?」

 

 まてまてまてまて。


「遠慮しておくよ」

 

「えー」


 そうだ、おふくろが写真なんかと一緒にスマホに送ってきていたな。結構可愛くかけていたと思うが、あんまりマジマジ見ないようにして即刻記憶から抹消したからな。ったく、何でもできちまうやつはこれだから……頼むからこれ以上俺の傷をえぐらないでくれ。





  

 コーヒーカップって、ああいうアトラクションだっけ……?


 

 まっすぐな歩行が出来なくて、美咲に腕を取られつつアトラクション側のベンチに腰を下ろした。


「ね、楽しかったでしょ!」


 あれは、楽しいのか⁉


 音楽が始まった途端カップが回り始めた。何故だか、回転は加速していた。他のカップと様子が違う、美咲が真ん中のハンドルを回しているんだと気がついたときには半端ない遠心力が生まれていて。


「回ってる途中にリコちゃんがぴょこっと飛び出したり結構可愛かったでしょ? あきら、ちゃんと見てた?」


「そうだよ、お前に周り見ろって言われて、俺がどうなったか、わかるか?」


「あきら、ずっと空見てたよね……何度も周り見てっていったのに……なんで?」


 何で……って!


「お前の言う通りに周りを見たらな! バカみたいな遠心力で首が後に引っ張られたっきり起こせなくなってだな……」


 破裂するみたいに美咲が笑いだして、俺はそれ以上の発言を断念した。これが、あれか。ジェネレーションギャップとか言う……


「まぁ、いいや。なんか飲みにでも行こう」


 フラフラ立ち上がると、美咲がすかさず俺の右腕を取って横に立った。


「ごめんね、支えてあげるね!」


 言われると余計に惨めなんだが。


 近くにあった巨大な園内地図を見る。フードコートは……だいぶ遠いな。


「ファストフードっぽいのなら、【ココ♡スタンド】かなぁ。【ホットケーキタワー】がオススメ。で、しっかり食べるなら【デイリークルーズ】。船の中にあるレストランでお肉料理も多いよ。屋外席からみる花火がサイコー。そういう意味でもここは夕食がいいんだろうけど、間違いなく混むね。それから……」


 隣で俺と同じ園内地図を見上げて美咲が説明してくれているのはありがたいんだが。何も見ずにスルスルでてくるその情報量はなんだ……


 とりあえず、喉の渇きはすぐ近くに見える露天でなんとかすることにして、船上レストランで混雑回避のため早めの夕食をとる話に決まった。俺は烏龍茶、美咲はオススメらしいブラックタピオカティーで喉を潤しつつ、夕飯までに行きたいアトラクションを決める。

 

 そんな時間を過ごしながら俺は不思議な気分だった。

 

 俺の知っていた美咲は小学生……もしくは中学に入ったあたりだ。それ以降も顔を見る機会はあったかもしれないが、ほぼ記憶にない。

 母親同士が親友で頻繁に遊びに来る関係、そして母子二人の家庭なもんだからいつも美咲同伴だった。だから、ただの知人よりは近い存在かもしれない。言うなれば妹みたいなものか。それも結構年の離れた。自分には兄弟がいないからその表現が正しいかわからないが、いるとすればたぶんそんなかんじなんだろう。会えばいつも愛嬌いっぱいにかまって欲しがる小さな女の子。にも関わらず成長した顔を知らなかったのは、近年実家に帰るのも億劫で、帰省したとしてもあまり長居していなかったせいかも知れない。


「飲み終わったよね? 行こう!」


 美咲は立ち上がった俺の隣に当たり前の顔をして立つ。そして、さらに当たり前の顔で俺の腕に腕を絡める。引っ張る仕草でグイグイ歩く感じが子供っぽいとも言えなくないが、どう見たって姿は大人の女性で。まるで、初めて見る女性で。触れてくる感触は力を込めて引かれていても不思議に柔らかくて、みぞおちのあたりに違和感の塊があるような変な気分がつきまとう。

 

「20分待ちだって! 来た時より人増えてきたかな?」


 順番待ちの列で無邪気な声を上げてピョコピョコしているが、その度に美咲が絡みついている右腕がなんとも言えない柔らかさに圧迫され揺さぶられる。


 勘弁してくれ。年齢イコール彼女不在歴のアラフォー男には劇薬すぎる。どんなリアクションすればいいんだ。ああ、しなくていいんだ。しなければいいんだ。


 彷徨いかけた目玉を、順番待ち中のアトラクション説明に縫い付けた。まず目に留まるのが、戦闘機に乗ったキャラクターのイラスト。タイトル【スタースインガー☆キラ】。主人公【マイキー】とライバル【キラ】がドッグファイトしているイメージらしい。なになに……


 〚波のようにウェーブしながら回るブランコ。支柱が大きく上下し天井の傘もウェーブします。バトルするライバル二人の迫力満点ドッグファイト! この戦いの行方は? リコちゃんの心を揺さぶるのはどっち?〛

 

 俺の心が揺さぶられまくりだ。


 この手のアトラクションはただでさえ苦手なのに、加えて、上下して揺れが加わるとか。ない。


「あきら! 前空いてる! 進まないと!」


 あと、この隣ではしゃいでいるやつ。こいつもだ。


 わかったと頷きつつ腕引っこ抜きを試みるものの失敗。余計、柔らかみに締め上げられる結果に。


 早く……順番、来てくれ……




 結果として、希望通り、そう待たされもせず、一人乗りアトラクションのおかげで腕は解放されたわけだが。




 


「大丈夫?」


 ベンチに崩れ落ちた俺を覗き込んでくる美咲に、頷きつつ、構うな、と手を上げるゼスチャーで答えた。目を瞑ってとりあえず回復を図る……と思ったが周りをグルグル歩き回る気配。仕方ないから目を開けて声を掛ける。


「大丈夫」


 じゃない……んだけどな。実は。今後、この手のやつは二度と乗らないぞ……


「苦手って知らなくて。ごめんね」


「進むやつは、まだいいんだけどな……グルグル、同じところを回るやつとか、行ったり来たりするやつが、な……」


「進むのならよかったんだ……あ、回るの続いちゃったね、ほんと、ごめんね」


「謝らなくていい」


 そもそも遊園地には当たり前にあるしな。せっかく来たかったところに来たなら乗らないわけにもいかないだろう。


「で、次は何に乗るんだ?」


「え、いいよ! あきら、つらそうだし」


「……悪いな」


 正直なところちょっとアトラクションは休めると助かる。


 美咲は勢いよく首を横に振った。真っすぐの髪の先が振り回されるようにひょこひょこ跳ねる。


「船上レストラン方面に散歩がてら歩くか」


 そう言って立ち上がると、カップに乗ったあと同様に美咲は俺の腕を取る。


 気のせいか……いや、気のせいじゃないな。美咲の手つきが丁寧で、優しい。


 

 レストランへ続く運河沿いの道を、今さらながらに近況等話しながらゆっくり歩いた。

 話すのは殆どが美咲。通っていた高校、大学。お袋たちの相も変わらない仲良しっぷり。俺の実家近所の犬がボケているらしい様子。取り留めがない。対して俺から話せることはそんなにない。むしろ話したいことがないと言うか。ないない尽くしを再認識したところで今さら落ち込むこともないが、なんというか、美咲の勢いみたいなものは羨ましい。

 

 三月の夕暮れ前は暑さも寒さもないちょうどいい感じで人工運河の上を抜ける風は心地いい。独りで淡々と過ごす時間がほとんどの毎日なのに今日は隣に話しかけてくる人間がいる。新鮮だ。

 

 正直なところ、最近は誰かと関わるのが面倒だと感じることもあるくらいだったけれど。

 

 悪くない。

 

 遊園地なんて普段来たいとも思わないし、そんなに好きとも思えないが、こういうのは悪くない。





 レストランに着いたのは夕食にはまだ早い17:00前。まだ大した列もできていなかったから、すんなり入店できた。


「ちょっと早すぎたか」


「ライトアップは17:00からだけど、花火とかのショーは18:00スタートだし、暗くなってからのほうがきれいだもん。ちょうどいい時間だと思う」 


 まぁ、その辺は下調べしているんだろうしな。


「食べられそうか?」


 いつも夜はバイトの合間のかなり遅い時間に食べているからなぁ。この時間じゃ、そんなに食べられる気がしない。


「食べられるよ! 何にしようかなぁ」


 楽しげに美咲はメニューに視線を泳がせている。


 店内だけど窓際のこの席は園内がよく見える。少ししか時間が経っていないのに外は入店時よりだいぶ薄暗く、点灯したイルミネーションのせいで景色はずいぶんと様変わりしていた。


「私、パスタにする。あきら何にする?」

  

 渡されたメニューに目を通したが、特にこれという希望もなくて美咲と同じものを頼むことにした。美咲の説明によると、注文したトマトソースパスタは園内人気ナンバーワンメニューなんだそうな。

 

 美咲の力説通り、パスタは美味しかった。濃厚すぎず、フレッシュトマトがふんだんに使われていたから、大して空腹でもないと思っていたのにペロッと食べられた。別に食通ではないが、この味でこの値段なら、また食べに来てもいいと思えるものだった。


「もう食べ終わったの?」


 アトラクション酔いも覚めていたし、なんとなく物足りない感じ、且つ、手持ち無沙汰もあったから、追加で生ビールを中ジョッキで頼む。


「なんか、おじさんぽい……」


 それ、今日何度目だ。

 

 生ビールはすぐにテーブルにやってきた。

 

 ビールも実はそんなに大好物な方ではない。でも、開いている窓からくる風を感じながら飲むビールは今までになく旨く感じた。


「何も食べていないのに席を埋めているのは気が引けるからな」


「あきら、昔っから食べるの速いよね」


 そう言いつつも美咲に急ぐ様子はない。スプーンの上でフォークをクルクル回すと小さくまとまったパスタを口に運ぶ。


 ソースたっぷりのパスタなのにまったく口が汚れていないのはそういうわけなんだな。何でそんな器用なことができるんだ。俺は普通に食べたぞ。まぁ、普通というか……意識したことないからどんな食べ方だったのか自分で覚えてはいないんだけれど。食べ終わってからペーパーをそれなりに使ったから、あまりきれいな食べ方じゃなかったのかも知れないな。


 美咲は最後のソースをスプーンにとって丁寧に口に運ぶ。柔らかそうな唇の間にスプーンが消えた瞬間、ジョッキを握った手に得も言われぬ感触が還ってきた。発言を封じた時の事故の形跡。指先に触れた滑らかな頬、手のひらに触れて動く唇の。もうずいぶんと時間が経っているのに今になって何でこんなに生々しい。


 久々に飲んで酔いがまわったか。

 いや、こんなビール一杯で酔えるほど弱くはない。


 美咲の食事が終わり会計のために立ち上がったが、別に足取りにも問題ない。

 会計後、トイレへ行ったらしい美咲を待ってから二人で外へ出た。すっかり日の落ち、イルミネーションで様変わりした園内は、カップルらしい二人連れが昼間より多い。

 

 この独特の雰囲気は苦手だ。

 

 どこもかしこも部外者お断りな空気に思えて。視線のやりどころに困って美咲を見た。すでに当たり前のポジションのように俺の右腕に絡んでいる美咲の視線はイルミネーションに釘付けだった。

 

 美咲ってこんなに睫毛が長かったんだな……


「あきら」


 視線はイルミネーションに留めたまま。不意に名前を呼んだ唇は派手な色ではないのに艶があって柔らかさを主張するように光って見える。


「きれいだね」


 少し溜息混じりの声が俺の中にある違和感の塊を刺激する。違和感……いや、この違和感の正体を俺は知っている。だけど美咲はダメだ。ほとんど妹じゃないか。今日だって、お袋に……美佐子さんに頼まれたから、仕方なく……


「あきら?」


 美咲が俺を振り返り首を傾げた。髪が肩から流れ落ちる。美咲の何もかもがいちいち不意打ちみたいで。俺は咄嗟に視線を外すことすらできなくて。


「もしかして、変だった!?」


 俺の視線が唇に留まっていることに気がついた美咲が慌てた様子で口元に手をやる。


「パスタ食べたあとトイレで塗り直したんだけど、やっぱり濃過ぎたかな」


「あ……いや……」


 柔らかさにもう一度触れたい衝動を押しやってイルミネーションに目を向けた。


「……全然そんなこと……ないよ」


 不自然な答えになっていなかっただろうか。


「なら、いいんだけど」

 

 イルミネーションから目を離せなくて。美咲は今どんな表情をしているんだろう。


「ここを出るまでそろそろ一時間切るぞ。乗りたいものがあるのなら乗っておけよ」


 そうだ。美咲はもう少しで帰る。もう少しでこの時間は終わる。


「……進むのはいいんだよね」


「まぁ、そうだな」


「だったら、ジェットコースターがいい! 【スターリー☆フューチャー!!】」

 

 そう言ってしまえば決定なようで、美咲は組んだ俺の腕を引くように足早に歩き始めた。

 と。

 五、六歩進んだところで急に失速し、足を止めた。


「どうした」


「手」


「うん」


 今日、初めて見せるおずおずとした表情。


「繋いでも、いい?」


 なんで急にそんな遠慮がちになるんだ。


「これだけ腕組んで歩き回って今さらだろう」


「そうだよね!」


 俺の返事に美咲は破顔した。右腕に絡んでいた美咲の腕がほどけるように降りて、少し冷たい滑らかな感触が俺の手に滑り込むように収まる。

 瞬間、その手が、俺の持つ、俺が感じられる、唯一の感覚になった。

 腕を組まれるのとは比べ物にならない。想像だにしない、破壊力が。


 これは……まずい。


「普通っ、最後は観覧車なんじゃないのかっ?」


 くそ……カッコ悪いな……

   

 甘ったるい痺れに呑まれそうで、無意識に声のトーンが上がった。

 

「そんなのつまんないよ! イルミネーションの中、ジェットコースター〆がやっぱりいいな」

 

 握るでも離すでもなく中途半端に硬直していた俺の手の中で美咲の手が動いた。祈る形に指が滑り込んで、手のひら同士が密着した。

 

 美咲は俺を斜めに見上げる。

 

「もしかして、観覧車。何か下心でも?」


 声のトーンを低くして、俺の様子を伺うような、からかうような……

 

「ばーか! あるわけないだろ」


 動揺が声に出すぎてそれがまた動揺を誘う。

 

 落ちつけ俺、相手は美咲だぞ。

 

 自分に言い聞かせても、それがもう意味のないことだって本当はわかっている。


 ずっと子供っぽくはしゃいでいたくせに。突然、俺より上手の大人の女みたいな顔になって。俺の動揺を見透かすみたいに、意味深な笑顔を向けてきて。


 

 俺はどうしたらいい?

 


「さっさと並ばないと、乗りそびれるぞ」


「え、やだ! 早く行こう!」


 手をつないだまま歩き出した。

 

「真っ暗な中から走りだすんだって。でね、初めのカーブを曲がった瞬間イルミネーションがぱぁ〜って」

 

「ばらしたら感動減るんじゃないの?」


 美咲が元のはしゃぐ口調になって、俺もようやく硬直が解けてきた。

 

「CMでやってるじゃん! みんな知っててもきれいだからちゃんと感動できたって言ってたし!!」


 ジェットコースター【スターリー☆フューチャー】は人気アトラクションにも関わらず順番待ちの列は思った程には長くなかった。夕食のゴールデンタイムなのがよかったんだろう。


 イルミネーションが眩しいくらいの園内なのにこの乗り場付近は他より薄暗く感じる。美咲は乗りながら見える夜景が話題になっていると言っていた。それを効果的にするために、わざわざ光量を落としているんだろうか。


 待ち時間、俺たちの周りだけ静かな空気に取り巻かれている気がした。今日初めてかもしれない。二人共が無言だった。繋いだ手の感触だけがやけに存在感を主張している。

 

 これが終わったら美咲は帰る。色々、気持ちが振り回される一日だったけれど、あと少しと思うと……


「帰るの、やだなぁ」


 美咲が溜息をついた。俺の考えていることを汲んだようなタイミングで。


「でも、一週間したら引っ越してくるから。そうしたら、また、会えるもんね……?」


 そうか。そうだったな。

 美咲がこっちに住むようになって、頻繁に会えるようになって。そうしたら、どうなるんだろうか。俺は。俺達は。


 

 

 薄暗いプラットホームにジェットコースターが帰ってきた。高揚した空気をまとった客が次々とおりてきて出口階段へと流れていく。


 係員に案内され乗り込んだのは一番前の席。


「やった! 一番いいところ!!」


 安全ベルトを締めながらミサキは興奮気味に俺を見る。

 係員がベルト着用の確認と安全バーのセットを終え片手をあげた瞬間、照明が落ちた。


 進むやつはまだいいとは言ったがやっぱりこの出発前の緊張感は胃に来るな。

 肩に背負う形で降りている安全バーを掴んだ俺の腕を、何かがつつく。


 隣から伸びてきた美咲の手。

 

「なんだ、結局こわいのか」

 

 平静を装いつつ、俺も手を伸ばしてその手を握った。発進前の緊張感で気持ちが高揚しているんだろうか。それが躊躇いなくできた。

 

「すっごくドキドキするね」

 

 少し離れているのにささやくような美咲の声がはっきり聞こえた。


 ああ、ドキドキしている……


 美咲の手。冷え込んできたせいかさっきよりも冷たい。でも、柔らかくて指が細くて、きれいに少しだけ伸ばしてある爪が俺の手の甲にあたっていて。

 

 

 ドキドキしているよ。

 

 

 

 暗闇の中、ジェットコースターが昇り始める。少し軋みながら。

 

 そして一番上に。

 

 一瞬止まって。

 


 ここから下る……!

 

 

 と、けたたましいベルの音が鳴り響いた。そう、まるで火災報知器のような。

 俺の手を握る美咲の手に力が入った。

 

「なんだろう」

 

 まさか、トラブルとか?

 握った手の先にあるはずの美咲の顔を見る。暗すぎてどんな表情かはみえない。

 

「演出じゃないかな」

 

 答える美咲の声がこころなしか掠れている。


 小さな引っ掛かりのような振動。

 そして、ジェットコースターは下り始めた。



 だんだん加速していく。


 

「そろそろみえるかな!?」

 

 美咲がこっちを見たのが、目の端、うっすら暗い中で見える。

 

 ジェットコースターが変な振動をしている。

 

 振動が、大きくなる。

 

「なんか変だぞ!」

 

「あきら!!」

 

 美咲が悲鳴のような声で俺の名前を呼ぶ。


 瞬間、


 ありえない揺さぶり。

 安全バーの間で頭がピンボールみたいに、弾かれるみたいに。

 

 目の奥に火花が散る。

 

 そして


 それは暗く沈む視界に消えた。

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冴えない小説家志望の黙示録 ろく @KuronekoRoku

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