十 太乙救苦天尊 壹

太乙救苦天尊たいおつきゅうくてんそんを知っているだろうか」


 突如、蚩尤にそんな言葉が降り注いだ。緑省に辿り着いた翌日から、蚩尤しゆうと人の姿に戻った騶潤すうじゅんは早速探りを入れる運びとなった。のだが――その二日目、とある店で噂話に耳をそばだてていた時のことだった。


 ろくしょう 省都猧迺迴わのえ

 

 緑省は神話が濃く残り、水に縁ある土地である。氿泉きゅうせんと呼ばれる街の近くには大きな湖・洛水湖らくすいこがあり、その洛水湖を分断する瀑布ばくふの全貌は、耳に残る轟々と打ち付ける水音の迫力もあり壮観である。またじょうという村には村中に川が流れて生活の一環としてあり、仮面を着けて過ごす村民たちの賑わいと、村の中を流れる穏やかな川の如く、悠々とした村の姿は決して辿り着けぬと言われている外界がいかい(※陽皇国ようこうこくの外の世界)にあるのだという異国なるものを夢想させた。


 勿論、省都猧迺迴わのえも水にまつわる話がある。緑省諸侯一族――さい。彼らは、灌口二郎神かんこうじろうしんの末裔だ。洛水湖らくすいこから続く伊川いせんという省都猧迺迴わのえの近くを流れる川は、灌口二郎神かんこうじろうしんが禍を起こした角ある大蛇の怪物を討ち取ったとされる伝承が残り、今も尚、語り継がれている。


 そんな、省都猧迺迴わのえ。大した手掛かりもなく偶々入った大衆食堂で、突如『太乙救苦天尊たいおつきゅうくてんそん』なる言葉を耳にしたのだ。

 話しかけてきたのは、近くに座っていた若い男だった。旅装姿の蚩尤と騶潤を見るなり近づいて、どうにも遠慮に欠けている。笑みを絶やさず、しかしどこか、詐欺師のように胡散臭い。そんな若い男が話しかけてきたかと思えば、最初に出たのがとある神の名だったのだ。

 太乙救苦天尊たいおつきゅうくてんそんと言えば。蚩尤はさして考え込む様子もなく、さらりと述べた。


「確か、死後に救いを与える神だったか」

 

 若い男は蚩尤が僅かばかりでも知見があった事が嬉しかったのか、目を輝かせ息巻く。感激した様子で、口は滑らかに動いて、続く言葉は布教も同然だった。

 

「おお、ご存知でしたか。生前、罪を犯し、として常夜とこよを彷徨う事になった者でも、太乙救苦天尊が手を差し伸べたとあれば黄泉の道へと進む事も可能であると言われております」

 

 とは、幽鬼ゆうきの慣れの果てだ。(※幽鬼……幽霊のことを指す)死後、人はず常夜へと辿り着く。そこで、黄泉への道を見つけて、冥府へとひたすらに歩くのだ。しかし、中には黄泉への道が見えぬ者がある。


 罪を犯し、悔い改める事なく死んだ者。

 どうやっても拭えぬ罪を犯した者。


 となった魂は、常夜を彷徨ううちに人の姿を忘れ、記憶を忘れ、ついには自分が人だったことすらも忘れてしまう。哀れな死者を弔う為に、太乙救苦天尊たいおつきゅうくてんそんに遺族は死後ぐらいは安らかにと願うのだ。(※家族にまで見放されると鬼になるしか道は無い。哀れ)


「しかし、どちらかと言えば、ひっそりと奉られる神だったと思うが」

「必ずしも罪人ばかりがとして常夜を彷徨う訳では御座いません。病や事故で死んだ者、殺された者、自死した者、現世に心残りがあるまま死して、死後も心囚われたままである者は、黄泉への道を見失い、となり得る可能性は無きにしも非ず。太乙救苦天尊を敬い信奉することで、となり得る死後さきの安寧を手に入れる事が出来るのです」


 若い男は饒舌だった。旅装の蚩尤と騶潤に話しかけた理由は、更なる布教の為か。満面の笑みで己が信じる神を語る姿は、信仰というよりは心酔だった。

 陽皇国は多神教だ。神々の存在を当然のように信じ、信奉する神を心に留める。蚩尤にも信ずる神があるが、若い男ほど熱心ではない。騶潤も獣人族とあって白神はくじん信仰しんこうがあるだろうが、矢張り熱心な信奉がある訳では無いのだろう。無碍にしている訳ではなく、単純に敬意も信奉も日常生活に溶け込んでしまっているのだ。騶潤は蚩尤の顔色を伺いながら、蚩尤もまた半信半疑で若い男の話に耳を傾けているようだった。


「今、黒い病なるものが流行っているでしょう?」


 若い男は、少し声を落とす。


「あの病で不遇な目に会う者が多く、今、太乙救苦天尊たいおつきゅうくてんそんに救いを求める声が多い」

「救いを求めるのであれば現世の――天上聖母の方が確実ではないか?」

「まあ、それも救いでしょうな。だが、所詮、天上聖母は人。彼女が救える数には限りがある。だからいっそ、死後に救いを求めるのもまた――」


 若い男が語り終えた丁度そこで、蚩尤と騶潤が注文していた料理が届いた。若い男は邪魔をしないようにとでも思ったのか、すんなりと下がっていった。すると今度は、別の卓へと移動して別の者へと似たような文言を並べ立て話しかける。どうにもこの店に滞在する理由は食事が目的ではなかったようだ。そんな姿を尻目に蚩尤と騶潤は食事を始めたが、その耳は大衆食堂内で繰り広げられる話し声へと傾き続けていた。

 

 その後、大した収穫も無いまま食事も終えた頃、布教を続けていた若い男の姿はもう既に無く。集中を解いたように騶潤の口は自然と開いた。


「何だったんだあの男は」

「緑省は独自の文化が色濃いと聞く。ああ言った手合いは珍しくもないだろう……が、」

「……気になるか?」

「少しな」


 蚩尤は食後に水を一口含んで、若い男が話した内容を反芻する。


『黒い病なるものが流行っているでしょう?』

『所詮、天上聖母は人』

『いっそ、死後に救いを求めるのもまた』


 蚩尤は口元に手を当て、ほんの一つ二つと考え込む。蚩尤が緑省へと赴いた理由は、件の薬の出所を探る為だ。件の病だった兄を救うべく、弟が緑省を尋ねたという話。情報の出所だけでなく、他にも懐疑的になる要因があった。


『あの薬は、飲んで直ぐに病が治るわけでは無いんだ。効果が出るのは生と死を彷徨う境目。そこで、初めて効き目が現れると言われた』

『俺は覚えちゃいないんだが、どうにも俺は――一度死んだらしい』


 丁家の弟が語った。一日も経たない内に効果は現れ、黒ずんでいた身体は肌の色を取り戻し、目が覚めた時には腐敗していた肌も、健康体であった時と変わらない状態になっていたのだと。緑省から戻って来た体を装う為、病の間、喉を通らなかった食事の所為で痩せこけた肉が気にならない頃合いを見計らい、外出を繰り返していたのだと言う。


「……死後、か」

「死後救われてどうするってんだ」 

「だが、生きる希望が薄いとなれば、死後ぐらいはと考えるやもしれない」

「なんだ。さっきのたいおつ……」

太乙救苦天尊たいおつきゅうくてんそん

「そう、それ。死後の救いってのに、あんたは肯定的だな」

「肯定も否定もしない。どの神をどう崇めようとも個人の自由だ」

「まあ、確かに」

「あなたとて、白神を信じているだろう?」

「信じて……か。まあ、獣の姿を持って生まれた時点で、俺は白神と縁があるようなもんだからな」


 騶潤はぼんやりと、過去を浮かべたような顔をした。かと思えば、手にした湯呑みをぐいと傾け水を飲むと、いつも通りの飄々とした顔に戻っていた。


「さて。それで、追うか?」

「追えるか」

「はは、。問題無い」


 騶潤は口の端を釣り上げる。蚩尤も釣られて頬を緩め、立ち上がった。

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