九 秘薬 陆

「はあ、嫌だ……帰りたい」


 ずん、と沈むような声で騶潤すうじゅんが言った。だが、無精髭を生やした中年男の姿は何処にも無い。今現在、声の発せられた方へと顔を落とすと、蚩尤の目に映るその姿は少々異様。薄らとした茶色を浮かべた、ふわりとした毛並み。十五寸(四五センチ)程度の小さな身体。それに続く、毛で覆われた太い尻尾。ぴょこりと小さな丸耳をへたり込ませた――てんの姿だった。


「うう、降りたい」


 その小動物は、で身体を丸めて、まるで絶望の淵にでもいるように打ちひしがれている。その様子から、無精髭を生やしてのらりくらりとする四十路も越えた男の姿は些か遠い。

 

「今降りたら死ぬぞ」

「わかってるよ‼︎」


 恨みを滲ませた声色と共に威嚇のように毛を逆立て、勢い良く小さなてんが蚩尤へ振り返る。今にも飛びかかり、牙と爪を振り翳しそうな姿ではあるが、脅しとしては効果は今一つである。


 ――鼠……


 しつこいようだが、てんである。蚩尤に効果は薄いようで反応は無に等しい。驚くでも、慰めるでも、諌めるでもない平坦な顔つきは、落ち着きの無い騶潤とは違い、今の状況をものともしていなかった。襟巻きを首周りにしっかりと巻いて口元まで覆い、厚手の外套を羽織って、時折吹き荒ぶ荒々しい寒風を凌ぐ格好こそしているが、慣れているのか落ち着き払っている。

 それが気に食わない――と言うよりは、単に八つ当たりする相手が蚩尤しかいないからか、騶潤が余裕綽々よゆうしゃくしゃくの蚩尤をきっと睨む。が、騶潤の耳の横では、びょおびょお――と風が強い過ぎ去った。その音が嫌なのか、巣篭もりする雛のように、またも身体を丸めていた。


「着いてくると言ったのはお前だろう」

「だってよ……普通、歩きか馬だと思うじゃねぇか……それが……」


 そう言って、恐る恐る顔を上げた。つぶらな瞳が見やるのは、過ぎ去り行く常緑に混じる赤と黄色が混ざり合う山々の景色。しかもその山は小動物の目線では眼下を拝むのは難しい、遥か下方である。そう、今は遥か上空。龍の背の上にて、緑省へと向けて移動の途中。騶潤は一番安定する龍――雷堂の頭の毛に体を丸めて縮こまっている状態なのである。


「龍の方が速い」

「だろうな」


 龍は馬よりも速く空を駆ける。馬で十日はかかる道のりも、龍であれば二、三日程度。何せ、山間部を文字通り飛んで越えてしまうのだ。しかし、平民に龍に乗れる機会があるのかと言えば、まあ殆ど無いと言って良い。龍人族は気位が高い者が多い。貴族に属する者が多く、平民として暮らす龍人族が極端に少ないというのもあるが、そう易々と背に人を乗せるものでは無いのだと教わるのだとか。

 雷堂も、例に漏れず龍としての矜持を持って生きろと言われているが、矢張り個人差がある。どちらかと言えば、雷堂は誰を乗せようとも気にしない性質というだけだ。まあ、性格と懐の広さの問題だろう。だからこそ、今、騶潤は龍の背にいるわけだが、雷堂が貴族となんとなしに知っているからこそ、心臓と肝は縮み上がって、とても遊覧気分で空の旅を楽しむ余裕など皆無の様子だった。


「騶潤、そんなに怖いなら私が抱っこしてあげようか」


 そんな、小動物姿で怯える姿に容赦ない少女の声が、更に上空より落とされた。蚩尤が僅かに目線を上げれば、雷堂の頭よりも少し上を飛ぶ雌鷹めだかの姿。優雅に翼を広げ、滑空したり上昇したりと自由に舞う姿もまた、騶潤と同じで少女ユマの姿と繋げる事は難しい。


「やめろ、惨めな気分になる」


 騶潤は丸まりながらも答える。ユマはケラケラと笑って、更に高く空を舞った。広大な空に解放されたように舞う姿は、普段引きこもりとは思えない。そんな姿を目にしながら、蚩尤は気晴らしになればと騶潤へと話しかけた。


「あなたも獣人族だったのだな」

「まあな。まあ、こんななりだ。使いもんになりゃしねぇ」


 そう言って、騶潤は小さな鼻をふんと鳴らす。不安定な龍の上でもなければ、その姿を晒す気も無かったのだろう。獣人族というのは、獣の感覚を人の姿でも持っているのだとか。しかし、獣の姿と同等というわけでもないらしく、本領を発揮できるのは矢張り獣の姿なのだと言う。


「山を降りる獣人族なんて偶にいるだろ。特に、俺みたいな半端者は」


 そう言って、僅かに頭もたげて空を舞うユマを視界に入れたかと思えば、身体を丸めなおして「寝る」と呟いたまま起き上がる事は無かった。



 そうして一行は空の旅を経由した後、緑省ろくしょう省都しょうと猧迺迴わのえへと辿り着く。

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