六 秘薬 参

 それから二日の後のこと。執務も終わる、日が暮れる頃合いだった。


 秘書ひしょの執務室で、もう帰るかと蚩尤が立ちあがろうとした時、バサリ――と、大きな鳥の羽音が響いた。鴉でも近づいたのだろうか。蚩尤が開け放たれたままの木窓へと目線を向ければ、そこにいたのは、まさかの――――


「……鳥……鷹?」


 誰かが素っ頓狂な声で呟く。そう、紛う方ない凛々しく窓辺に留まる鷹である。鋭い、猛禽類の琥珀色の目は真っ直ぐに執務机の前で戸惑う蚩尤へと向かう。じいっと見つめて、何かを伝えているような。そこで蚩尤は思いついた一つの名前を溢した。


「ユマか?」


 鷹は肯定するように一つ頷く。蚩尤がそっと窓際まで近づいても、鷹は逃げる様子もなく、矢張り蚩尤を見つめたままだ。以前、騶潤はユマが獣人族だと語った事があった。それが鷹の姿だとは知る由もなかったのだが、知り合いに獣人族も無し。思い当たる名前はユマぐらいだった。


「あいつの使いで来たのだな。動きがあったか」


 蚩尤が声を落とし小声で話掛ければ、鷹――ユマの嘴も動いた。その嘴から聞こえるのは、姿にそぐわない雀のようにか細い声。

 

「今ね、二人でお店に向かってるよ」

「案内できるか?」

「うん、騶潤が先回りして待ってる」

「わかった、官服これを着替える時間をくれ。すぐに行こう」


 ユマにそう告げれば、ユマは閉じていた翼を大きく広げる。力強く羽ばたかせ、そのまま飛び立って行った。


きょう秘書監ひしょかん、今のは」


 蚩尤は振り返り、室内を見渡せば一部始終を見ていたであろう同僚達は驚いて声も出ない様子だった。その中で、同格である、秘書監は物珍しいものでも見た顔で、蚩尤へと近づいて窓の外へと目をやる。もう既に鷹の姿は無く、上空へと飛び去ったあと。


「知人からの知らせだ。俺は用事が出来た。施錠はそちらに任せて宜しいか」

「問題ない。承ろう」

郭秘書郎かくひしょろうしゅ秘書郎も、もう直に鐘が鳴る。帰っていい」


 そう言って、蚩尤は執務机を整理すると颯爽と執務室を出て行こうとする。そこに雷堂がすかさず「姜秘書監、お供は」と問うも、蚩尤は「必要無い」の一言を返して――そのまま出ていってしまった。


 ◇


 蚩尤が執務室から消えて、雷堂は頃合いを見計らって帰路へとついた。供は必要無いと言われたのなら、官舎いえに帰るのみである。雷堂の足は真っ直ぐに官舎へと向かっていたのだが、何故か隣には朱夕嵐の姿がある。小柄では無いのだが、五尺八寸(※百七十五センチぐらい)はある雷堂からすれば五尺六寸(※百七十センチぐらい)を下回る夕嵐の姿は小さく見えた。


「お前が着いて行かないのは珍しいな。一応護衛も兼ねているんだろ、良かったのか?」


 夕嵐は雷堂の後輩に当たる。年も十は下だ。が、官吏としては同格という立場故か、夕嵐の口調には遠慮が無い。


「下町まで降りるだけだ、問題無いだろ。それに、毎度毎度着いていってるわけじゃない」

「それなら良いが。ところで、蚩尤様は何を企んでおいでだ?」

「企むってほどじゃない。少し調べ物をな」

「それこそ、手伝いがいるんじゃないのか」

「いんや、寧ろ――今回ばかりは俺は邪魔なんだよ」


 雷堂は何気なく、自身の目を指差す。龍人族の証明であるような、金色の瞳。良くも悪くも、容姿は一目で龍人族と知れるものだ。


「やはり、何か企んでるだろ」 


 それを邪魔と言うのであれば、良からぬことをしているのではと勘繰るのもまあ致し方ない。


「蚩尤は慎重だ。大事にはならないだろうさ」


 雷堂は軽く言い放ったが、夕嵐の顔はじっとりと半眼を雷堂へと向けて、全く信じられないと言いたげだった。



 ◆◇◆◇◆

  


 その頃――蚩尤しゆう騶潤すうじゅんと共に街中の酒房に居た。だが、先日とは空気が違う。楽しげな声こそ聞こえるが、先日の酒房のような張り上げた声も、喧騒も無い。話し声は聞こえるが、そこには女の甲高い笑い声が混じっていた。


「兄弟でこのような店に来るのか」

「最近はよく顔を出すらしい。まあ、色んな場所に足繁く通っているようだが」


 薄い翠帳で隠れた部屋。隣では卑猥な女の声色。酌婦と偽りながらも売春を提供している店というのは珍しくも無いが、蚩尤は少々難色を示したのか顔色は悪い。出された酒も飲まずに、目的の丁家の兄弟がいるであろう方角――騶潤の席の後方へと意識を集中していた。騶潤も、同じく兄弟の声に集中して姿勢もやや背後へと傾けているが蚩尤よりは余裕がある。


「あんた、女を買ったこと無いのか?」


 これには蚩尤は不機嫌ながらも、「ある……」と答える。

 

「なら別に問題無いだろう。それとも、呼ぶか?」

「いらん。それより、二人の会話は」

「なんも。今日の客の話やら、常連の話やら――これと言って」


 兄弟が居るであろう席と、蚩尤が案内された席とではとても兄弟の声は聞こえてはこない。蚩尤にはそれらしい二人の気配と、酌婦らしき存在がそれとなく判る程度だったが、騶潤は今どう言った会話が行われているかまで把握しているように答える。


「……全部聴こえているのか」

「まあ、凡そは」

「まるで順風耳じゅんぷうじだな」

「なんだそりゃ」

「あらゆる物事を聞き分け、悪の兆候を見抜く鬼神だ。遠方にあるものを見つけ、未来を見通す千里眼せんりがんついの存在として扱われる」


 騶潤は一瞬蚩尤と目を合わせるも、「へえ」と適当な相槌を打つとまた兄弟の方へと視線を向けて集中した。

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