四 秘薬 壹

 酒房へと現れた中年の男――騶潤は慣れた様子で雷堂の隣へと腰掛けると、当然のように酒と摘みの注文をする。その姿は酒房へと足繁く通う酒呑たちの姿と何ら変わりない。そうして注文も終えると、飄々とした軽口がぽんと飛び出した。


「それで、めでたい事があったって?」

「親族に子供が生まれたという話だ……そこから聞こえていたのか」


 蚩尤と雷堂は驚きというよりは呆れだろう。何せ、酒房は客でごった返す時間帯。周りは酒に飲まれて大声で話す輩もいたり、そうでなくとも大勢が一堂に介して声を発している為に騒がしい。その中で、蚩尤と雷堂は声を荒げることもなく会話をしていたわけだが、騶潤の耳には確と声の聞き分けまでされていたようだった。


「油断しているとな、俺みたいなのに話の種にされちまうぜ」

「此処で重要な話などしないから安心しろ」

「だろうな、俺もあんたらを敵に回す気はねぇよ」

「それは良かった」


 そうこうしているうちに、騶潤が注文した酒が運ばれてくると、騶潤が酒を注ぎ始めるたのを皮切りに、蚩尤は「それで」と新たな話の口火を切った。


「何か話の種はあるのか?」

「ぼちぼちだ。ここ最近は黒い病に関する噂ばっかで、面白味は少ない」


 騶潤は情報屋だ。と言っても、蚩尤は何か探れと命じているのではなく、市井の噂話を適度に集めているに過ぎない。騶潤も、そう言ったことが得意のため、定期的に集めた話を提供しているだけだ。その内容も様々で、例えば――


「今は……そうだな、病を起こしているのは夢見で、金をふんだくる自作自演とか言っている奴がいるな。あとは――信仰が薄いと病になる。後ろ暗い事をすると病になる。死んだと思っていた男が帰ってきた。不老不死の薬を作り始めた奴がいるとかなんとか。あとは――ああそうだ、黒い病が治る薬がある、とか」


 騶潤は指折り数え、そんなような話ばかりだと、うんざりした様子だった。どれもこれも、真偽不確かな噂ばかり。だが、最後に騶潤が放った言葉。どうにも引っかかりを覚えたのか、蚩尤は眉を寄せた。

 

「薬で治る?」


 これには黙って話を聞いていた雷堂も顔を強張らせ、目を半眼にした胡乱気な様子で騶潤を見やった。


「それは事実か?」


 嘘を吐くのであればただでは済まされない。雷堂の睨みにも近い目つきに、騶潤の肩がびくりと跳ねる。騶潤が狼狽えた様子で視線が下がった。雷堂の腰回りが気になったようだ。どうにも、帯剣しているかどうかを確認してのことだろう。その視線の先には、どうやらそれらしい得物は無いようだが、それでも注がれる視線から逃げたいばかりなのか、若干の逃げ腰である。どうどうと暴れ馬でもいなすように手を前にやって、なんとか場を納めようと必死になっていた。


「さっきも言ったが、俺はあんたらを敵に回す気はねぇって」

「判っている。雷堂」

「……ああ」


 蚩尤の一言で雷堂が静まって、騶潤は一息吐く。


「まあ、あんたらなら食い付くと思っていたよ。軽くは調べた。どうする、買うか?」


 それまで、雷堂に対して怯えていた様子が嘘のように表情をケロリと持ち直した騶潤は掌を蚩尤へと向けて、軽く振る。一種の合図のようなもので、蚩尤は自身の懐を弄った。


「良いだろう。とりあえず、前金だ」


 そう言って、蚩尤は皮革の財布を取り出すと、数枚の銀を騶潤見ての上に乗せた。


「毎度あり――で、本題だが」


 騶潤は喉を潤すように、一口酒を啜る。


「とある兄弟の話だ」



 ◆◇◆◇◆



 丁家ていけという商家の話である。

 丁家は庶民ながら、貴族相手の茶館や酒房を幾つも営み、それなりに繁盛していた。評判も上々で、後継である息子二人のどちらもいつ店を任せても問題ない程に責任感と熱意に溢れていた。兄は弟を想い、弟は兄を尊敬する。後継争いなどというものが一切脳裏に過ぎらないほどに順風満帆だったと言えるだろう。


 だが、ある日を境に兄が不調を訴え、少しずつ表に出てくる機会が減っていった。丁家や店の者は、兄は厨房や経営の勉強が増えたのだと言う。二月も過ぎた頃、誰かが兄はどうしたと問うと、今度は兄弟は揃って緑省へと遊学に行ってしまったのだという。


 あまりにも急な話で、店に通っていた者達の中には疑問に思う者もあっただろう。本当は、兄の方が噂の黒い病におかされ、隠しているだけなのではないか――と。


 そんな噂は、時が経つにれ、ポツリ、ポツリと広まるも、兄の方が死んだという話もなく、弟が帰ってきたという話もない。二人の姿が一切ないことから、本当に遊学なのかも知れないという者もあったが、それも二月もすると話も途切れた。


 それから、また二月。兄が、表に出なくなって半年が過ぎた頃だった。

 兄と弟が揃って店に顔を出したのだ。やはり、二人は遊学に行っていたのだろう。話の決着がついたような。店の常連達や近所の者達の胸のしこりがとれたような心地で、また店に通い始めたのだという。


 ◆◇◆◇◆


「それのどこが、薬の話に繋がるんだよ」


 話の区切りに、口を挟んだのは雷堂だった。不満気……というよりは、少し退屈な様子で、頬杖まで突いている。


「兄貴の方は確かに何かありそうだが、弟まで隠す必要が何処にある。あの病は疫病じゃない」

「そうそこ。肝心なのは弟の方でな。実際に緑省に行っていたみたいだ」


 騶潤の語り口は、既に結果を知り得ている口調。確信にも聞こえるそれに、蚩尤は思わず「調べたのか」と、尋ねていた。

 

「おうよ。俺は、確証のねぇことは口にしない主義でね。弟が帰ってきた姿を目撃した奴がいる。しかもだ、夜中にこっそりとな。その時、兄貴の姿は無かったそうだ。――しかも不思議なことにだ、弟の方が戻って来たのを見かけたのは店に顔を出し始める一月以上前のことだったそうだ」

「……となると、弟は何かしら手段を得て密かに家に戻り、兄の方は家で療養していたが完治したと同時に二人で存在証明のように顔を出した、と」

「そういうこった」

「だが、まだ弱い」


 蚩尤は相も変わらず無表情だが、その眼光は強く騶潤を見やる。


「勿論、それだけじゃない。男の首には痣がある。爛れて治りかけたような痕だ」

「それでも弱い。黒蝕病でなくとも、爛れることはある」

「もう一つ。これは、俺やだ」


 蚩尤の眉がぴくりと動く。その一瞬の機微に気づいたのか、騶潤がにやりと笑った。


「兄貴の方、魂の色がおかしいと。あれは、生きている色じゃねえとさ」


 蚩尤には決して見えぬ世界。それでも、蚩尤の胸中は、静かに騒めき始めていた。

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