三 初めまして
秋めく空は清々しい青さ。丹省は夏も秋も短く、あっという間に山々は紅葉して、枯れていく。もう木枯らしでも吹くだろうか。強い風が吹けば、薄寒いとすら感じるこの時節。農園は黄金に染まり、一面に広がる景色は空に棚引く黄龍の背を思わせる。見事な実りは平原の彼方まで続いて壮観だ。だが、おちおちこの景色に見惚れてばかりはいられない。早々に稲を刈り取らねば、直に冬が到来してしまうだろうから。
空は見事に快晴で、農民たちの動きが忙しなくも穏やかに見える――そんな昼下がりだった。蚩尤はとある宮――
陽光が暖かく入り込む部屋は長閑な空気とは裏腹に、朱塗りの家具がよく目立つ。とはいえ、丹ではよく使われる色味と言えるだろう。豪華絢爛という程ではない、くすみ始めた朱塗りの家具は、その家の主人が住む年月を思わせる。しかし古めかしいという感覚はなく、部屋の管理が行き届いて、どれも大切に使われているのだろうと伺い知れた。そんな部屋の一角に、蚩尤には見慣れぬ物が一つ。
ある意味、一際目立つ物でもあった。使い古された家具の中で、一等真新しい揺籠。
蚩尤はじっと、揺籠の中を覗き込んだ。蚩尤にとって、新たな血縁となった者がそこに居るのだが、どうやら今は、すやすやと眠りの中。小さく、本当に生きているかどうかも危うい赤子。それが、蚩尤にはどうにも珍しい生き物でも見ているようで、蚩尤の双眸は観察でもするように揺籠を覗き込んだまま動けない。
蚩尤には兄弟は無く、まだ結婚もしていないから子も無いというのもあっただろう。どうやって扱えば良いのかもわからない正体不明の生き物を前にして、蚩尤は佇むばかりだった。
だが、ふわりと風が舞い込んだと同時、それまで眠っていた赤子の目がそっと開く。つぶらな黒い瞳が蚩尤をじっと見て、宙へと手を伸ばしていた。
蚩尤もまた、それに応えた。そっと指を一本差し出せば、赤子は当然のように握り返す。まだ握る力も覚束ない、だがしかと体温を感じて、赤子が生きていると実感する。そんなか弱い力に合わせて指を振れば、赤子は声も無く笑った。笑ったように見えただけだったのかも知れない。それでも、蚩尤にとってはその赤子との初めての邂逅に等しかった。
「初めまして、
蚩尤は赤子の笑みへと応えるように、優しく微笑んでいた。
◇
蚩尤の伯父――姜元老に子が生まれたのは、三ヶ月ほど前のことである。姜元老はなかなか子に恵まれず、これが
安いが美味い酒が飲めると評判のとある店で、蚩尤は雷堂と共に酒を煽っていた。目的は酒でも肴でもないのだが、それはそれ、これはこれ。雷堂は話ながらも順当に酒器を手にしては、杯を満たしていく。蚩尤もまた、豚肉の煮込みを摘みながら酒が進んでいた。そんな折、雷堂がポツリと溢した。
「漸く生まれた第一子が女の子か……大変そうだな」
雷堂に深い意味は無いだろう。ただ、貴族にとって性別は重要なものでもあるから、そんな一抹の不安要素からの言葉だった。
「そうだな、下手にのし上がりたいばかりの奴らが群がるだろう。今回の贈り物の中に、少なからず対して関わりの無い貴族からのものもあったそうだ」
「手が早いな」
「まあ、行動が早いに越したことは無いだろう。少しでも関わりを持てば、将来何かが変わるやもしれんのだ。まあ、考えは甘いがな」
まだ生まれて三ヶ月の赤子に何を期待するのか、想像に難くない。貴族の婚姻ともなれば、政略的な結婚が殆どである。家格が高ければ、尚のことだろう。蚩尤自身も、いずれ結婚するとなればそれこそ利益ある相手と考えている。だからこそ、蚩尤は下手に恋人も作らなければ、婚姻もしない。この国に重婚は認められていない為、下手に婚姻する事で後々の不安要素を作りたくないからという建前の元、未婚を貫いている。が、面倒ごとを増やしたくはない、というのが本音だろう。
「まあ、致し方無い話ではある。どうやっても人は龍人族とは縁組できない」
龍人族は、人とは婚姻出来ない。龍と人では戸籍も分けられており、養子縁組すらも不可である。全て法として決まっており、もしも違反した場合、重罪とされ下手をすれば死罪だ。
この国の皇帝は龍人族――黄龍族である。となると、自然とのし上がる手段は限られ、殊更に皇帝に次ぐ権威と言われる元老院――省の権威へと目がいくのも当然かも知れない。
「だとすれば、のし上がる手段に元老院や諸侯の子が政略の的になるのは他省でも同じだろう。だからと言って、まだ生まれて三月の子に群がるのもどうかとは思うが」
「姜家と親族関係になりたい奴らなんぞ山ほどいるだろ。お前が無理なら、まだ無垢な子供ってな」
「どの道、下手な考えの奴らは全て伯父上が跳ね除けるだろう。漸く生まれた子だ。過保護に扱われるだろうな」
過保護という言葉を口にしながらも、蚩尤も経験があるのか辟易とした顔をして見せる。当時は楊女士が護衛としてそばにいて、十二分に過保護な状態だったのだ。幼い時分には当たり前と思っていたことが今にして思えば、過剰であると言わざるを得ない。楊女士の力量は武人並みどころか、現職の将軍職を打ち負かした経験が有るほどなのだ。その蚩尤の過保護な状況を雷堂は知っているからか、同じ言葉で自身の叔母でも浮かべたであろう言葉を続けた。
「叔母上は、お前の時みたいに教育係兼護衛に戻りたいって言ってたな。多分、言ってるだけだろうけど」
「楊女士は相も変わらず子供が好きだな」
「子供っていうか、小さいものと毛がある生き物が好きなんだよ。本当は猫が飼いたいって言ってた」
「飼えば良いだろう」
「長期不在の間に使用人に懐いて自分の顔を忘れられるのが悲しいから二度と飼わないとさ」
「まあ、二ヶ月も三ヶ月も不在ではな」
「それに、先に死んじまうから嫌だってさ」
「どうしようも無い話だな」
「だよな。俺もそう思う」
不老の猫など話にも聞いたことが無い。などと、話があべこべな方向へと向かい始めた頃――。
「あんたら、なんて話してるんだよ」
ようやく、待ち人が姿を現したのだった。
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