二 日常に潜む黒い影
「なあ、あの噂は知っているか?」
ふつと湧いた言葉。日常的にも、よく耳にするかもしれない。特に、人が集まる場所――騒がしい酒房ともなれば、当たり前のように溢れる言葉なのではないだろうか。
酒が入ると尚のこと。舌が回る回る。しかし、だ。その大半に真実味があるかどうかは疑わしいところ。何と言っても、その場を盛り上げるためだけにでっち上げられた話だったり、人伝に聞いた話を盛って話していたり、曖昧な記憶のままに話をしていたりと。まあ、信じるかどうかは話を聞いた当人次第だろう。
うらぶれたという程の店では無いが、庶民ばかりが足繁く通う安酒が売りの店。そんな、賑やかしい酒房の端で、とある中年の男――
「隣の夫婦がもう一ヶ月も喧嘩をしたまま、毎日騒がしいのなんのって……」
「あの店の飯の不味さと言ったら……腐った肉でも喰ってた方がましだよ」
「
「あいつ、まだ貸した金を返しやがらねぇ。それどころか行方をくらましやがった。なあ、誰か居所は知らないか?」
賑やかしいような、物騒な話も混じるそこで、酒の肴にされる噂たち。聞き耳を立てた騶潤にとっても酒の肴でもあるが、それ以上に飯の種でもある。と言っても今は、酒の肴にもなり得ないような話ばかりで、騶潤はちびちびと飲んでいた酒器の中身を空にしてしまおうかとも考えていた。
――つまんねぇ話ばっかだな……店を変えるか……
近所の井戸端会議程度の話ばかりで、残り少ない酒を杯へと一気に注ぐ。そんな時だった。
「黒い病を治す薬があるらしい」
思わず、騶潤の手が止まって、溢れそうになる酒。慌てて傾けていた酒器を戻し耳を傾ける。焦ったからと言って声の出所に視線を向けてはいけない。視線を向けて話が止まったのでは意味は無いのだ。
「黒い病といやぁ……最近、良く聞くようになったな」
「ああ、病の数が増えているらしい。流行り病なんだろ。国が神殿まで動かして病を消そうと躍起になっているらしいが、一向に
「で、その病が治る薬ってのは?」
「なんでも、飲むだけで黒い病が治っちまうとか」
「黒い病ってのは、治せるのは天上聖母か
「眉唾なんかじゃねぇよ。ほれ、あの……
「ああ……確かに半年ほど顔を見てねぇな」
「それが、数日前辺りから何食わぬ顔して、また兄弟揃って店に顔を出し始めたんだよ……で、どうしてたって尋ねたら、
「あそこは
「だがよ、兄貴の方。隠しちゃいるが首のあたりに、酷く爛れた痕が残っていたんだよ。確かあの病って、肉が腐るんだろ?」
「あー……確かにそんなようなことを耳にしたな」
「だろ? 神殿に治療に行けば噂になってる筈だ。だからよ、何か万能薬でも飲んだんじゃねぇかって――」
「お前なぁ、確証もねぇことを適当にばら撒いていると前みたいにホラ吹き扱いされるぞ」
「でもよぉ――」
二人の会話は、その後も続いた。しかし、話は次第に黒い病から別のものへと変わると、聞き耳を立てていた騶潤は、再び手元の杯へと意識を戻した。
――黒い病を治す薬……ね
騶潤は再び無くなりかけている酒をちびちびと飲み始める。
黒い病は現在、『
黒い病は疫病。近づくと
勿論、そんなことはない。が、どうにも全身が黒く腐敗していく様が、到底他人に見せられる姿でないことも起因してか、当人や家族が病であることを隠したがる。加えて、治すにしても神殿での治療の数も限られている為、尚の事、人知れず病は増える一方だとも言われていた。
そこへ、黒い病が治る薬ときた。これが、正式に国が秘薬を発明したとなれば、皆大手を振って喜んだことだろう。特に、騶潤が暮らす地は丹省。『丹と言えば、酒と薬』と言われる程に、薬学に特化している。丹の薬師が威信をかけ総出で創ったともなればそれこそ大々的に薬は出回っただろう。
だがしかし。騶潤の中で既に、この噂に対する結論が出ていた。
――あれは、病じゃない。黒い病が薬なんぞで治せるわけがない
便宜上、騶潤も黒い病と呼ぶ。だが、実際には病では無い。呪いにも等しいものが、薬でなど治せるわけがないのだ。
薬など創れるわけがない。では、その噂の出所は何処だろうか。
騶潤は何か腹に決めたように杯を見つめたかと思えば、残っていた酒を一気に煽ると、代金を卓の上に置いて颯爽と店を出て行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます