第三章 番外編
元老と諸侯
「以上が、蚩尤が調べた仔細になります」
丹諸侯――姜静瑛の眼前には、妙に体躯の良い男が一人、卓を挟んだ対面の長椅子座っていた。壮年の顔付きは丹諸侯よりも僅かながらに若く見えるだろうか。丹諸侯のひょろりとした優男の様相とは違い、武官のような身体付き。六尺を優に越える姿が立ち上がったとなれば、それだけで場を圧倒させるだろう。そんな男が丹諸侯を前にして、横柄と言う程では無いが完全に背凭れに背を預け、
そして、書類に最後まで目を通した巨躯が、ぬるりと顔を上げる。壮年を思わせる顔付きは眉間に皺が寄って強張っていた。
「良しとしない状況だな」
低い、威圧感のある声が、丹諸侯へと向かって発せられた。かと思えば、それまで熱心に読み耽っていた書類を、目の前の卓の上へと放り投げる。雑な動作は、苛立ちを露わにした証拠か。書類は滑るように散らばって、呆れた様子の丹諸侯は丁寧に紙を揃えて整えていく。ふと、視線を落とした書類の中に『黒い病』の記述が目について、巨躯の男同様に丹諸侯の顔も怪訝に眉が寄った。
「兄上、黒い病について何かしら情報は?」
「皇都及び他省でも、同じ病の発症例と死亡例がある。同様に、肉が腐り落ち、最後には全身が
巨躯の男――
「私に当たっても状況は変わりませんよ」
「病では無いか。しかも、複数の夢見が同様に病では無いと断言しているとは」
「……呪いのようなもの……と」
「治せるのは夢見だけ……厄介な」
「それよりも、私は聖母が信用できる人物かどうか、考えあぐねいております」
「蚩尤は信用できると言ったのだろう。息子は信用ならんか」
姜元老の言葉に、丹諸侯は目を伏せる。考えあぐねいたまま、問い詰められたところで思考は纏まっていない。蚩尤に見せていた威厳は霞んでいた。
「蚩尤は……人の本心を見抜く事に長けておりますが、相手は異能を持つ者。しかも夢見となれば……」
「確かに、少々危うさも感じる――だが、今の状況では聖母の言葉通り、希望は必要だろう。蚩尤の話通りの人物であれば、確かに彼女は救いだ」
確信を込めた言葉は覇気すらある。しかし、実兄がどれほど頷こうとも、丹諸侯の心中は暗いまま。書類から目を離せない様子だった。
「何が引っ掛かっている」
実弟に向けているとは到底思えない射抜くような眼差しに、丹諸侯は動揺こそ見せなかったが、渋々重い口を開いた。
「昔、同じ症例があったような気がします」
「随分と曖昧な言い方だな」
「その時、調べたのは私ではありませんでしたから」
丹諸侯の脳裏には、古いが焼き付いてしまった記憶がある。しかしそれは苦々しく、言い淀んだのにも訳があった。しかし、姜元老は兄というよりも上官のような手厳しさを思わせる。依然、眼差しは厳しいままだ。
「何処の話だ」
丹諸侯は姜元老から目を逸らしたまま、惑いを見せながらも答える。
「
姜元老は慎重な丹諸侯の言葉に、何一つ動じない。だが、その目はより峻厳に丹諸侯を突き刺して、「そう言う事か」と、小さく溢した。
「もう百年以上も昔の話です。とある病になった男と、その連れ合い。その二人が当時の事件の発端でした」
「覚えている。だが、病自体の詳細は無かった筈だ」
「……そもそも、どちらも死亡したと判断していた為、病事態に重きは置いていませんでした。問題は、死亡した後に残った――禍根でしょうか」
「雲省に記録は」
「残っている可能性は無に等しいかと。そもそも、当時は混乱状態。その上、病に罹患した当人は農民で、医者に診断を受けていたとしても記録も残っていないでしょう。その医者もとうの昔に死亡しているでしょうし」
何せ、百年以上も前の話です。丹諸侯はそう付け足して、漸く姜元老の顔を認めた。
「一応、雲省には確認をしてみます。その事件を最初とすると病は今になって顔を出したのか……それとも全くの別物か。それぞれの省で最初の記録を調べたいところですが」
「大掛かりな上に信用が出来ないな。只人で病の記録を残す程の大掛かりな医者など、都でも少ないだろう。死亡記録とて、このような病は不吉と言って隠している可能性もある」
「ええ、そうですね」
「現状できる事は、夢見を使った罹患患者の把握。治療が出来る程度の夢見の確保。天上聖母とやらの名を広める事か。後は――」
成すべきことを並べ立て、姜元老の眼差しが一際鋭くなった。
「賈家が何処まで関わっているのか」
「関わっていたとして、素直に口を割るでしょうか」
「どうせまた直ぐに議会が開かれる。回答は関わりの有無どちらにしろ、知らぬ存ぜぬだろう。が――探りを入れる価値は有る」
姜元老の目は、例えるならば獲物を見つけた猛獣のそれだ。実に楽しそうに――やり甲斐を見つけた実兄の姿は些か不穏を蹴散らしてはくれそうだが、余計な混乱まで巻き起こしそうでもある。
「兄上、問題が無いのであれば、どうか穏便に。他省と諍いを起こしたい訳ではないので」
「ああ、心得ている」
省間の諍いというものは、実に厄介である。特に、丹省は最北端に位置し、交易の流通の凡そは、麟省皇都――中心部へと向かうものだ。その丹省と皇都を繋ぐ道は、菫省の一部でもある。省界で揉め事でも起ころうものなら……丹省にとって大きな打撃となってしまう可能性も無きにしも非ず。そればかりは避けたいところ。姜元老も重々承知の上が、丹諸侯の言葉にすうっと、落ち着いた様子に戻っていた。
さて、と姜元老が膝に手をつき立ち上がる。のっしりとした動きをしたかと思えば、顔を上げた時には獰猛な姿は消えて、さっぱりとした面持ちが露わになった。
「宮に帰るかな」
「蚩尤から直接話を聞かれますか? 宮へと直接向かわせますが」
「いや、先程記された内容が全てだろう。わざわざ出向かせるような真似はさせなくて良い」
姜元老はゆったりと歩き出し、丹諸侯の執務室から出て行こうとして、丹諸侯も倣うようにして後を追った。だが、先程の苦悶した表情とはまた違う悩みを抱えた面持ちで姜元老の隣へと並ぶ。
「いえ、そうではなくてですね……」
肩を並べ、足並みは
「そろそろ、蚩尤に身持ちを固めて欲しいのですが……」
苦々しく溢した言葉は、地を滑るように落ちていく。
「それで、俺に言えと?」
「ええ、私や
婉麗とは、丹諸侯の妻であり、蚩尤の母だ。おっとりとして、あまり息子の蚩尤に強く出ることの出来ない人物である。蚩尤は、父や母を侮る人柄では無いのだが、どうにもこの件ばかりは適当に流してしまうのだと言って、ついには溜め込んでいた諦念が丹諸侯の口から溢れ落ちた。
「候補はいるのか」
「ええ、何人か」
「それで蚩尤は何と言っている」
丹諸侯は気まずそうにしながらも、観念したようにぼやいた。
「『姜家を揺るがす大事があり、どうにか私の婚姻で繋ぎ止める事ができるというならば喜んで致しましょう』と言われてしまいまして」
「はは、面白い回答だ」
「天地がひっくり返らない限りは婚姻に興味も持てないと言っているようなものですよ。父親として、面白いなどと言っている場合ではないのですが」
破顔して笑い続ける姜元老に対して、丹諸侯は辛辣な目を向ける。父と伯父という立場の差ゆえか、両者の温度差は大きい。しかし、丹諸侯からしてみれば、妓楼にごく稀に通っている以外は、女っ気の無い事自体も心配なわけで。
「ですから、兄上からも何かしら仰って欲しいのですよ」
と、真剣に――それこそ一大事の様子で物申す丹諸侯に対して、楽し気に笑い続ける。そんな口から、丹諸侯が期待した言葉が出るはずもなく。
「放っておけば良いだろう。興味が無い事を無理に捻じ込んでも苦痛になるだけだ。焦る必要は無い」
「……私としては、仕事と同程度に人との付き合いを増やして欲しいのですが」
「仕事にも差し障りがあるなら兎も角、仕事は真摯に打ち込んでいると聞く。仕事に差し障りが有り、上官としてなら話をしよう。だが、そうで無いなら、俺は個人の私事に一々口を出す気は無い」
「……兄上」
キッパリと真っ当な意見を言い切った姜元老を前にして、丹諸侯は口を噤むしかなかった。そうして、兄が上官である事を忘れた口が、大袈裟な嘆息を吐き出して、
――孫の顔を見られるのはまだ先か……
と、小さく胸のうちで溢したのだった。
第三章番外編了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます