十二 奇跡の噂 捌

 丹省 杜永とえい


 丹省の中で省都に次いで大きな街とも言われているそこは、夜も深まる頃合いだというのに未だ喧騒の中にあった。

 行燈の灯りが夜を照らして、まるで昼かのように人々は行き交い店々を出入りする。

 酒房や茶館、大衆食堂に屋台。立ち話から、喧嘩だったり、華やかな女達が男を店に引き込もうとする姿も散見して、何処もかしこも賑やかしい。


 そんな大通りの賑わいを、黙蓮は楼閣三階の一室の窓から眺めた。

 いつもは野宿か、大部屋で見ず知らずの他人と雑魚寝の安宿だ。それか、治療した礼にとそのまま民家に泊めてもらう事も良くある。

 だから、慣れない高級そうな雰囲気が漂う高欄そのものが異世界にでも迷い込んだと思わせて、眺める景色まで違って見えた。


 ――貴族って、こういう世界を見てるのね……


 菫省とは違う夏の爽涼な風を浴びながら、黙蓮は現世にいながらも常夜とこよを彷徨っている気分だった。

 そこへ――明朙の声が背後から届いて、黙蓮を現世へと引き戻した。


「黙蓮、疲れたのならもう寝るか?」


 振り返れば白髪の、父でも兄でも無い。ましてや、恋人でもない男が、いつもの穏やかな表情で黙蓮を見つめていた。しかしその前には座卓があり、盆の上には辛く味付けされた煎った落花生。酒を一口啜る度に、一粒づつ丁寧に摘んで口に入れる姿は、男の物腰の柔らかさを表している。

 黙蓮は欄干にしなだれかかっていた身体を起こして、そんな男の前に座卓を挟んでちょこんと座る。もう一つ用意してあった杯を手に、手酌で器を満たすと男を真似て静かに口をつけた。

 口当たりが辛く、黙蓮は顔を濁らせる。口直しをするように落花生を一つ摘んだ。


 カリカリと、塩味と辛味が口中に広がって喉を潤したくもなるような、もう一粒摘みたくなるような。味と歯応えをほんのひと時楽しんで、漸く目線をゆっくりと男――明朙みょうめいへと向けた。


 神妙な、という程には固くない。けれども、何処か見えぬ先行きに心なしか不安を感じているような……黙蓮の身を案じた面差しが、黙蓮の口が何か紡ぐのを待っていた。

 けれども黙蓮は、明朙のまなこに映る不安を直視しながらも、ゆるゆるとした調子で「明日、何を訊かれるのかな?」と言って、また一粒の落花生を摘んだ。


 元々、黙蓮は漁村の生まれだ。嵐や雷雨、川の機嫌には機微に反応して危機を察知するが、人に対しては何処か楽観的でもある。明朙が危険視するから、菫省の役人に対して警戒しているだけで、何がどう危険かまでは考えていないのだ。


 だとて、明朙とてそんなぽやぽやした黙蓮が心配なわけで。懸念を抱いた明朙は、警告ないにしても、忠告の為か開いた口から溢れた口調は強かった。


「黙蓮、今度の方達は大丈夫だとは思うが……もしもの場合の事も考えておいた方がいい。異能はとても貴重だ。どこもその手に抱えておきたいと考えるかもしれない」


 そんな明朙の忠告が聞こえていたかどうかすら怪しい無垢な瞳は、口に合わないと感じた酒の杯へと向いたかと思えば再び明朙を真っ直ぐに捉えて、しかしその瞳は何処か遥かなたを見つめているようだった。


「……あの人達は……大丈夫な気がするの」


 明朙は不安ながらも、黙蓮が見せる眼差しには覚えがあった。彼女が病の人々を救おうとするその時に見せるものだ。

 しかし拭えぬ疑念が、明朙の口を動かした。

 

「それは……根拠があるのか?」

「根拠と言えるのかしら――あの、きょうと名乗った方」

「ああ、姜蚩尤様か?」

「あの方は、多分――――」


 黙蓮が続けた言葉に明朙は目を見開く。確かにそれならばと頷くも、神の導きに直面したよう顔つきが固まってしまった。

 口元を覆い、黙蓮から目線を逸らして考え込む。されど、どれだけ考え込もうがを持たない明朙には皆目見当もつかない事だ。

 恐る恐ると言った様子で、明朙は目線を戻して黙蓮の瞳を見つめる。

 金色を宿した明朙とは違う、一般的な焦茶色のそれ。


には、そこまでの事が見えているのか?」


 今度は黙蓮の目線が落ちる。明朙の問いかけに答えるのかと思われた薄く開いた唇は、また一粒の落花生が入り込んで、カリカリ――と耳心地の良い音を鳴らした。

 そのまま、何も語ってくれないのだろうかと明朙が肩を落として、覚めてしまった酔を取り戻すように酒器へと手をかける。すると、酒が注がれる音に合わせて、黙蓮の唇からはぽそりと言葉が紡がれた。


「私、今も自分が見えているものが、正しいかどうかの確信は持てないままなの」


 そう言って、黙蓮は杯を口元へと運んで、一口だけ啜った。そこには、苦虫でも噛んだような、今一つ酒の味が理解できないと言った様子の少女のような顔をした女がいるだけだった。

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