十一 奇跡の噂 柒

 男の警戒は解けたようだが今度は考え込むように黙ってしまい、僅かな沈黙が落ちる。そこへ――一人の女の声が、戸口の隙間から溢れた。


明朙みょうめい、」


 呼ばれた白龍の男――明朙は女が扉を開けた事すら気がついていないかのように驚いて慌てた様子で振り向く。


「黙蓮」

「治療、終わったの」

 

 そこには心配そうに扉の隙間から明朙を見つめる女の姿があった。明朙が何かされていないかとでも言いたげに、頭の天辺から爪先までを視線で準えて、それが終わると安心したように息を吐いた。

 そうして視線が次に向かう先は、蚩尤と雷堂だった。

 

「あの人達……」

「あの方達は丹の……」

「役人の方?」

「……いや……その」


 明朙が警戒していない事で、扉から顔を出した女性――黙蓮。今度は明朙が動揺なのか口籠もり言い淀む姿に小首を傾げる。

 明朙はどう説明したものかと頭をかいて、しかし諦めたように蚩尤と雷堂を紹介するように手を翳した。


「黙蓮。あの方は、丹省諸侯のゆかりの方だ」


 明朙の言葉で、出かかっていた黙蓮の頭が扉の向こうへと引っ込む。しかし、疑り深い動きでもう一度頭を覗かせると、扉の隙間から黙蓮の瞳がキョロキョロと動いた。

 そうして何かを納得したのか、あっさりと身姿を晒した。

 しかし、堂々とは言い難く。背も曲がり、怯えるように明朙の背に隠れる姿は、とても天上聖母などと呼ばれる人物には見えなかった。


「えっと……その、私……貴族の人とお話しする機会が無いので、言葉にはあまり自信が無いです」


 おずおずとした様子は年相応からやや遠い。教育されていない、しかし平民が精一杯の礼儀の姿勢を保とうとしているような――そんな印象と相対して、蚩尤は構わないとだけこぼすと、最大限の拱手の姿勢を取り礼儀を見せていた。


きょう蚩尤という。こちらは、郭雷堂。私の副官だ。出来れば落ち着いた場所で話をしたいと思っている。この街か……別の場所に移動したいが宜しいか?」

「あ、はい。構いません」


 黙蓮と呼ばれた女は、明朙に隠れながらも答える。そうして明朙へと目線を上げて、何処にしようと尋ねる。あどけなさが残るその顔に明朙が一つ頷いて、蚩尤へと視線を返した。


「では、杜永とえいと呼ばれる街がありますよね? あそこは大きな街だと聞き及んでおります。私が同行しても目立たないでしょう」

「分かった。今からでも差し障りは?」

「問題無いです。どの道、一度黙蓮を休ませたいと思っておりましたから」


 明朙の顔つきは、自然と警戒が抜けて落ち着いていた。蚩尤の身分が証明された事で信用されたものではあったが、些か事がうまく運び過ぎているようで、蚩尤は反対に訝しむ。

 それでも現状の好機を逃す訳にもいかず、落ち合う宿を決めると一度別れてそれぞれ杜永とえいへと向かう事となった。


 ◇


 夜に沈んだ山々を追うように、半月が天頂へと浮かんでいく。そんな一夜を前にして、黙蓮の目線は月光で淡く光る白龍の鱗へと落ちていた。


「ねえ、明朙。あの人達はどうして信用したの? 前の役人様はすぐに追い返したじゃない」

 

 流れる風に紛れるような声で落とされた言葉はあっさりと消えてしまいそうだったが、龍の耳には届いたのかあっさりと返した。


「あの方の玉佩ぎょくはいは、姜家のものだった」

「姜家って?」

「丹省を治めている一族だ。会った事は無いが、姜家は穏やかで争いを好まない方々だと聞いた事がある。本家が諸侯に成り代わった時も特に目立った家督争いも起こらずに、それまで何事もなく丹省を治めていた分家があっさり身を引いたそうだ」

「……それが理由?」

「菫省のようにあからさまでは無いだけかもしれない。けれども、彼の方であれば大丈夫のような気もして……」


 明朙は淡々としていたが、心なしか何かを期待して声が弾んでいるようでもある。明朙が育った雲省と丹省は隣り合わせだ。黙蓮が育った菫省もまた、丹省の南部に位置しているが、丹省に詳しいかと言われたらそうでもない。精々、丹省の薬はよく効く程度だ。


 所詮、小さな漁村の生まれともなると、その程度の知見しかないのだ。恐らく省都にでも暮らしていなければ、多くの平民が同じように隣省の諸侯など答えられないだろうか。

 だから、というわけではないのだが――黙蓮にとって信用に値する明朙が信じると言ったならば、黙蓮もまた信じるだけだった。


「明朙に任せるわ。どうせ難しい話だったら、明朙に判断を任せるしかないもの」

「無いとは思うが、何かあった時は、またすぐに別の土地に行こう。次は菫省が追いかけて来ない……雲省はどうかな。敬虔な人が多いから、黙蓮を快く迎えてくれるよ」

「そうね、あちらにも困ってる人がいるから一度わね」


 黙蓮は自身の言葉に迷いがなかった。まるで使命感によって、人を救う事を当然としているような口振に、明朙は寂しそうに「そうだな」と小さく返したのだった。

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