十 奇跡の噂 陆

 それから、三日ほど経った夕日も沈んだ頃合い。

 藤の花の色に染まりかけた空に一体の龍の姿が舞った。


 宿の瓦屋根の上から空を見上げていた雷堂は、白龍の姿をその目で捉え、目指す方角だけを確認すると、その場から蚩尤へと声をかける。


「蚩尤、来たぞ」


 小さな村の、大衆食堂も兼ねた宿屋とあって広くはない。屋根からでも十分に届いた声に蚩尤は窓枠を伝い、軽技の如くにそのまま、ひょいひょいと屋根まで登った。


 既に遠のき小さくなり行く白龍の姿。それを追うように、二人は瓦屋根の上を駆けた。既に病の農夫の目星はついている。白龍の向かう先もまた、その方角。

 夢見の言葉通り天上聖母の目的は、矢張り黒い病が確定した瞬間でもあったわけだが――――目下、蚩尤と雷堂がすべきは警戒されない程度に天上聖母に近づく事だけだ。

 この機会を逃したら、今度追いつけるのは一体いつになるのやら……果てや最初からやり直しか、隣の省まで追いかけねばならないか、なのである。


 そうして走り続けた屋根も終わり、畑や田圃に紛れるようにして細々と家が点在する頃にもなると、二人は薄闇に紛れて農道の上へと飛び降りる。もう病の農夫の家も近く、平静を装った足取りで近づいた。

 だが、目的の農夫の家へと辿り着いたと同時に、蚩尤と雷堂の視界に白が映り込む。目的の家の入り口には待ち構えるようにして白髪の男が一人、戸を塞ぐようにして立ち尽くしていた。

 

 隠しもしない短く切られた白い髪と金の瞳は確かに特徴的で、どうりで噂は残るわけだと思わせる。しかし、その面持ちは天上聖母なる者のお付きという割には目つきは鋭く、既に警戒心を宿した瞳が蚩尤と雷堂を交互に睨む。


「彼女に何か用でもあるのか?」


 敵意が放たれると同時に、白髪の男の手は腰にある剣へと添えられる。

 まるで既に蚩尤と雷堂が天上聖母を探していた事を知った上で警戒しているよう。そう思考が判断すると同時に浮かんだ言葉は、ユマが何気なく放ったものだった。


『聖母様を近くで見ようとすると、聖母様もこっちを見るの』


 聖母も同じく夢見であり、ユマを認識する事が出来た。そう紐付けしたところで、警戒が解けるわけではないのだが、それでも蚩尤が夢見という存在の言葉を軽んじたと思うに至らせるには十分だった。

 逃げられては元も子もない。蚩尤は軽く手のひらを見せるように手を上げて、敵意はないと見せるしかなかった。


「すまない。天上聖母なる人物と話がしたいが故に、夢見を使うに至った。そちらを警戒させたならば謝罪しよう」

「こちらも同じだ。悪意は無い」


 蚩尤、雷堂共に同じ姿勢を見せる事で、僅かだが警戒が緩む。が、完全ではない。


「お前達は何処の遣いだ?」

「丹省だ。丹諸侯より、天上聖母なる人物が如何様な方であるかを調べるように仰せつかっている。だが、それだけだ。丹省は異能を求めて聖女様を追いかけているわけではない」


 夢見が虚偽を見抜けるかどうかまでは、蚩尤の知るところではない。だが、警戒した相手をこれ以上下手に逆撫でする可能性を排除しなければならず、蚩尤は素直に、しかし命令自体は濁して答えた。


「……きんしょうと関わりが無いという証明は?」


 男が怒りを交えた口振りで、再度蚩尤への警戒が強まる。それが聖女を守ろうとする忠誠心のようにも思えて、蚩尤は常に冷静にあった。


「身分の証明は出来る。見せる事も厭わない。だがそれで、あなた方が納得できるかどうかは判らない上に、身分が虚偽かどうかの判別もつかないのではないのだろうか。下手をすれば余計な猜疑心を生むだけの可能性だとてある。真偽の判断がつかない状況での身分証明には何の意味も持たない。もし、こちらに不安要素が残るのであれば今すぐに剣は外そう。もちろん、この隣の男もだ」


 滑らかに動く蚩尤の口。菫省の名が出た時点で、蚩尤自身の身分は悪手であるように感じたのもあった。

 菫省が今どう動いているのかは知れない。だが、何かしらあしき事を考えて、更には丹省も……そんな考えを繋げてしまえば余計に警戒され、聖母との対面はもう難しいだろう。

 蚩尤は雷堂へと目配せして、雷堂もそれに頷く。

 二人はあっさりと腰帯から剣を外して、地に置くとその場から離れた。


 陽が落ちて、辺りは既に薄闇に飲まれている。とは言え、できれば目立つような事態が避けたいのもあったのだが、その意図が伝わったのか。

 剣を持った相手を前にして、迷いなく剣を置くという意味は、白龍の男とて察するものがあったようで小さく嘆息をこぼした。


「一応、その証明とやらを見せてくれ。それでもうどうという事は無いのだが、はったりじゃ無い事だけは確認しておきたい」


 蚩尤は「判った」と一言呟いて、荷物から玉佩ぎょくはい(※身分を証明する装身具)を取り出して白龍の男に見えるようにして翳す。


 乳白色の玉を掘られて作られたであろうそれは、顔を出し始めた月の輝きだけでも十二分に見て取れる。細工は鳳凰が彫られて、飾り紐は赤――唐紅からくれない

 男の目に、何処まで意味が届いたのか。蚩尤としてはできればただの貴族位程度にとどめて欲しかったのだが、それに反して男は目を見開いて表情は固まっていた。


「……もしや、そのほうのお名前は……きょう……だろうか」


 龍人族は全てが貴族位にあるわけでは無い。蚩尤は男をただの旅人、聖母のお付き程度に考えていたのだがどうにもその読みも外れてしまったようで。今度は蚩尤が小さく息を吐く番だった。


「……ああ、それで間違いない」


 やや不服そうながらも、蚩尤は答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る