九 奇跡の噂 伍

 丹省 布舞ふぶ


 恐ろしい病がある。

 そんな噂が囁かれ始めたのは、いつからだったか。


 稲の刈り取りが終わった秋も終わりの頃。とある農夫は違和感に苛まれていた。違和感と言っても些細なもので、右手の人差し指が痺れて時折動かなくなる程度のものだ。その影響か、稲刈りの最中は何度と手が止まった。慣れてしまえばどうという事もないのだが、問題は稲刈りの季節が終わっても直、その違和感は続いているという事だった。

 

 秋が終われば永い冬がやってくる。家に篭る日々が続き、家族と共に漸く春の日差しを浴びた。そんな季節の変わり目。


 農夫の症状は悪化していた。

 冬の間に違和感があった右手の人差し指は真っ黒に染まり、一切動かす事もできず。それどころか違和感は指先だけでなく右手首にかけて広がっていた。


 その頃になって漸く、農夫は自身の身に起こっている違和感が病だと気がついたのだった。




 蚩尤は茶屋の奥まった一角の席で、客達の会話に耳を澄ませていた。どうにも、農夫の病は今も悪化の意図を辿り、今では半身不随にまで至っているのだとか。

 その後も話に耳を傾けながら、蚩尤は注文した串団子に齧り付くと、向かい合って座っていた雷堂へと向けてボソリと言葉を溢す。


「どうやら当たりだ」


 その口調は平坦な日常を語るように平静として。だが、声は抑えて慎重だった。

 不死や龍人族という存在は病とは無縁だ。だとて、他人事であってはならないという懸念が蚩尤からは滲み出る。貴族や役人というのは、不死や龍人族が多い。何より、蚩尤も不死の一端である。だが、国に暮らす多くの人民は真っ当な寿命がある只人で構成されているのだ。それに合わせてか、同じ会話が聞こえていた雷堂も声を抑えた。


「ああ、只人ただびとの中の不治の病という事だろう? 治療法も無いとなれば、聖母の噂がここ迄広まったのも頷ける」


 、という雷堂の言い回しには含みがあった。現在、二人は騶潤すうじゅんとユマの言葉を頼りに町や村を巡っていた。三つ目となる布舞ふぶ村までやって来た訳だが、黒い病と重なるようにして天上聖母の噂も絶えず着いて回る。そうして、最後に聞くのはその病は天上聖母の手によって癒やされた、という話だ。


「それは、当然だろうな。だが問題は――」


 蚩尤が何かを言いかけて止まる。意識は再び先程噂話をした男が同じ席の男へと注がれていた。


「天上聖母様が、この村に来て下さったらなぁ」


 先程の噂話口にしていた声が、期待を含んで言葉を溢した。件の病の男と知り合いなのか同情的な口振である。しかし、対面で話を聞くだけだった男がそれに反応して口を開くも、口調は期待を殺すように冷めたものだった。


「だがよ、聖母様なんてもんがこんな小さな村まで来るかね。都で広まっただけのただの噂話って事もあるんだ。期待するだけ無駄かもしんねえぞ」

「期待をもたせてやれば少しは良くなるかもしれねぇだろ。噂にでもすがらねぇと、あいつはもう助からない可能性だってあるんだ」

「まあ、確かにそうだろうが……」


 黒い病の噂はいくつかある。

 肉体が腐り、臓腑まで腐り果て、動けないまま死んでいく、とか。

 永遠に動けないまま苦しみだけは続き、思考だけははっきり動いて、怨嗟を吐くだけの肉塊になってしまう、とか。

 黒く染まった肉体は死後も残留思念が残って火葬をしても魂が肉体から離れていかず、黄泉へ辿り着けない幽鬼となって現世を彷徨う、とか。

 様々な憶測が飛び交っているが、はっきりとした事実は残されていない。原因として、黒い病が発症してしまうと身内が隠したがる傾向にある事だろう。


 客二人の会話もまた事実かどうかもわからない取り留めのない内容へと変わる。そのまま停滞して沈黙へと変わると、蚩尤は用事が終わったと言わんばかりに串団子と一緒に注文していた茶を喉へと流し込んだ。

 雷堂もそれを確認して、二人分の代金を卓の上に置くと二人は早々と店を出た。

 

 店から距離ができると、雷堂の視線が横目に茶屋の姿を捉えて、もう聞こえなくなった会話を思い出すように歩きながら口を開いた。


「どうするよ。目的の病の人物がいる上に、件の人物はまだ訪れている様子もない。待つ価値はあると思うんだがな」

「ああ。現状の情報の限りでは、どういう順で巡っているかの検討もつかない相手を探すよりは堅実的だ」


 天上聖母とやらは白龍族を共にしている為目立つので噂自体は残る。残るのだが、いかんせん滞在時間は短い。

 主だって黒い病の人物を治してしまうと、早々に旅立ってしまい、順路は無作為でしかも龍に乗ってい移動と行動予測が困難だ。夢見の力があるから、現状なんとか近況の足跡を辿れているが、そうでなければ当人を見つけるのは困難を極めただろう。

 

 蚩尤は滞在こそ決めていたが、どうにも収まりが悪いのか考え込むように腕を組む。その様子に雷堂は眉をひそめて横目で見やった。


「なんだよ」

「いや、父上の言葉の真意を考えている」

「あれは、聖母が本物かどうかを知りたいって話だろう? きょうこうは丹で問題が起きるのを懸念しているのか、そうでなくとも治す術の無い病だと鑑みて手段を手に入れたいのか」

「それならばそうとはっきり言えば良い。『聖母の真意を知りたい』という言い回しは、聖母自身が問題を起こしている事を疑っているようにも取れる」

「おいおい、それだと」


 雷堂は頭に浮かんだ言葉を肯定も否定もできず、言葉が続かなかった。

 

「父上は聖母の能力自体は疑っていないように思う。父上も伯父上もだからな。だからこそ異能の意味を勘繰っているのでは無いだろうか。父上は黒い病を治したと言う噂自体は耳にしていた可能性もある。そうなると、何故聖母は黒い病を治す必要があるのかと至ったのやもしれん。それがただの善意なのか、それとも悪意の一端に絡むものであるのか。もし治せたとして、逆も出来るのだとしたら――」


 雷堂が言い淀んだそれを、蚩尤は何食わぬ顔顔して続けようとする。だが、雷堂は蚩尤の言葉を遮るように「まて、」と言って止めた。

 慌てる雷堂をよそに、蚩尤は至って冷静だった。


「ただの可能性の話だ」


 いつもの起伏のない口調で語る蚩尤の目は酷く冷めて、雷堂はそれ以上言葉は続かなかった。

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