六 奇跡の噂 贰

 秘書ひしょの仕事は主に文書庫の管理・補修・校勘こうかんである。

 文書庫の一般文書、公的文書、史書、経典や新訳や解釈。果ては、秘記ひきまで。他にも様々な文書が保管され、経年劣化等における破損の補修も含めて秘書府に一任されるのだ。文書自体が歴史をかたどる程に古いものから、真新しい新書に至るまで。


 蚩尤はあと数年は秘書府で経験を積み、その後はまた別の府へと異動となる。のだが、蚩尤自身は出来れば後継として立場を気にしないのであれば生涯この役職で構わないと思った程気に入っていた。

 なに分この仕事は、他人と接する機会が少ないのだ。


 


 丹諸侯の執務室を出て、ようやく出仕となった蚩尤は結局着の身着のまま一人秘書府へと顔を出した。秘書府は官府の一角にあり、建物としての役割の殆どは文書庫だ。が、その文書庫へと入るには、秘書府の執務室でもある部屋を通らねばならない。

 そこが、蚩尤の職場でもある。

 

 執務室で待ち受けていたのは、またもや赤髪――ではあるが朱雨弦うげん侍中じちゅうよりもずっと若い、しゅ夕嵐ゆうらん秘書郎だった。


 文書の写しをしていたのか、机にじっと向かった視線は二つの紙を見比べている。

 袖口を抑え、墨を含ませた筆を動かす右手は流麗な手つきで水流を軽やかに泳ぐ魚を思わせる。文字が美麗と評判の手つきは丁寧かつ上品な姿だった……のだが文書庫の扉が開くなり俯いたままの顔は、「おはようございます。本日は随分と遅い出仕ですね」と、嫌味から始まった。


 しかし蚩尤は小慣れた様子で、「ああ、寝過ごしたんだ」と軽く返すだけ。夕嵐も夕嵐で手元は忙しいのか、蚩尤の冗談かも分からない発言をそのまま流して顔も上げない。


 だが、どうにも不信感からか、ちらりと顔を上げて目で辺りを確認する。蚩尤を探しに出た筈の張本人が不在である事をその目で確認してか、再度顔を下に向けて声を上げた。


「雷堂はどうしたんですか」

「暫く外に出る運びとなった。その用意に向かわせた」


 蚩尤はそれだけ告げて夕嵐がいる机の隣へと近づく。隣の机上には綴られてまだ墨が乾き切っていない横長の紙が何枚と置かれており、写し前のそれとを確認するように紙の上の文字を目線で準えた。


「問題無さそうだ」

「ありがとうございます。ところで、呼び出しは天上聖母の件ですか? 巷で噂になっているという」

「そうだ。今、丹省に滞在しているとかで、見極めがしたいのだそうだ」

「……見極め……ですか?」


 先程まで上官に向かって嫌味を吐いたとは思えない戸惑いを夕嵐は見せて、動き続けていた手が初めて止まった。

 したためめた書から目を離した顔が上官である蚩尤へと向くが、蚩尤も蚩尤で眉根を寄せて何かを訝しんでいる。

 蚩尤は、丹諸侯直下の命令と判じながらも何処か釈然としない様子がありありと浮き出て、命令に不満……というよりは、今一つ丹諸侯――父の口振が思わしくなかった、といったところだろう。


 蚩尤は父の事を尊敬しているし、信頼もしている。

 しかし、この件はどこか父の内にある何か隠し事――疑心のようなものが見え隠れしているようにも見えたのだ。


 


『前々から、白龍族を引き連れた女人の噂が出回っていてな。国中各所で噂が絶えない人物だ。それが、今はどうにも丹省を巡っているらしい。以前より気になっていた存在だ。お前たち二人に命じたいのは、その人物の調査だ』

『調査……というのは、異能の真偽でしょうか』

『それもある。が、一番知りたいのは彼女の真意だ』


 


 蚩尤は父の思案する顔を思い出せば出すほど、今一つすっきりとしない。


「聖母の噂……詳しく知っているか?」

「どんな病や怪我でも治してしまうとかで、今は碧霞元君へきかげんくんよりも彼女にあやかろうとする只人が多いとは耳にしますね。とはいえ、我々龍人族には無縁の話ですよ。まあ、でしょうが」


 不死や、不死に準ずる存在である龍人族は病に罹る事が無い。だとて、怪我を負う事はあるし、死は存在するのだが……省都に暮らしているとそれも無縁に近いものがある。軍部であれば妖魔が身近な存在であり、気を抜けば命を落とす事もあるのだが、文官として過ごす夕嵐の言葉は主観的で浅慮とも取れるだろう。とはいえ、一つの意見として蚩尤は胸に留めた。


「そういえば、秘書監達は如何した」


 蚩尤は夕嵐が認めた続きを確認しながら問いかけた。秘書府は現在、蚩尤の他に秘書監がもう一人、秘書朗は他に二人存在する。秘書府にその三人の姿はなく、他の机もがらんとしていた。


「暇なら手を貸して欲しいと、尚書しょうしょに呼ばれましたよ。祭祀さいしが近いですし、そちらの手伝いかと」

「そうか。であれば、俺は暫く出仕は無いと伝えてくれ。重要な案件が発生した場合はそちらに任せるとも」

「承知致しました」


 夕嵐は必要な確認事項がないからか、もう目線は下へと落ちて筆を手に取っていた。ゆっくりと墨を含ませて、さらさらりと文字を綴る手が池を泳ぐ鯉のように優美に動く。集中した夕嵐が、それ以上蚩尤を気にかける事はなかった。

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