五 奇跡の噂 壹

 目が眩むほどの、赤。


 が、視界を埋めた。

 そう、赤々とした朱色の都。そこに、今にも沈みそうな夕陽の茜が混じれば、都はまるで燃えているようだった。


 

 六……いや、七歳程度だろうか。都の楼閣から見下ろす景色を目に留める為に、まだ幼い身体は必死に窓際にしがみつく。幼子は背伸びをして隣に立つ、敬愛する⬛︎⬛︎⬛︎と同じ目線にあろうと必死だった。

 だが、それだけではない。美しい都の赫赫かくかくと燃え上がる様な景色は、多くの人々の心を燻るものがあったろう。その幼子もまた生熟なまうれな思想ながらも、燃える景色を焼き付ける様に魅入っていた。

 

 しかし、幼子はふと隣を見た。隣に立つ⬛︎⬛︎⬛︎がどういった顔をしているかが気になった。幼子の身の丈では峰叢ほうそう(※円錐型の小高い山々)でものぞむ様に首を上げた先。身につけている衣は厳かでありながらも煌びやかで、龍の刺繍がその位の高さを表している。武官を思わせる体躯で佇む姿は威圧があるが、精悍な顔が茜に染まりながらも、憂いた瞳が都を映し続けていた。



 ◆◇◆◇◆ 


  

 陽暦ようれき四十二年 丹省たんしょう


 目覚めたばかりの思考には朝日が少しばかり煩わしい。翠帳すいちょう(※カーテン)の向こうから差し込む光に、蚩尤は思わず眉を顰めた。


 ――朝か……


 夢から自身を引き戻す様に無理矢理上体を起こせば、惑う感覚が少しづつ遠ざかる。

 今いま夢で見た景色が記憶の奥底へと戻り、やっと自分がどこにいるかを思い出したかの様に蚩尤は横目で隣に眠る人物を見た。

 はだけた寝衣で眠る、女の姿。昨晩の何某を彷彿とさせる女に一瞥をくれた後は、興味も失せた様子で身支度を始めていた。

 鐘の音を聴き逃したかもしれない。朝を告げる音が響かぬまま、日差しだけが強くなる。少し急いだ様子で衣を整え、蚩尤が足早に部屋を出ようとした時、ようやく寝台で女が身動いだ。


「……あら、がく様。お帰りですか?」


 ゆっくりと上体を起こした姿は寝起きながらも艶めかしく、女は着崩れた寝衣もそのままに微笑んだ。だが、蚩尤は素っ気なく「ああ、仕事がある」とだけ返して扉へと手をかける。

 

「次にお越しくださるのを、お待ちしております」


 妓女の甘い声と微笑みに、蚩尤は振り返る事もなく、「気が向いたら」とだけ溢して、部屋を出ていった。



 ◇



 夏が来て、ようやく丹は温暖で過ごし易い気候になる。その気候のおかげか朝焼けなど遠い日差しで陽気が増して、朝の市を盛り立ている様だった。

 通り過ぎる賑やかな市井しせいの様子を横目に、蚩尤はのんびりと歩いては時折店々を覗く。妓女には仕事と言ったが、現状の自分が抱えた仕事を思い出してみれば、まあ急ぐ事もないかと結論づけていた。

 適当な店で饅頭まんとうを一つ買って、そのままぶらり。

 普段住んでいる都の一角ではあるが、城で暮らす蚩尤には盛況な朝市には縁がない。賑わう人々の横をすり抜けながらも、その表情は晴れやかだった。


 ゆっくりと、散歩でもしている気分で歩いていたからだろう。蚩尤が城へと戻った時には、隅中(午前十時ぐらい)を知らせる四つの鐘の音が打ち鳴らされていた。

 だが、蚩尤は急ぐ素振りがこれっぽっちもない。出仕するにしても官服かんぷくに着替える為に一度宮に戻らなければならないので焦っても仕方がないのだろう。と言っても、蚩尤には既に役職がある。今では、秘書府ひしょふにて秘書ひしょかんを務める身だ。


 それが、朝帰りの上に遅刻。まあ、出仕の時間が決まっているわけでもないので、遅刻も何もあったものでもないのだが……それでも怠慢と見るものもあるだろう。例えば、同僚とか――


「こんなところに


 嫌味たらしい言い草に蚩尤は声のした背後を向けば、官服を纏い顔を引き攣らせ怒りを我慢した雷堂が立っていた。ずかずかと歩く姿は些か横柄ではあるが、急き立てる様子で蚩尤へと近づく。強張る顔は今にも口から悪態でも飛び出そうである。


「どうした、急用か」

「どうしたじゃねえよ。姜侯きょうこう(※侯は諸侯の略称)からの呼び出しだよ」

「そうか、ならば宮に戻っている余裕は無いな」


 蚩尤はそれまで居宮へと向けていたが、するりと官府かんふへと方向を変えた。が、雷堂の目の前を通り過ぎようとした瞬間、雷堂が慌てたように蚩尤の肩を掴んで止めた。


「待て、着替えてこい」

「何故だ」

「お前、朝帰りだろ。香の匂いが……」


 蚩尤は思わず自身の袖を鼻に当てて、すんと鳴らしてみる。独特な甘い香りと、女の化粧……だろうか。まあ言われてみれば。程度に頭を悩ませたが――


「わざわざ探していたと言う事は急ぎなのだろう。この程度の事、気にする必要もない」


 と言って、取り合わない。甘い香の匂いは、妓楼独特のものだ。妓楼に縁のない龍人族でもそれぐらいの知識はある、という忠告だったのだが当人である蚩尤が気にしないとなるとどうしようもない。


 もう知らね。という顔の雷堂を背後に着けて蚩尤は諸侯であり父でもある姜侯――父・姜静瑛せいえいの執務室へと向かっていった。



 ◆◇◆◇◆



 丹諸侯の隣には、丹省に暮らすしゅのまとめ役でもあるしゅげん侍中の姿。諸侯の子息だからと言って贔屓などという事を知らず、その目は厳しいという言葉では留まらない人物だ。

 赤髪金眼の赤龍族の特徴を携えた中年に差し掛かった男の目は、蚩尤の姿に龍の身姿の如く鋭い目が光ったが、特に今は何も言う気はないらしく口は強く引き結ばれたままだった。


きょうこう、お呼びと伺いました」


 私服のままの姿で眼前に現れ何事もなく口上を宣う息子を前にして、きょうこう静瑛せいえいは眉ひとつ動かさなかった。蚩尤に似た優男の面持ちだが、若々しいという言葉は似つかわしくは無いだろう。年季を重ねた分だけの威厳がある。その顔が、神妙な面持ちで口を開いた。


「お前は今、仕事が手隙だと聞いた。まあ、今の姿でもそういう事だろう……」


 非番でも無いのに官服でない姿は暇というよりも怠慢の証拠だ。が、自身の息子が仕事を疎かにしない生真面目な性格な事を理解しているからだろうか。暇だから少し不精な真似をしていると鑑みて、追及はしない様子で目を瞑る。

 そうして、父としての姿は見せず。上役として、丹諸侯としての顔から出た言葉が紡がれる。


きょう秘書ひしょかん及びかく秘書郎ひしょろう天上てんじょう聖母せいぼの噂を耳にした事はあるか?」

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