四 優曇華の花 肆

 黙蓮もくれんは無心で歩き続けた。

 初めて来た場所とは思えない程に、迷いの無い足取りでずんずんと進んでいく。


「黙蓮、待て。どうしたんだ」


 明朙みょうめいは、そんな黙蓮を見失わないように後を追った。足早で歩く黙蓮に追い付くのは訳ないが、どんなに声を掛けようとも止まらないのが不可思議だった。まるで何かに導かれているようで、ほんの一瞬でも目を離したら、黙蓮が消えてしまいそうなほど。一心不乱な姿が、尚更に不安を煽っていた。


「黙蓮!」


 何度目かも分からない呼びかけに応じて……ではなかったが、漸く黙蓮が足を止めた。辺りは、平房へいぼう(平屋)が立ち並ぶ、平民街の中でも下層区域。黙蓮の日に焼けた肌も目立ったが、龍人族特有の髪色と目の色は事さらに際立つ。実際、明朙の事を不審がった人々が、家の隙間から、路地の物陰からじっと視線を送っていた。


 ――しまった……


 龍人族と言うのは嫌われているわけではないのだが貴族位に属する者が多く、都などでは一律してみられる事はよくある話だ。いつもならば明朙も警戒して外套被ったり、平民街へは不用意に近付かなかったりと注意しているのだが、今日ばかりは黙蓮にばかり気が行ってしまったようだ。目線に気づいて慌てて外套を頭から深く被って髪色を隠すがが時すでに遅く、注目は集まるばかりだった。


 しかし、黙蓮はそんな事を気にしている様子は欠片もなかった。

 ただ目的の家――今にも潰れてしまいそうな一軒の平房を前にして、じっと入り口を見据える。


「この家が、どうかしたのか?」

「……困っているみたい」

「誰が?」

「……


 黙蓮の目は、決意を固めたように揺らぎがない。その目に、明朙は見覚えがあった。


 ――そう、確か。私が助けられた時の……


 はっきりと思い出せる記憶が、胸の奥で鮮明に蘇ったと同時、黙蓮はもう次の行動に映って、家の戸を叩く事も無く開け放っていた。

 誰に断りもなく、しかし迷いも無い。その上、黙蓮の奇跡を思い起こした明朙が止める事も無かった。


 古びた平房の、そう広くもない家の片隅で、地べたにござを引いただけのそこに寝かされた女。

 病なのか、怪我なのか、黒く淀んだ左半身。常に喉の奥から搾り出したような呻き声で、痛みを訴えていた。


 黙蓮は女を見つけると一目散に駆け寄って、放り出されたように投げ出されていた黒ずんだ左手を握る。


「もう、大丈夫ですよ」


 それまで、あどけない姿が消えて、聖母然とした姿がそこにあった。


 ◇

 

 女は手の温かみに涙した。

 夫が握ってくれるそれとは違って、春の日差しのような心地よい温もりがか細い存在からじんわりと伝わってくるのだ。もうただの日差しすら、心地よいと感じなくなって久しいというのに。

 肉体は血こそ通っていたが、殆ど動く事の出来ない状態だった。原因不明の病と宣告され、医者にも薬師にも見捨てられて、更には神にも見捨てられたのだと絶望していた。だが、次第に和らぐ痛みと全身が温もりに包まれているような気がしてただただ涙が溢れ続けた。

 

 そして、最後の痛みと同時に温もりがそっと消えると、女はある事に気がついたように目を見開いた。


「あ……ああっ」


 感嘆を喉から搾り出したように、女の声は震えていた。次第に喜びを含んだように、歓喜の色を帯びて変わっていく。そうして、女の身体は何事もなかったかのように上体が起き上がったのだ。

 女は自分の身体が動く事にも驚いたが、そのまま呆然と自分の手を見つめて動かなくなった。手を見飽きたかのように視界からずらして、今度は足を眺める。そうして次は腕や腹。隣に見知らぬ二人がいる事など忘れて、女は隈なく身体を見渡して、最後に自分の顔に触れた。

 そう、それまで腐って黒ずんでいた皮膚が、何事もない普通の肌の色へと戻っていたのだ。

 奇跡だ。神など存在しないと考えていた思考が導き出した答えと同時に、女の目がゆっくりと自身の身体の左に佇む存在へと動く。

 女に手を差し伸べて、温もりを与えてくれた存在。

 聖母の如き慈愛の眼差しが、今も女を見つめていた。

 

 何も言わず、ただ女が喜ぶ様を見つめるだけ。

 女は腹の底から湧き上がる喜びのまま、聖母の手を取った。何をどう礼をしたら良いのかも分からず、溢れる涙ばかりが頬から伝い落ちて、紡げた言葉は単純なものだった。


「ありがとうございます、ありがとうございます」


 何度と女は同じ言葉を繰り返した。

 絶望の底から心まで地上に舞い戻った程の感激は、女の夫が家に戻っても止む事は無かった。



 こうして、黙蓮の噂は立ち所に広がった。

 どんな病も、どんな傷も治す聖女。異能を宿し、聖母が如き御心を持つとされる。

 白き龍を従える姿は、かつて神々の御代にておわした女神の姿を彷彿とさせ、彼女自身を神のように崇める者が現れ始めた。


 誰が言ったか。彼女を慈悲と慈愛の象徴として、『天上てんじょう聖母せいぼ』と呼んだ。

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