三 優曇華の花 参
神とは、不可視の存在だ。
例え相見える事が叶わなくとも、その信心が導きの一助となり、人々に加護をお与え下さるのだと経典には綴られている。
逆を言えば、どれだけ信仰心があろうが何の恩恵も無く人生が終わる事もあると言える。それでも人々が、その信仰に則って清く正しくあろうとするのは、目で見えなくとも神々が存在するのは当然だと信じているからだ。勿論、経典や神殿の教えがあるからこそではあるのだが、
しかし、神の領分と言うのは人には毒である。
神の領分に一歩入ったとあらば、どうなるかなど想像に難くない。傍に神が在ると言う実感はあっても、その御姿は拝謁ならず。あくまでも、視認できるのは神の領分と神殿に祀られている偶像のみである。
神の祝福とて起こり得るとしても、己が身に降りかかる機会は万が一よりも小さい。
だがもしも、その目で見る事の出来る神が……しかも手の届くそこで、奇跡を目の当たりにしたとしたら――。
細やかな技術により工芸に富んだ省として栄え、菫省都
それゆえに、菫省の小神殿というのは造形美が皇都にある神殿にも負けないほどに凝ったものだった。
入り口の扉一つにしてもそうだ。蝶番や門環に扉の縁取り、欄干や灯籠、果てには飾り窓や天上、床にまで。
職人達が精を込めた細工が至る所で金の輝きを放っていた。
「凄い……」
「私も噂には聞いていたが、これ程とは思わなかった」
黙蓮の隣で、白髪の髪色の男が黙蓮と目線を同じにして、感銘を受けたと言わんばかりに金の目を見開く。
「
「ああ、
白神は十の姿を持つ神である。龍を筆頭に、鹿、狼、猿、馬、熊、虎、梟、鷹、蛇。龍だけが白仙山に座して、他は其々の姿で各省にある鎮守の森に棲んでいるのだとか。雲省には、白い狼の姿、菫省には白い猿の姿の白神であるという。其々の省が其々の姿の白神の姿で祀るが、どの省も信仰は必ずあると言って良い。
どの姿にしろ、
「あとは、
そう言って、明朙は眼前に無数に並ぶ偶像の中で、髭を蓄えた如何にもな老君の姿をしたそれを指差す。黙蓮も明朙の指を追うが、その姿に首を傾げるだけだった。
「初めて聞きました」
「学問の神だから、黙蓮のような漁村ではあまり信仰されないかもしれないな。雲省では昔から強く信奉されているが、他所でも知名度が上がったのは
白龍族というのは勤勉な者が多く、蒼龍族と競うように執政争いまでしている――などと言われる程だ。そんな説明を耳にしながら、黙蓮の瞳は明朙を映した。その白龍族である明朙は、そんな勤勉な姿とは遠い旅人……どちらかといえば、武人のような姿だ。
「明朙さんは……政治に興味はなかったんですか?」
「私は、まあ向いてないな。元々、白家とも関わりのない田舎の出身だから」
白家は、雲省を治める白龍族の台頭とも言える一族だ。文家は、その一族に掠りもしない小さな……それこそ、小さな村をまとめて養蚕を営んでいた。しかし、今はもう、その村もない。そんな過去から目を逸らすように、明朙の目が黙蓮と重なった。
「……それで、
「はい。声が届いたかどうかは判らないけど」
黙蓮は照れたように笑う。
碧霞元君は多種多様のご利益があり、その中でも商売繁盛・夫婦円満・病気治療と。一族が平穏無事に生きていけるようにと願う黙蓮には欠かせないものばかりだった。
素朴で敬虔な黙蓮。眩しくさえあるその姿に、明朙は目を細めて微笑み返した。
「きっと、聞き届けて下さっている。さあ、行こうか」
「はい」
二人は神々を横目に肩を並べて歩き始めるも、黙蓮は絢爛な小神殿を幾どと振り返っては、名残惜しげに街中を進んだ。
「しかし、礼がこれでは矢張り足りない気がするな。他には何かないのか?」
明朙は命を救ってくれた礼をすると言って、黙蓮の願いを聞き届けた。その結果が省都にある小神殿に行ってみたい――それが今な訳だが、明朙は物足りない様子である。
確かに、黙蓮が住む漁村から省都
それもあって、黙蓮は満足げな顔を明朙に向けていた。
「省都の小神殿に参拝に来られました。それで十分です」
快活な姿とは違った、黙蓮の淑やかな微笑み。嘘偽りない姿を見ても、明朙はどこか腑に落ちない様子で頬を指でかく。
「それでは私の気が晴れないのだが……」
明朙は各地を放浪する旅人だ。偶々、菫省の山間部上空を飛んでいたところ悲鳴が聞こえ、慌てて地上へと降りてみれば、妖魔に襲われている商人と護衛がいたとのこと。
助けようとするも間に合わず。結果、明朙だけが助かってしまった。
どうにも死を覚悟していたらしく、黙蓮に助けられた事で芽生えたものがあるようだ。口調こそ黙蓮が嫌がるので慣れ親しい間柄を装ってはいるが、その眼差しには常に畏敬の念が篭って止まない。そんな明朙の様子を黙蓮は気づいていたが、困ったように眉尻を下げて明朙から目を逸らしてしまった。
黙蓮はただの漁師町に住む平民だ。
「私は傷を治しただけ。この力だって、偶然授かっただけだもの。だから、気にしないで」
黙蓮は、自身の手を胸の前で握り締める。まるで、力を抱きしめるように。
その姿が――黙蓮の欲目ない姿勢が、明朙には好ましく聖母然として見えていたのだろう。明朙は諦めきれないと言った様子で、「……しかしだなぁ」とぼやくように溢した。
そんな時だった。
隣を歩いていた
「黙蓮?」
明朙が首を傾げながら声を掛けるも、聞こえてはいない様子。更には、そのまま視線の方へと向かって歩き始めてしまった。
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