二 優曇華の花 贰
その日もまた、満月だった。
女の腕の中には生まれたばかりの玉のような女の子。目も開けずとも姿そのものが愛おしく、女は疲れ果てながらもその愛おしさが一時たりとも手放せなかった。
満月の光を浴びれば腕の中で眠る赤子は一段と輝いて、
「
赤子――黙蓮は当然だが答えない。握られたままの小さな手を動かす事もなく、夜の夢に揺蕩うままだ。
赤子の寝息は小さすぎて、静寂の中で耳を澄ませてやっと聞こえるといった程度。しかも、
だが、世には『
黙蓮の髪色は至って平凡な只人の黒髪。それを鑑みると、途端にあの日の出来事は神の啓示などではなく、ただの夢だったのだと女の中で考えが落ち着きそうだった。
そう、あれは夢。
この世の物とは思えぬ、芳醇な花の香りと甘露な蜜の味。満月の幻惑なる月光が創り出した、夢だったのだと――。
女は窓から差し込む月光を視線で追って、背後へと目をやった。木窓の隙間から、あの日と同じ幻惑なる満月が青白い色をしてこちらを――黙蓮を見守っている。
美しく繊細な光で包み込む様は、仄かに母性を思わせた。
◆◇◆◇◆
月日は流れ、黙蓮はすくすくと育っていった。
漁師の娘らしく日に焼けた肌を晒して、働き者。末っ子気質の甘えもなく、臆病のカケラも無いからか、問題が起こるといの一番に飛んでいく快活ぶりだった。
平凡な娘より、少しばかり逞しいだろうか。十五歳という成人(成人は十六歳)を控えた年頃だというのに、一向に落ち着きが無い。その頃にもなると女の思想から
そんな、ある日だった。
その日の
女は黙蓮を連れて、もう直対岸から戻るであろう夫と息子達を船着場で待っていた。だが舟着場に流れ着いたのは見慣れぬ一艘の小舟。小舟には、旅人らしき装いで頭まですっぽりと外套を被った男が一人、脇腹を抑えて倒れているではないか。
よく見れば抑えた手は赤く染まっていた。脇腹辺りからは血が溢れて、痛みに悶えている姿と気付くや、女の顔色は蒼白となった。
もしかしたら、妖魔にでも襲われたのかもしれない。軍が定期的に討伐を行なっているとはいえ、人の手が入った山道であっても山中を通り抜けるとなれば危険もある。大抵、山を抜けるとなると腕に自信があるか、護衛を雇うのが常だ。
この旅人も、腕に自信があったのか、それとも……。
女の思慮には限界があるし、考えたとて仕方のない事だ。偶然居合わせたとはいえ、見過ごせないと感じた女は黙蓮と共に河へと入った。
手慣れた様子で川縁まで運んで、旅人を舟から下ろそうとしたが黙蓮が止めた。
「母さん、私が治すよ」
そう言って、黙蓮は舟へと乗り上げると痛みで呻き悶える旅人の腹部に触れる。
「手を離して、大丈夫よ」
瞬間、女の目には黙蓮が別人のように映っていた。声音からは勝気な色は消えて、まるで聖人が如く落ち着き。息も絶え絶えの男の様子に取り乱す事もなく、傷口にそっと繊細な手つきで触れる。
両の掌で覆い隠すようにして、十も数えた頃だろうか。それまで呻いていた旅人の呼吸が、なだらかで静かなものになった。一瞬、女は旅人が死んでしまったのではと慌てたが、旅人が何事も無くむくりと上体を起こしたものだから、女は「ひゃあっ」と驚いて、思わず身体が跳ねて背後に倒れそうになっていた。
「今、何を……」
旅人も驚いた様子で、自身の傷に触れては破れた衣の隙間から指を入れて必死に傷を探していた。
「他に痛いところはありませんか?」
旅人は短く「無い」とだけ答えると、頭を覆っていた外套を剥いだ。その奥底から現れたのは、短く切り揃えた白い髪色と金の瞳。小さな漁村には珍しい龍人族の姿に驚く黙蓮をよそに、旅人は黙蓮の手を取り握り締めて畏敬の念が篭った熱い眼差しを向けながら口を開く。
「白龍族の
一目見て、黙蓮が平民であることは明らかであろう。しかし、文明朙と名乗った龍人族の男は、まるで神との邂逅を果たしたかのように目を輝かせて跪いた。
だが、それも仕方の無いことだったのかもしれない。
何せ、黙蓮の癒しの力は異能。異能は神が与えたもうた力なりて、神の力を垣間見たも同義。特に、龍人族は信仰心が熱く、奇跡を身を持って体験してしまったが故に一瞬で感銘を受けたのやもしれない。
傍で一部始終を見ていた女ですら娘の特異性を認識し、脳裏には再び優曇華が花開いていた。
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