第三章 天上聖母の示現

一 優曇華の花 壹

 この国は、多神教である。

 神殿や廟、小さな社が各所で建てられては、多くの神々が祀り上げられ信仰される事が常だ。と言っても、どの神を信仰するかは自由である為、地方により人気や知名度は異なる。


 例えば、最南の地――らんしょうであれば、青海せいかいに面した土地であり四海しかい竜王りゅうおうのお膝元。しかも、藍省治めるそう家は龍人族。青龍神が始祖であるとされるため、その影響もあり龍系の神々の知名度が高い。その為、加護にあやかろうと多くの者が崇め奉っている。

 

 しかし、その真逆の北――丹省では白仙山の影響が強く、白神が強く祀り上げられる傾向にある。姜家は鳳凰神を強く崇める家だ。猛威たる冬を凌ぐが故に、火や命といった神。また、神威の顕現にも思える白仙山が近いが故に、白神信仰がより濃くあった。

 更には、それぞれの省には白神による神域が存在している。これを鎮守の森と呼び、信仰の対象として崇めた。


 されど、どれだけ信心深く神々に尽くそうとも、神格たる存在に人があいまみえる事はない。


 神とは、不可視なる存在なのだから。



 ◆◇◆◇◆

 


 菫省にある大河、庵汜あんしがわ。その川縁にほど近い高台の漁師町には、五人の子を持つ女が暮らしていた。

 上の三人は男、下の二人は女で、なんとも賑やかしい。夫とも仲は良好で、細々とした暮らしながらも一家は順風満帆な生活を送っていた。


 初夏が顔を見せ始めたある春の晩のこと。

 女は寝床でぐっすりと眠っていた――のだが、不意に目が覚めた。その日は満月。月明かりが眩しいくらに辺りを照らすが……田舎町の真夜中ゆえに、しんと静まり返っている。

 だというのに、女はに呼ばれた気がしていた。

 、ではなく。


 だから、だろうか。隣で眠る夫や子供達など見向きもせず、女はむくりと上体を起こした。その目には微睡も惑いもなく、意思が定まっているかのように見開いている。何食わぬ顔で寝所を抜け出し、素足のまま夜を歩いた。

 足取りは軽い。

 ひたひた、ひたひた。

 女の目にも足にも迷いはなく、昼間は漁が行われている庵汜あんし河へと向かっていた。


 そうして、辿り着いた川縁に立つと、足はピタリと止まった。

 春も終わりの頃とはいえ、夜は冷える。冷気すら漂いそうな河面は月光を映しながらもなだらかに揺れて、まるで女を呼んでいるようだった。


 女の足は、河辺に立っても迷いは見せず、そのまま――水際から一歩前へ出た。

 ちゃぷん――と、夜の冷たい河水かすいは足に絡みつく。けれども、女が怖気付く様子はなくそのまま進んで行く。

 女はざぶざぶと水をかき分け深みへと進んだ。庵汜あんし河は深い。川縁から遠ざかれば、足など届かず流れも速くなる。その上、対岸は凡そ一里(五百メートル)も先だ。が、そもそも女の目は対岸など映ってはいなかった。

 

 女の視線は水面に映る白月へと。

 その眼差し。まるで熱情にでも浮かされているように、女は一心不乱だった。深くなればなるほどに足を取られそうになる水流をものともせず、その顔に恐れも、慄きも、何ひとつとしてない。


 そうしてやっと、女の目と鼻の先に満月が。

 河面に映る青白い月光が眩しいとすら感じるほど近づいて、女は「ほう」と熱くいきいた。

 そうっと指の先で、水の流れを遮ってしまわぬ様に、真ん丸なその月が消えてしまわぬようにと河面に手を伸ばす。女の指が触れた瞬間。波紋が光ると同時に、白月のゆらめきを強く波立たせた。

 まるで、女を待っていたと言わんばかりに、一段と眩く。揺れる河面がより煌めきを強くした。

  

 見惚れた眼差しのまま今度は両の手で満月の欠片かけらを掬えば、手のひらの中で水は煌めき続けた。光を帯びた水晶のような輝き。更には、水は女の手の中でも波紋を起こした。波紋は次第に角が立つように盛り上がり、少しずつ形を変え、白い……何かの花の蕾となった。


 その蕾が、ゆっくりと花開く。


 形こそ蓮に似ていた。けれども輝く純白の花弁は細く幾重にも重なっていて、とてもこの世の花とは思えない。けれども女に驚く様子はなく、寧ろ――女は蕩けるようにうっとりと呟く。


優曇華うどんげ……」


 それは、幻と云われている花。三千年に一度咲き、姿を顕すのは吉兆とも凶兆とも。

 女は熱情に浮かされたまま思い詰めたように見つめていたが、今までに嗅いだ事の無い芳醇な香りに誘われて、花を顔へと引き寄せる。目の前にあるそれは、芳しくも女の鼻腔をくすぐって――留めることのできない思考のままに花を口に含んだ。

 水を喉へ流し込んで潤すように、ごくり――と。


 女の顔は、極上の何かをんだように一段と熱を帯びる。甘露。名残惜しそうに喉に指を滑らせて、その花がたどり着いたであろう腹を摩った。意味ありげに、掌でゆっくりと。

 まるで幻惑の時間。女は神との邂逅の様な言い表しがたい時間を堪能したとでも言う様に、至上の顔のまま河面に映る満月を見つめて、その場から動かなかった。

 だが、そんな時間も終わりを迎える。

  

「何をやっているんだ!!」


 突如、声と共に女は背後から勢いよく腕と身体を引かれた。そのまま、じゃぶじゃぶと河面を波撃たせて引きづられるように強引に腕を引かれる。その間も、女は自分の身体に触れているのがなのも気に留める事もなく、女の目は満月を探した。けれども、いつの間にか空は雲が覆い尽くして、一抹の光もない。月も、輝きも消えた河は、暗闇に包まれていた。

 女は身体が一気に冷えていくのを感じて、同時に熱情も失せる。ただ茫然と一筋の涙を流した。

  

 程なくして、女の身体は川縁へと持ち上げられた。提灯の灯りが、未だ茫然としたままの女の顔を照らす。しかし思考は動き始めたかのように、茫然としながらもその目には眼前で蒼白な面持ちの二人の姿を捉えていた。


「あんた……朝児ちょうじ……」


 細々と紡いだ声。夫と長男は、女の声でわずかながらに安堵の息を吐く。

    

「……帰ろう。みんな待ってる」


 女は、夫に言われるまま頷いた。手を引かれて、立ち上がるとよたよたと歩き始める。覚束ない足取りの女は両肩を二人の腕に支えられて、家路へとついた。


 ――なんだか、不思議な夢を見た気分


 ずぶ濡れの麻の衣が肌に張り付き、現実だと知らしめられて目が覚めていくようだった。そうすると、今度は河での出来事が夢だったようにも思える。

 けれども朧げな夢とは違い、確かに見た美しい純白の――優曇華うどんげの花が女の脳裏にくっきりと残っていた。



 それから、十月程の後のこと。

 女に、六人目の子が生まれた。

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