六 見果てぬ夢
一行が城に戻ったのは、丁度夕陽が沈みきった頃だった。
金龍と黒龍が
だが、金龍の背から降りた解洛浪は一片の疲れも見せていない。まだ余裕があるとでも言うように、背筋は伸びたまま蚩尤を見つめていた。
「二人とも、今日は疲れただろう。ゆっくりと休むと良い」
そう言って、蟲雪と許氏を連れ立って紅砒城本城の方へと歩いて行ってしまった。『戻ったら――』そんな師の言葉を思い浮かべながら、蚩尤は雷堂を横目に見やる。と、雷堂が安心した心地で息を吐いていた。
「良かったな、無事回避できたようだ」
「叔母上に何も言わないでくれると
「解伯とは旧知の仲だ。伯父上が不在だとしても、何かしら話はあるのだろう。それよりどうする、
「いや、外に飯を喰いに行く。今日はたらふく喰いたい」
雷堂は一人、城の敷地内にある官舎に暮らす。勿論、食事も出るのだが、量は決まっているし、好きなものが食べられるわけではない。
「なら俺の宮に来ると良い。食事と酒なら出せる」
急な蚩尤の誘いに、雷堂の口元が緩む。
「良いなそれ」
雷堂の声を皮切りにか、合わせた様に二人の足が自然と動き出す。当然、向かう先は蚩尤の宮である。肩を並べる事のない二人の足並みは、細やかな楽しみでも出来たかのように疲れが垣間見える事も無かった。
◆◇◆◇◆
省都は酒好きが多い。寒さが厳しい冬は、『酒を飲んで暖を取る』などと宣う者まで現れるほどに。その証拠とも言えないのだが、城から見える大通りを照らす行燈は、いつまで経っても賑やかな様相が消えはしない。春という季節ならば、尚の事だろう。紅く染まった都は、
遅咲きの桃の花が姿を見せて、散った花びらが露台を薄桃に染めては、なんとも春めかしい。その露台欄干の向こう側。蚩尤はそこから白仙山を眺めるのが好きだった。見果てぬ夢と知りながらも、そこから望む景色を肴にした酒は格別に美味いのだ。
眼下は幼き頃に皇都で暮らしていた景色を思い出し、眼前は幻想を映す。どちらもが、現実を模した虚構のようでもある。そんな夢見心地で蚩尤は酒器を傾けて、手酌で杯を満たす。肴はなくとも酒はすすんだ。なんとなしに酒好き達に加わったような心地。蚩尤も雷堂と同様に興奮冷めやらぬ感覚だったのだ。先程まで雷堂と飲みながら、今日あった事を語らっていたが、それが余計に熱を昂らせたようだ。
そんな蚩尤の熱を奪うように、夜風が吹き抜ける。そうなると、春の風に混じった白仙山の冷気で、春という季節が少しばかり遠のいていく。白仙山から舞い降りる冬の気配は、時に春とて訪れる。機嫌が悪いとでも言わんばかりに、冬の息吹を吹きさらし、冬季を呼び戻してしまうのだ。せっかく耕した畑も、その冷気で凍ってしまう事があるのだとか。
そこまではないにしろ、うっすらとした肌寒さを感じながらも蚩尤は露台の端で白仙山を眺めた。
そんな時だった。
「蚩尤」
夕刻に別れたばかりの男の声に、蚩尤は振り返る。
「師父」
蚩尤は露台の向こう側に足を放り出したままの姿を改めようとするも、師父――解洛浪が遮る為に手を前に出して蚩尤をそのままでいるように促していた。
「いつもこんなところで呑んでいるのか」
しかも、一人で。と言って、解洛浪は蚩尤の傍で欄干へと背を預けた。昼間と変わらず、僅かな表情の変化もなく。
「此処は、見晴らしが良いので」
「雷堂はどうした」
「明日の勤務に差し障りがあるからと帰りました」
解洛浪は「そうか」と呟きながらも、根源地で見せた叱咤の様子が嘘のように、凪いだ顔はどこか穏やかにも見えた。
「……師父の
「昔馴染みという関係は慣れると気を抜きすぎる。特に、お前達の付き合いが長い。一応、そなたの師として、口出しさせてもらった。まあ、雷堂には
そう言って、解洛浪は雷堂の怯えた姿を思い出したのか、僅かに頬を緩ませる。表情を変化させる事姿自体が珍しいが、それは何かを思い出したかのような……そんな懐かしさを込めたような微笑みだった。
「私は立場上、生涯その方にお仕えする事が出来なかった。だから、少しばかり雷堂の立場は羨ましくもある」
「……それは」
「好きに立場を選べる。羨ましい限りだ」
雷堂は下級貴族の出身だが、それまでの経験と実力で、選ぼうと思えば蚩尤の副官という立場だけでなく、武官も選べる。もっと言えば、丹省だけでなく実家のある南部……墨省で仕事に就く事も可能なのだ。
「それでも、そなたに従属する事を選んだ。それが、羨ましい」
それは、羨望の眼差しにも似ていただろうか。もう追いかける事も無い遠い過去の夢を、見据えるように解洛浪は目を伏せる。顔立ちの所為だろうか。その表情はどこか儚げだった。
「それでは、師父は今の立場は甘んじて受け入れていると言っているようにも聞こえますが」
「ああ、その通りだ」
蚩尤の問いに、解洛浪はキッパリと言い返して、儚げだった顔はあっさりと消え去った。
「私が雷堂のように下級貴族の生まれであったなら、その方に生涯を捧げて生きただろう」
決意にも等しい声音は力強く、儚さなど微塵も見せない男は、剣を握った時と同様に猛々しかった。それだけの思いと熱意が今もある。そう、思わせた。
しかし、冷めやすいのか、その熱意も冬の残り香のような風に吹きさらされて、消えていく。
「まあ、今更の話だが」
そうなると解洛浪の顔は凪いで、僅かな機敏も見せない無表情へと戻っていた。すると、先程の会話に興味をなくしたように、落ち着いた声音が途端に話題を変える。
「それで、今日は手応えはどうだった」
突然の話題に、蚩尤は慣れた調子で返す。
「手応えはありました。あとは今日の経験を鈍らせないようにするだけかと」
「私の目から見ても、初手以外は問題無かった。文官になったからと、そなたも気を抜いているやもと思ったが、杞憂だったようだ」
そう言って、僅かに口の端を緩ませて、穏やかに微笑んだ……気がした。
「そなたは読みが正確な上に、太刀筋は抜きん出ている。まだ危うい所はあるが、それもいずれは問題なくなるだろう。丹諸侯にも、そう伝えておいた。次の年からは仕事が増えると覚悟しておけ。気を抜かぬように」
次の瞬間にはもう、表情は無に等しく。しかし並び立てられた語句は賞詞と厳しさが入り混じる。師のらしい言葉に蚩尤は「はい」と返事すると、それまで欄干に預けていた解洛浪の背が朱色から離れた。
「……さて、邪魔をしたな」
「いえ」
「明日には立つ。見送りは不要だ」
「わかりました」
それだけ告げて、解洛浪は蚩尤を一瞥する事もなくすたすたと歩く。が、露台の出口へともう一歩のところで、ぴたりと足を止めて振り返った。遠目ではあったが、今一度蚩尤の顔を認めて、そして――
「そなたもまた、道は選べないだろう。今の道は本意のものか?」
解洛浪の顔は真剣そのものだった。そこには、裏も表もない、本心からの問いかけ。
解洛浪には『伯』という爵位はあるが、解洛浪にははっきりとした身分が存在しない。武官でも文官でも無いため、役職も無い。解家は、
そんな男の眼差しに蚩尤は一度、白仙山を目に収めてから振り返って答えた。
「勿論です。伯父上と父上の姿こそ、私が目指すべき指標です」
蚩尤の言葉は、解洛浪の問いかけに対して真っ直ぐと言えただろう。いずれ、諸侯となる――それがいつかは判らない。けれども、その立場を甘んじて受け入れているのではなく、堂々とその道を進んでいる。蚩尤の言葉も――そして確固たる意志を示すかのような真っ直ぐな目も、確かにそう告げていた。
解洛浪は、静かに……そして、穏やかに「そうか」とだけ告げて、そのまま去っていった。
蚩尤がいる楼閣は、住居部分から少し遠い。蚩尤は静かだからこそ気に入っているが、使い勝手が特別に悪い。見晴らしが良くなければ蚩尤も此処には足を運ばなかっただろう。
――……突然根源地に連れだったから、俺の心中を心配されていた……のだろうか
様々な考えを浮かべつつも、蚩尤は師が去って行った後方にある入り口から目を戻して、もう一度白仙山へと双眸の視線を預ける。最後の残りを杯へと注いで、残り少ないそれを惜しむように少しずつ口を付けた。
『あの向こうは、何があるんだろうな』
師父からの
蚩尤には夢がある。だが、まだ誰にも告げられぬ夢である。今し方、師父――解洛浪に告げた事もまた事実だろう。伯父や父の背を見て育った蚩尤にとって、二人の姿は一番の指標といえよう。
だが、蚩尤は更にその先を見やる。
その瞳に映るのは――――。
第二章
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