五 根源地 参
最後の一体。猫ほどの大きさの鼠の背へと、剣が突き刺さった。
鬱々とした森の空気が更にも増してどんよりと重いのは、腐り始めた妖魔の屍肉の影響だろう。
妖魔は死んだ瞬間から腐敗が始まる。その速さは他の生き物の比ではなく、既に液状化しているものまである。
骨も残らず土に還っていく様は、やはり異形と言えよう。
腐敗の匂いは
特に、蚩尤は体力的に疲弊した思考が何かを考えるということを諦めて、匂い程度が気にはならなくなっていた。その証拠に、今も一本の木を背にして凭れかかり、ぜえぜえと息を吐く。
「……大丈夫か?」
その隣で、雷堂は蚩尤を見下ろしていた。蚩尤が疲れ切った様子を物珍しげに眺める姿には、未だ余裕がある。雷堂も汗をかき、僅かながらに顔に疲れが浮き出てはいたが、蚩尤の側で腕を組んで直立不動の姿を見せつけた。
雷堂が一番得意とするのは大刀。刃が大きく、また刃を支える柄も丈夫な上に長い為、威力は大きく一振りでも刃に当たったなら致命傷になる事だろう。肉を抉られ、骨は砕け、人間であれば即死も有り得る。その分、腕へとかかる負荷は並ではない。それを一刻もの間、汗をかく程度で済ませてしまえる剛腕と体力。一律に龍人族だから、で済ませてしまえる要因だけでなく、ある意味ではこれも才能だろうか。それも、蚩尤には無い才。
蚩尤は恨めしげに余裕ある男を睨め上げた。が、その目前には
一対一の対人戦であれば、蚩尤は雷堂に勝てる。ここ最近の手合わせは、八割方蚩尤の白星が続いていると言うのもあるだろう。だが、これはあくまで短期戦の話である。長期戦に持ち込まれたなら――それこそ力技で押し切られたら確実に負けるという確信が芽生えてしまった。今の今、妖魔による狩りにより浮き出た事実がそう告げて、少しばかり腹に据えかねてしまったのだ。
水筒から流し込んだ冷たい水が口の中を満たしても、蚩尤は目覚めの悪い状況に視線を地に落とした。
苛立ちはあれど、少しづつ冷静になり始めた思考。ようやく機能し始めた嗅覚により、鼻腔へと入り込んだ異臭に眉を寄せる。妖魔が
けれども気配は完全に消えて、沓の裏に虫が蠢くような感覚もない。暫くすれば、妖魔の屍肉は山へと還る。そうしてまた、ゆっくりと溜め込んだ精気を吐き出すために、来年の今頃には新たな妖魔となって生まれるのだ。
「はあ、しかし凄かったな」
今は辺りを見てくると言った
「これを、いつか任されるのか……」
感慨と期待が籠り、弾む雷堂の声。もとより、武官が向いていると言われ続けた男だ。身体を動かすほうが好むのもあるだろう。手練に任されると雷堂も知ったからか、自身の実力を褒められたような心地で溢れた何気ない言葉に、蚩尤は思わず反応した。
「お前が期待されているわけじゃない」
自尊心が口から飛び出てしまったような。嫌味な言葉ではあった。だが――
「そんなことは、わかってる。俺はおまけだ」
そう言って、雷堂は大らかに笑った。
またその姿が何とも大様で、蚩尤にはない人との接し方をよく知る雷堂らしい答えだ。その姿を見ていると、蚩尤は自分が何に腹を立てていたのかがわからなくなる。残るのは、口から飛び出た言葉への後悔だけだ。感情まかせの言葉など、あってはならない。
蚩尤の口から、静かに懺悔の言葉がこぼれ落ちた。
「……悪い」
「まあ、事実だろ。お前に期待があるからこそ俺は一緒に呼ばれたわけだし」
「そのような要因だけで師父は人を選ばない。お前に実力があると判断がなければ、今ここにいたのは上で待機している
「はは、お前の性格に耐えられる奴がいるなら紹介して欲しいな。俺が楽できる」
大らかな姿に蚩尤は口の端が上がる。が、何かに気づいて、雷堂の背後へと目が行った。
「あ、」
蚩尤が僅かな声を漏らすと同時。雷堂の肩に、ぽん――と男の手が乗った。
「
解洛浪の冷ややかな言葉に、それまで
「これでも私は以前は従者として然る方にお仕えしていた。経験と心得ならば十二分にある。それ程に体力が残っていると言うならば、戻り次第手解きをしてやろう」
恐る恐る。それこそ命の危機がそこにあると言わんばかりに青褪めた顔つきはゆっくりと後ろに振り返れば、冬をも凍らせる顔をした解洛浪の姿があった。
「
「そなたは、蚩尤の副官の立場を選んだのだろう。主人が許しているからと、他人に軽んじた態度を晒すのか? それこそが、主人が軽んじられる要因を作るとは考え無いのか? それとも、私は蚩尤の師だからと油断していたのか?」
つらつらと並べ立てられる責苦に、大柄に見える雷堂の身体は縮こまる。
「全て、解伯の仰る通りです」
「全てにおいて気を抜くなとは言わない。だが、場は弁えろ。次に見かけた場合は……そうだな、そなたの叔母上とは昔からの知己だ。彼女に報告するとしよう」
瞬間、雷堂は勢いよく顔を上げ、その顔には冷や汗が流れていた。
「それだけはどうか……勘弁して下さい……」
絶望の色を残して反省する雷堂を見やって、洛浪の目線は蚩尤へと移る。
「蚩尤、そなたもだ。此処へは遊びで来たわけではない。妖魔の根源地が如何に危険であり、枯らすことの重要性をお前たちに知らしめる為だ。雷堂を従者としたのであれば、場を弁えるよう諭すのもそなたの役目。確と心せよ」
蚩尤は静かに「はい」とだけ返事する。雷堂と違い気落ちした様子はなく、ただ反省の意を示すように、一つ返事と共に
「……妖魔は根源地から生まれるが無限ではない。溜め込んだ陰の気を全て吐き出させば枯れる。保って一年といった所だ。冬の山が鎮まる頃合いに、精気を蓄え、また春に顔を出す。此処もまた、枯れた地と言えよう。だが、一昔前よりも手強い妖魔が増えた。特に、こう言った人里離れた奥地は腹を空かせた獣共の巣窟。そこを任される意味を考え、そして決して、気を抜くな」
厳しくも、師として、先達としての言葉に蚩尤、雷堂両名は頭が上がらなかっただろう。任された意味は考えるまでもなかった。領地を賜ったのであれば、領地に住まう者の安全を守る義務もある。根源地を叩き、精気を吐き出させる事でより大きな厄災へと変じないように未然に防ぐことが目的。その重要性を考え、気を引き締めろ。蚩尤は礼を示しながら、深く胸へと刻み込むだけであった。
そこへ、もう一人の人物――雲豹が薄暗い森の奥より姿を露わした。
「洛浪様、お二人に余裕があるのであればもう一箇所回ると申されていたではありませんか。それ以上、二人を追い詰めては感覚が鈍ってしまわれるやも」
若くはない中年の男の声が、雲豹から漏れ出る。雲豹――
「まだお若い上に、今日は新しい事ばかりで目紛るしいばかりのはず。致し方ありません」
蟲雪の言葉が届いた訳ではないだろう。だが、解洛浪の顔が僅かに緩んだ気がした。いや、変化は特段には無かったのかもしれない。視線を雷堂と蚩尤どちらも比べるように認めて、先ほどよりも僅かながらに朗らかになったような気がする声で言った。
「まだ休憩は必要か?」
蚩尤は再び覚悟を問われた様な気がして、真摯に答えた。
「問題ありません」
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