四 根源地 贰

 びちゃり――と、くつを伝って泥を踏んだような感触があった。まるで、今の今まで雨でも降っていたような泥濘みが広がっている。それが根源地と理解するのに、そう時間はかからなかった。

 

 夕闇がそこまで迫っているかの様な薄暗さが、鬱々とした空気を一層強くしていた。しかも樹木の陰程度では治らない――それこそあたり一面が黒い沼同然に染まった、そこ。上空とは違い、辺り一帯からがひしひしと伝わった。なんと言えば良いのか、例えるならば足下で何かが蠢いている感覚だろうか。

 ただの地面が、生き物が胎動するような、沓の裏で無数の虫がもぞもぞと蠢くような。文字通り、虫唾が走る。そんな感覚が、地に足をついた瞬間から絶え間なく続いた。


 それが、止まる。


 一瞬にして気配が殺意に変わる瞬間を肌で感じ、次の瞬間には鞘と柄に手が伸びて構えようとする。が、それよりも速く――蚩尤の目の前で膨れ上がっていく黒い水泡が、ほんの一瞬で五尺程に膨らんだ。


 ――これは……?


 考えるよりも速く、その水泡が弾ける。それと同時。黒い狼――大きな頭が突如現れ出て、蚩尤を呑み込まんと牙を剥いて飛びかかっていた。

 

 出遅れた。いつもであれば妖魔などに遅れをとる事はない。だが今日は、肌に感じる違和感が抜剣する挙動を遅らせた。


 ――死ぬ


 はっきりと、死を実感した。だのに――

 


 蚩尤は無傷だった。

 蚩尤の目の前で、大口を開けたまま。妖魔は赫赫かくかくと輝いていた瞳の色すら失って死に絶える。その死した妖魔の頭上。蚩尤がそろりと目線を上げれば、妖魔の脳天に剣を突き立てた師が立っていた。


「怪我は無いな」

「はい……申し訳ありません」

「良い。次は問題ないか?」


 蚩尤は反応できていたのにも関わらず、剣を抜けなかった自分が恥ずかしく、思わず鞘を強く握った。


「次は、仕留めます」


 震える声に歯を食いしばり、蚩尤の瞳に遅れた闘志が宿る。遅れをとった事、動けなかった事、蚩尤は自分自身が許せなかった。

 

 そうこうしている間に、蚩尤の背後には雷堂、蟲雪と共に降り立つ。解洛浪もそれを見届けてか、背を向けて妖魔の頭蓋から降りた。

 四人。人の気配が強まってか、根源がまたいっそうざわざわと蠢く。大小様々な水泡が次々と現れて、その異様さに蚩尤は身構えて、覚悟の本当の意味と「まどろこしい」と言った正体を知る。

 

 妖魔は人の気配に敏感だ。

 これは根源地を直接叩いて無理やり目覚めさせる、荒事なのだと。


 その解に辿り着いた時、一斉に水泡が弾けた。


 蚩尤の眼前。ずるりと地から這い出るように目の前に現れた最初の妖魔は、狼程度の大きさの狐。無理やり目覚めさせられた怒りなのか、それとも人間という生き物に対する生まれ持った敵意なのか。飛び出た瞬間には憤怒にうずもれたような赤い瞳をぎらつかせ、ぐるぐると唸る口にはこれ見よがしの牙が剥き出しいきり立った様を表していた。

 

 その大きさの妖魔を前にして、漸く蚩尤に余裕が生まれた。

 これは、いつもの妖魔だ。

 先の大型の妖魔こそ動けなかったが、いつもの獣然としたそれを思うと無駄に気が張っていたのか肩の力が少しばかり抜けた。そう、剣を握るのに丁度良い具合に。

 抜剣して一歩踏み込めば、妖魔の口が荒だった息と共に、言い表せぬ怒りの声を撒き散らして蚩尤へと跳びかかった。その跳躍、一瞬にして蚩尤へと間合いを詰める動きは、獣の上をいく。されど、一直線で読み易い。

  

 蚩尤は狐の直線上から僅かばかり――半歩程度足を下げて身体を逸らす。狐が行き違う瞬間に目だけは確りと憎たらしげに蚩尤を捉えていた。が、次の瞬間には下段から繰り出されて蚩尤の一打によって狐の首と胴はごろんと地に落ちる。

  

 それが終わったかと思えば、今度は背後で水泡が三つ爆ぜた。ばさり――と、羽ばたく姿は鷹か。一斉に飛び掛かる。

 自由に空を飛ぶそれらは厄介だ。単純に動いた所で、剣撃などひらりと躱わしてしまう。

 だが、獲物に飛び掛かる瞬間は別である。急降下した身体は野生の鳥類と違って大きく狙い易い。あとは間合いを読むだけである。蚩尤は容易に三羽をはたき落とした。

 そうして今度は息つく間も無く、大きな水泡が近くで爆ぜる。蚩尤の倍はあろう熊が、ぬっと地面から現れ出た。

  

 妖魔を数体屠っても、蚩尤は尚冷静さを保っていた。が、己を丸呑みしてしまいそうな大型の倒し方は今ひとつ浮かばない。現状、蚩尤の身の丈であっても下から刃先で首を落とすのも、心臓を突き刺すのも難しいだろう。

 良い考えは浮かばなくとも、時間は与えては貰えなかった。


 大きく振り上げた熊の右腕が、容赦なく蚩尤へと向かって振り下ろされる。その膂力。

 蚩尤は反射的に背後に跳ぶと、熊の一撃は地面を深く抉った。大きく、重い身体が一撃の反動に左右される筈もなく、直様に体勢を整え背後へと退いた蚩尤を追い込むように前へと出る。次の瞬間には左腕を振り上げていた。


 俊敏に動く巨体を観察しながらも、隙を伺い続ける蚩尤の目。後退しながらも続く妖魔の猛攻の一挙一動を見極め、妖魔が一際大きく腕を振り上げた瞬間を見逃さなかった。

 

 蚩尤は前へと出る。雷堂が大きく振り上げた大刀を思い起こしそうな動き。しかし雷堂よりも遅いと感じて、容易に懐へと転がり込んで背後へと回り込む。

 巨躯から繰り出される一撃が地面にのめり込んだ瞬間に、妖魔の背へと一目散に駆け上った。

 首根まで辿り着いた瞬間。蚩尤は容赦なく、脳天へと剣を突き立てていた。


 それが終われば、また次だ。休む間など無い。  

 狩っても、狩っても、根源地から妖魔は溢れ出る。一体いつまで繰り返せば良いのだろうか。そんな事すらも考える間も無く、次々に妖魔を屠る。などと繰り返すうちに余裕が出始めたのか、ちらりと横目に師の姿を見た。解洛浪は蚩尤と同じく直刀両刃の剣を手に、的確な一撃が次々と妖魔の命を奪っていく。

 その姿は、妖魔などよりも余程恐ろしいような気がして、蚩尤は幾度となく機会を伺っては二人の姿を盗み見た。

 

 だが次第に、そんな余裕もなくなる。

 妖魔狩りに使用する刃幅ははばが広く肉厚の剣は重い。振れば振るほどに腕への負担は増していく。されど腕を労る事など考えてなどいられず、蚩尤は妖魔へと意識を集中させるのだった。



 ◇



 ブオン――と、空気に打つかる音を立てて大刀を振り回す。雷堂もまた、違う妖魔と対峙していた。

 次々と襲いかかってくる獣達――そのどれもを、飛び掛かって来た側から叩き落とす。

 四方八方を注視して気配だけを読もうにも、次々に気配が生まれるものだから、その中から自身に近づいてくる気配だけを見分けるのに更なる集中力が要求される。


『自身の事だけを――』


 と、言われた意味を雷堂は嫌でも理解せざるを得なかった。とても、蚩尤の事など気にかけている余裕は無かったのだ。事前に告知する事で、気を逸らさない様にとしたのだと察する。そのおかげと単純に今の状況も相まって、雷堂は一片の気も抜けないが、妖魔にだけ集中する事が出来ていた。


 そうやっていると、殊更に大きな水泡が膨れ上がった。

 ずるり、と這い出て来たのは蛇だ。それも、胴回りは人間の腹回りよりも太いときた。飲み込まれたら――まあ、助からないだろう。

 黒い鱗が鈍く光る様が何とも嫌らしい。龍の鱗と似ても似つかないそれに、雷堂は敵意を向ける。

 長い舌をチロチロと見せびらかしながら近づく姿が、ピタリと止まった。長い首が高い位置から雷堂を見下して、その赤い目はしっかりと獲物を食らう瞬間を待っている。


 間合いはあるが、首の射程範囲内。雷堂は、下手に構えず悠々と右手に大刀を持ち、蛇の一挙一動から目を離さなかった。


 瞬間、目にも止まらぬ速さで狙いを定めた蛇の頭が大口を開けて、雷堂の眼前まで差し迫ったのだ。

 ばくん――大口が勢いよく閉じる。


 だが既に、雷堂の姿は其処になく。横へと跳びのいて、蛇の頭を落とそうと大きく大刀を振り上げていた。

 蛇の目が、再び雷堂を捉えたその時には、雷堂の大刀は蛇の頭の付け根へと振り下ろしていた。剛腕が繰り出すその力たるや、一介の龍人族武官にも勝る程だろう。硬い蛇の鱗を貫いて、肉を斬り裂く。が――――浅い。


「くそっ」


 悪態吐く雷堂は大刀を肉から引き抜くと、もう一度構えようとした。しかし、蛇の狙いは既に定まり頭がもげかけた事など忘れたのか、その勢いに衰えは無い。雷堂が動くよりも速く、蛇は再び雷堂へと向けて口を開いていた。


 ガン――と、何かがぶつかった。

 大きく開いた蛇の口。それを、大刀の刃と柄が力づくで押さえつけていた。圧倒されそうな大きさの蛇。だが、雷堂は及び腰になるどころか、その腕の筋肉をぎちぎちと唸らせて、蛇の頭を押し返す。蛇がムキになったように更に雷堂を押すがぴくりともしない。

 それを――雷堂は、押し返すと同時に横へとなす。

 勢い付いたままの蛇。頭はそのまま横へと逸れ、がらりとできた大きな隙。雷堂は再び蛇の首へと容赦なく大きく振りかぶった大刀で蛇の首を落とした。

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