三 根源地 壹
蚩尤は幼い頃からから幾度となく雷堂の背に乗って、丹省のあちこち飛び回った。特に温暖な夏から秋にかけては暇つぶしのように。まあ、その日の内に行って帰って来られるところばかりであったし、他にお付きもいた。
そんな気楽な行楽とは違う空気が今日はある。ひゅうひゅう――と、風の音が耳を突き抜けて、春と言える季節だが上空の空気は、山間部なのもあって冷たい。それもあるだろうか。
蚩尤は新緑の山々の上空を駆けていく黒龍の背の上で、景色を一望してから前方へと視線をやった。前を行くは金色の龍が一頭。その背には師である
説明もそこそこに、蚩尤は「明日出かけるから用意をしておけ」と言われて、いつもの妖魔狩りの軽装と帯剣を余儀なくされた。勿論、雷堂も同じだ。
軍の動向は春の軍務と、秋頃や手を貸して欲しいと依頼された時だけ。装いは、その時と同じものだが、師である解洛浪の存在の影響か、いつもはない……いや、初めて妖魔に対峙した時のような緊張が蚩尤の中にはあった。
そうやって、途中休息を挟みながらも二刻は進んだだろうか。漸く辿り着いた最初の地点で、上空で放り出されたように龍の背の上で立ち上がり、蚩尤は眼下から目が離せなかった。
目下、あるのは日の光も届かぬ程に生い茂る木々――深々と緑青に染まった森。不気味程度の言葉では片付けられないような悍ましい感覚が空気を伝い、蚩尤の肌へと触れると身体中へと駆け巡った。
妖魔には独特の気配がある。
妖魔は
命を持って生まれてくるのだ。
気配は慣れたなら、なんとなくだがわかる。その殆どが言葉では言い表せぬ感覚的なものに近いが、蚩尤も軍務に参加しているからこそ、その感覚には覚えがあった。と言っても、軽く胸がざわついて、『ああ、気味が悪い』程度だ。
だが、今。蚩尤の目に映る新緑の景色は春を思わせる鮮やかさであるのに、底知れぬ恐怖が湧き起こった。
背筋の上部だけを氷で撫ぜられたような、ぞわりとした感覚。
「嫌な感覚だ」
その感覚のまま蚩尤は思わず口走った。
「
雷堂も頷き、いつもと違った慎みある口調で返す。目線は蚩尤と同じく、睨みつけるように真下へと向いていた。
『妖魔など、所詮獣である』
妖魔に手慣れた者が大抵口にする言葉だ。
闇を体現したかのように黒々とした体躯と、異形である事を主張するかのように赤く光る瞳。その見目に、初めて対峙した者は腰を抜かす事もあると言われている程に禍々しい。
だがよく見れば、身姿は獣のそれによく似ている。獣よりも、一回りも大きく、俊敏性は高い。常に人の気配に敏感で人だけを襲う性質ではあるが、仕草、動き、知能。全てにおいて、獣同然なのだ。
姿の大きさに怯えて逃げればそれまで。弱いと
油断すれば、手練であろうと痛手どころか死ぬ事もあるが――それでも、妖魔など獣なのだと言う。
必要なのは、恐れずに立ち向かう精神と、獣の動きを見切る目と、鍛えられた肉体である。
「怖気付いたか?」
冷めた声音が、蚩尤を背後から貫いた。
同じく龍の背の上に立つ解洛浪が発した物言いに、蚩尤は振り返る。
解洛浪という人物は、『川』のような人物だと、誰かが言った。水面はゆるりとして一見動きのない平坦な流れの様。されど、一歩足を踏み入れたなら、見えなかった水面下の濁流により押し潰され、流されることもある。時には、けたたましい瀑布の如き強さを見せたりと、普段の一面だけでは見えない側面が幾つもあるのだとか。
そんな人物の物々しい目つきは、これまでにない程に
説明も無く此処に連れてきたのは、覚悟の是非を問い質したいのもあったのだろう。目で見なければ、その肌で感じなければ、事前に何をどう説明したところで意味をなさなかったはずだ。
試されていると実感しても、蚩尤は師から目線を逸らす事はなく静かに答えた。
「嫌な気配はします……ですが、問題ありません」
「そうか。雷堂、」
「蚩尤様に同じく」
どちらも山中の異様な状況に動揺こそすれど、その口振りに迷いはない。両者の返事に満足だったのか、顔は凪いで、無表情へと戻っていた。
「今日は肩慣らしだ。力みすぎず、無理であれば上に戻れ。もしもの場合は互いに自身を優先しろ。特に、雷堂。蚩尤に何かあったとしても私か
龍の姿の雷堂の金の瞳がギョロリと動いて、蟲雪と呼ばれた雲豹の姿を捉えると、惑いながらも頷いた。
「
雲豹が一つ頷いて、それまで黙っていた解洛浪の足下にいた金龍は、静かに「御意」と返した。
「先陣は私が行く。そなた達は後に続け」
と。言うが、早いか。
解洛浪は同意も何もする間も無く、龍の背から飛び降りた。まるで、ただ一歩踏み出すかのように躊躇もなく。
それから、十は数えた頃だろうか。身が軽くなった、とでも言わんばかりに雲豹――
「蚩尤様、雷堂様、参りましょうか」
樹木の高さは、
それを見送り、上空で雷堂も人の姿へと転じて、地上へと降りて行った。
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