第39話 だから!

 朝、早い時間に外が明るくなり、漁師たちが次々に網主あみぬし屋敷にやってきては湖に朝の漁に出て行ったことには気づいていた。

 カスティリナは寝床に横になったままその物音を聞いていた。

 偽のアヴィアは、昨日、眠ったときとは違い、端正に手を腹の上に組んで仰向けに眠っていた。

 澄ました寝顔をしている。まぶたから鼻の線が優しげで美しく、白い頬が部屋の明かりに溶けていきそうだ。

 よくこんな高貴な生きものがこの世に生まれたものだと思う。

 ふと気がついてカスティリナは剣のほうを見た。

 あんな夢を見たのだ。

 もしかすると剣が盗まれたのかも知れない。そうでなければまつりかたをまちがえたのかも知れない。

 だが、剣は、祀ったときのまま、あった。

 林檎りんごも、水も供えてある。

 杯の水面が細かく震えているのは、下で人が往ったり来たりしているからだろう。人の身には感じなくても、揺れは水に伝わる。

 「なんだって」

 バンショーの声が床板の下から聞こえ、カスティリナは起き上がった。

 アヴィアの高貴な眠りを妨げないように用心して、靴をき、祀ってあった剣をとる。

 バンショーは、すぐ下、つまり、昨日、セクリートもいっしょに四人で話をしていたところにいるらしい。

 声は抑えている。

 でも、注意深く聴いていれば、何を言っているかは聴き取ることができる。

 「いや、だから、噂なんだよ。噂なんだけど」

 別の男が、たどたどしく、うわずった声で言っている。

 はっきりした声ではないが、うん、うんと相槌あいづちを打つ声も聞こえるから、相手は一人ではないらしい。

 「だから、噂でもなんでもいいから、知ってることを言ってみろ」

 バンショーがうながす。相手はバンショーの剣幕が怖いらしい。

 「いや、だから、知ってることは何もないんで。ただ噂なんだ」

 「だから、どこでだれが噂してるんだ?」

 「だから、みんなだよ。ハーペンの街で、朝から、いや、夜が明ける前からだよ。なあ?」

 その「なあ」を受けて、別の男が言う。

 「ああ。だから、牛の世話しに行くやつらから、街灯のランプ係から、みんな言ってる」

 「だから、朝って、昨日の夜は公女様はいらしたんだろう?」

 公女と聞いて、カスティリナはふっと体が冷たくなるように感じる。

 公女がどうしたというのだろう?

 話は続いている。

 「だから、それは確かだ。それは確かだよ」

 「だから、じゃあ、おかしいじゃないか。公女様はいまお休みのはずだ。公女様の姿が見えないって、もともと公女様が姿をお見せになる時間じゃない」

 姿が見えない。

 それはどういうことだ?

 「だから、噂なんだよ。公女様が昨夜のうちに何者かにさらわれたって」

 偽のアヴィアが身を起こした。

 カスティリナが気配を感じて振り向いたときには、寝床の上にきれいに起き上がっていた。

 ああ、あの高貴な眠りを終わらせてしまったという思いと、やっぱり起きたか、という思いの両方が湧いてくる。

 偽アヴィアはカスティリナに声をかけた。

 「話を聞きに行きましょう」

 ぬすみ聞きしているだけで十分だ。

 自分はともかく、この高貴な娘までが、顔を洗ってさえいない姿を人前にさらすものではないと思う。

 それに、偽のアヴィアや自分が行くと、下の連中はだいじなことを話さずに隠してしまうかも知れない。

 だが、偽アヴィアは「行きましょう」と言ったのであって、「行く?」とたずねたわけではない。カスティリナが行かないと言っても行くかも知れない。

 たぶん、この娘には、行かなければいけない理由があるのだ。

 だから、カスティリナは黙って頷くと、不機嫌そうな顔を作ってから、偽アヴィアを先導して階下へと下りて行った。

 階下での話は要領を得ないまま行ったり来たりしていた。

 「だからさ、知ってることをぜんぶ言えって」

 「だから、噂を聞いただけだよ。公女様が連れ去られたって噂をさ」

 「だからどんな噂なんだよ」

 「だから、公女様が連れ去られたっていう」

 「だから、連れ去られたっていうのは、誘拐、ってことか」

 「だから、それ以外に何があるって言うんだ。公女様が連れ去られたんだって」

 「だから、それは聴いたよ。いま知りたいのはその先なんだって」

 「だから、それ以上は知らないんだよ、って!」

 「だから、さぁ、それ以上は知らないって、その「それ以上」ってやつがなければだれも信じないだろうが。そうだろう? 昨日の夜は公女様はいらしたんだから」

 「だから、そんなこと言ったってさ」

 バンショーと話しているのは三人の男たちだった。歳は娘たちとバンショーちょうど中間ぐらいのようだ。

 服装からすると商人か仲買人で、漁師ではない。網主屋敷に来たということは魚屋か魚の仲買人だろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る