第32話 アヴィア

 カスティリナとセクリートは漁師の葦船あしぶねに助け上げられた。その漁師の網主あみぬしの屋敷に運びこまれる。

 アヴィアはます馬車にいっしょに乗せてもらって鱒馬車の馭者ぎょしゃといっしょにやって来た。

 網主の屋敷は木造に板石スレート葺きで、質素な造りだったが、屋敷も大きく屋敷地も広い。

 ネリア川に下っていた鱒が上ってきて鱒漁がにぎわうときに備えて、魚の荷げ場、荷さばき場、はらわたを取ったり塩漬けにしたりするための作業場、漁夫や魚の加工をする女たちの寝泊まりの場所がそれぞれ広く作ってある。

 湖に向けて船がじかに引き上げられるように広いテラスが設けてある。

 「で?」

 湖を正面に見るそのテラスで、鱒運びの馬車の馭者が低い声でおもむろに言う。

 名まえはバンショーというらしい。歳は五十歳ぐらいだろうか。

 カスティリナとセクリートは椅子に座っている。

 カスティリナは網主の妻から女物の服を貸してもらい、セクリートは漁師用のだぼだぼのズボンを穿いて、上半身はタオル地の毛布をかぶっていた。

 「そっちの嬢ちゃんは、あんたの捜してた嬢ちゃんじゃないっていうのかい?」

 セクリート少年は、バンショーのほうを振り向いて、バンショーが「そっち」と言っているほうを確かめると、黙って首を振った。

 バンショーの斜め左前にセクリートがいて、その斜め右前にカスティリナがいる。したがって、バンショーの言う「そっち」にいるのはカスティリナだ。

 バンショーが「そっち」には腹は立たないが、セクリートのしぐさは、横目で見ていて、腹が立つ。

 何も言わなかったのは、いまも唇が震えていて、声を出すと声が震えそうだったからだ。

 初夏とはいえ、湖はまだ冷たかった。

 ディアドのみねで雪が溶けきるのはまだひと月ぐらい先のことだという。その水を集めた湖の水が冷たいのはあたりまえだ。

 そこへアヴィアが盆を持って戻って来た。網主さんかだれかから何かもらってきたのだろう。板敷きの床を靴音も立てずにしずしずと歩く。

 見ていると、バンショーにたおやかに会釈えしゃくして磁器じきのコップを渡している。あのおてんば娘が、と思うとおかしかった。

 でも、貴族の娘だと考えれば、それも納得がいく。

 アヴィアの姿を見てセクリートが弱々しい声で言う。

 「その子が」

 言ったところにアヴィアがにっこり笑ってコップを差し出した。セクリートは首をすくめてそのコップを受け取る。

 アヴィアはカスティリナにもコップを渡す。

 セクリートに渡したときのように愛嬌あいきょうのある笑いではなかった。

 いっしょにいたずらをして、いたずらがばれなかった子が、いたずらがばれて怒られている子を見るような笑いだ。

 これも腹が立つ。

 バンショーが、セクリートとカスティリナの後ろ、自分とは木のテーブルをはさんで向かい側の椅子をぞんざいに指さすと、アヴィアはその椅子に腰掛けた。

 スカートがしわにならないように手で持って、とん、とお上品に。

 コップに入っていたのは芋の粉を溶いて米の粒を入れた味の薄いスープだった。熱い。

 それで身体が冷えた感覚がすっと消えた。

 アヴィアが座った椅子はカスティリナの後ろだ。セクリートはそのアヴィアのほうを振り向き、じっと見ている。

 「違う、やっぱり」

 言って、セクリートは前を向き、コップのスープをすすろうとした。だが熱すぎたらしく、さっと唇を放している。

 なんだ、この熱さのスープも飲めないのかとカスティリナは横目で見て、言った。

 「あんたさ。最初に謝るものでしょう? よく確かめもしないでその子につきまとって」

 「だってさ」

 カスティリナにきつく言われてもセクリートは謝らない。

 「遠くから見たらそっくりなんだよ。いや、近くから見てもよく似てる。たしかに顔は違うけどさ」

 無遠慮に女の子の顔の話をするんじゃないと叱ってやろうと思ったけれど、セクリートが続けて何を言うか聞きたい気もちが勝った。

 「それに、着てる服もよく似てるんだ。それで見間違うなっていうほうが無理だよ、アヴィアと」

 そういえば、いまアヴィアと名のっているこの娘のほんとうの名は何というのだろうとカスティリナはぼんやり思う。

 そのアヴィアがセクリートのほうを向いて言った。

 「よく似てるんじゃないよ」

 きついのが半分、得意そうなのが半分という言いかただ。

 セクリートは信じてもらえなかったと思ったらしい。

 「いや、だって、似てるんだよ! ほんとだよ」

 セクリートが訴えるように言う。

 アヴィアは品よく笑った。

 「まあ、聞きなさいって。あんたの言うアヴィアは、二年くらい前、インクリークの高貴な人のお屋敷におつかえするってことが決まって、ジャノール村、つまりあんたの村から出て行った。違う?」

 自分も高貴な出身のくせによく無遠慮に「あんた」という呼びかけを使うとカスティリナは思う。

 いや、やっぱり貴族の娘ではないのか?

 「うん」

 セクリートは気が進まなさそうに頷いた。アヴィアが続ける。

 「そしたら、二年間、まったくおと沙汰さたがない」

 「二年以上だよ!」

 セクリートが言い返す。アヴィアは軽く肩をすくめて見せただけだ。

 「もしかすると、あんたは、親とか、村の偉い人とかに、アヴィアを連れて行ったその高貴な人の名を教えてほしいと頼んだ。でも、あんたのおやさんも、そのアヴィアさんの親御さんも知らない。それどころか、親御さんには、二度とアヴィアさんの名まえを口にするなと言われた。違うかな?」

 子どもをあやすような言いかたで、それがセクリートには気にさわるらしい。

 「そのとおりだよ!」

 「それでもあんたはあきらめないで、村の偉い人のところまで聞きに行った。偉い人は、ずいぶんことばを濁したあと、宰相家のさいの縁者で、それ以上のことは知らないとそれだけ教えてくれた。もしかするとカンムじゅん男爵なんて名まえまで聞きだしたかも知れない」

 「いや、それはきいてない。それが名まえなのか、アヴィアを連れて行ったやつの」

 「まあね。どちらにしても、あんたは、その高貴な人のお屋敷であんたのアヴィアがひどい目にわされてるんじゃないか、もしかすると生きるか死ぬかっていうほど辛い思いをさせられてるんじゃないか、いやもしかすると、なんて考えたわけだ」

 「……うん」

 「だから、こうに潜りこんで、アヴィアを見つけたら、是が非でもジャノールの村に連れ戻さなければ、ってそう考えたわけだ」

 「うん」

 うなずいたり頷かなかったりしながらセクリートはもの思いに沈んでいくようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る