第31話 二十歳前の娘にとっていちばん憂鬱なこと

 用心が足りなかった。

 インクリークへますを運ぶ商売は信用第一の商売だ。

 取引の駆け引きに時間を使っていると魚がだめになってしまう。だから、湖の網主あみぬしとインクリークのおろしさきの両方、さらに沿道のさまざまな人たちの信用がなければ成り立たない。どこの町にも村にもよく知られ、信用されている人でなければこの商売はできない。

 だから、その馬車を怪しむことはないと思っていた。

 だが、この馬車の目当てがアヴィアとカスティリナだとすると、いったいなぜ?

 なぜその信用大事の鱒商人が娘たちを狙う?

 荷台の後ろから男がひょこっと顔を出した。

 「アヴィア!」

 セクリート少年だった。今日はあの袖無しの上着は着ていない。

 「ああっ」

 あの商人の向こうで酸葉すいばをかじっていたのはこの子だったのだ。

 きっと、アヴィアが悪い女にだまされて連れられて行くので助けてほしいなどと話を持ちかけたのだろう。

 その信用第一の商人に。

 カスティリナは舌打ちして剣から手を放す。セクリートは荷台から右に身を乗り出し、さらに右手を大きく右側に伸ばした。

 「アヴィア! 助けに来た! いっしょに村に帰ろう!」

 「なにやってんの、あんたはっ!」

 カスティリナがわめく。

 アヴィアをさらいたいならばアヴィアだけつかめるように手を伸ばせばいいのだ。それなのにセクリート少年は橋から大きく乗り出すところまで手を広げている。

 このままだと、手でアヴィアの手をつかむ前に、その体でカスティリナもアヴィアも巻きこんでぎ倒してしまう。倒れるだけならばいいが、ここで倒れたら水に落ちる。

 セクリートはカスティリナを歯を食いしばって鋭い目つきでにらみつける。体を引くどころか、かえって大きく体を乗り出す。

 カスティリナがじゃまをしていると思ったのだろう。

 実際にじゃまはしている。世慣れないセクリートは、このまま勢いでカスティリナを倒し、アヴィアをその手につかめると思っているのだろう。だがそんなにうまくいくはずがない。

 カスティリナはふいに馭者のほうに目を上げた。

 「馬車を停めてください! 人違いなんです!」

 馭者はカスティリナをちらっと見ただけで答えない。馬をあやつるのに集中する。

 それはそうだ。こんなところでこの速さで馬車を走らせていること自体がかなり危ないことなのだ。少しまちがっただけで湖に馬車ごと転落する。

 右の肩にやわらかい手が当たる。

 アヴィアだ。ちらっと目をやると、アヴィアはカスティリナの肩の後ろから顔をセクリートのほうに向けていた。どんな顔をしているかはわからない。

 セクリートの顔にとまどいが走った。問いかけるようにアヴィアのほうを見る。

 そして、とまどっていていい間合いではなかった。

 二頭の馬と馬車がカスティリナとアヴィアの横を駆け抜ける。

 カスティリナがはしいたを蹴って前に出た。身をかがめてセクリートの体を半分だけやり過ごし、横からその身体を抱き止め、無理やり後ろに引っぱる。

 「何をする! あーっ」

 セクリートは耐えられず、馬車の荷台の足場からずり落ち、馬車の手すりからも手を放してしまう。

 カスティリナの背が橋の上に落ちる。痛い。

 上からセクリートが叫ぶ。

 「何をする!」

 「うるさいっ! 何かしてきたのはあんた」

 カスティリナは最後まで言えなかった。

 「あ」

 間の抜けた声だ。

 乗馬服の背中に頭の後ろから風が入って心地よい。

 落ちている。

 このままでは頭から落ちる。

 カスティリナはとっさにセクリートの体を抱きしめ、そのまま両脚を強く後ろに蹴った。自分とセクリートの体がゆっくりと回る。足が水面に着いた。セクリートを軽く突き放す。

 足から水のなかに潜っていく。カスティリナは沈む前に水面を両手で叩いて勢いを止めた。

 セクリートはそのまま水のなかへと沈んで行く。大きな泡がいくつか上がってくる。

 足は立たない。でも、橋脚が立っている以上、そんなに深くはないだろうと立ち泳ぎしながら見ていると、果たしてセクリートは浮いてきた。

 水を飲んだらしく、激しく咳をしながら、下手な立ち泳ぎをしている。

 「ねえ。だいじょうぶ?」

 下から見上げると橋は高い。その上からアヴィアがのぞきこんでいる。

 大声でも、慌てた声でもない。最初からだいじょうぶだろうと決めてかかっているらしい。

 なんだ、のんきな、と思う。でも、カスティリナは、立ち泳ぎしながら大きく手を振って見せた。

 しばらくすると、そこに向こうからだれかがやって来て、下を覗きこんだ。

 さっきの馬車の馭者らしい。

 何も言わないで、立ち泳ぎするカスティリナと、浮いたり沈んだりしながらばたばたしているセクリートを見ている。

 馭者はアヴィアに話しかけ、アヴィアがそれに答え、二言三言ことばを交わしている。それから馭者は顔を上げて湖面に向けて大声を上げた。

 「おーい! だれか来てくれ! 人が橋から落ちた!」

 助かったとカスティリナは思った。その次に思ったのは、林檎りんごが水びたしになった、買い直さないと、ということだった。

 それに。

 これで着る服がなくなった。

 二十歳はたち前の娘としては、それがいちばん憂鬱なことだった。

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