第30話 馬車
橋に入るときにカスティリナはもう一度確かめた。
橋は一本道だ。逃げ場がない。まして
しかし怪しい者の姿は見あたらなかった。前からは苅った葦を積んだ馬車が来るだけで、後ろからも馬車も旅人も来ていない。
橋のたもとに馬車が一台停まっていた。
馬車は小さいのに、馬が二頭
頑丈で、荷台には
いまは荷台は空らしい。インクリークからの帰りなのだろう。
よく日に焼けた男で、頬の肉は
その向こうに連れがいるらしいが、馬車の向こうなのでよくわからない。たぶん交替の馭者か商人かだろう。いっしょに酸葉の茎をかじっているらしい。
カスティリナとアヴィアはその鱒馬車の横を通り過ぎて橋にかかる。
向こうから馬車が来るとわかっているので、端に寄って歩く。
アヴィアはもの珍しいのか、それとも鱒が泳いでいるのを捜しているのか、ときどきいちばん端まで行って湖を覗きこんでいる。
木の橋だが、表板は隙間なくていねいに打ってあるので、靴の
木の橋がかけてあるくらいだから浅いのだろうと思っていたら、少し歩いただけで湖の底は見えなくなった。
湖の水面からも家の二階分くらいの高さがある。ずいぶん高い橋を
向かいからの馬車とすれ違うとき、カスティリナはいちおう用心した。
だが、最初に見たとおり、何の仕掛けもない、葦を積んだだけの馬車だった。馬は木の板の上でこっぽこっぽとのんびりした足音を立て、馬方の少年は右手で鞭をぶらぶらさせながら通り過ぎる。こののんびりさ加減だと、橋を渡ってしまうまでにかなり時間がかかるに違いない。
カスティリナもアヴィアも早足だったが、橋を進むうちに少しずつ足は遅くなってきた。それに、木の板を打ちつけた橋なので、急ぐと滑って危ない。
アヴィアはとくに歩きにくそうにすることもなく、カスティリナの少し前を歩いている。
橋の向こうからはだれも来ていない。
カスティリナはまたセディーレのことを思い出していた。
ミュセスキアの貴族にはセディーレ派が多く、大商人や織物業者にはアルコンナ派が多い。
では、普通の人たちはどうかというと、元来はアルコンナ嫌いだ。セディーレも好きとは言えなくても、アルコンナよりはセディーレがまだましと思っているひとが多い。
セディーレは何と言っても
後ろからごろごろと重い音がし始めた。
少しずつ近づいてくる。
カスティリナが振り向いてみると、葦を載せた馬車が岸に着き、岸のところに待っていたあの鱒運びの馬車が橋を渡り始めたところだった。
馭者台にはさっきの大きい男が乗っている。もう一人いたはずだが、その姿は見えない。荷台の後ろに乗っているか、あの場で別れたかだろう。
カスティリナは考えを続けた。
今度の公女の婚礼の件について、ミュセスキア国内のセディーレ派はともかく、セディーレ本国が納得したのかどうか。
セディーレは格式と儀礼を重んじる国だというが、ひとの目につかないところでは陰険な策をめぐらせて平気で悪事を行う。公女誘拐の陰謀などはまだましなほうだ。
傭兵という仕事柄、カスティリナは、何度もセディーレの貴族や高官、それにミュセスキアのセディーレ派の関係した事件に関わってきた。
今度だって、セリス公女がアルコンナに嫁ぐのを黙って見ているかどうか。
もしセディーレが手を出してくるとすれば、セディーレ領にいちばん近いハーペンだろう。今日、公女はその街に着くはずだ。
何かあったとき、サパレスやほかの傭兵で公女を守り切れるだろうか?
まあ、いまのカスティリナの仕事には関係ないと割り切るしかない。
「カスティリナ!」
アヴィアが鋭い声を立てた。
後ろから来ていた鱒運びの馬車が速度を上げていた。
二頭立ての馬が
馭者は馬の様子を見ながらときどき鞭を入れている。馬が暴走しているのではない。馭者が走らせているのだ。
この広くない橋の上で出せるいちばん速い速さで。
ただ急いでいるだけにしては、急ぎようがひどすぎる。
「端に寄って!」
カスティリナがアヴィアを右手でかばうようにしながら叫んだ。
「いや、あんまり端に寄らないで」
言うことが矛盾している。でもアヴィアは言われたとおりにした。橋の端から一人分くらい場所を空けたところに立っている。
馬車の向こう、こちらから見えないところに敵はいなさそうだと見当をつける。
だから、もしこちらに悪意を持っている何者かがいるとしたら、馬車に乗っているはずだ。
カスティリナは左の腰の剣に手をやった。あの姿の見えない内気な少女の気配はない。
それでカスティリナの気分は落ち着いた。
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