第15話 脅し

 足音もきぬれもほとんどさせなかったので、カスティリナはアヴィアが扉の取っ手に手をかけるまで気がつかなかった。

 振り向くと、アヴィアが扉を開け、上半身だけのぞかせて手招きする。

 眉を寄せて、深刻そうな顔をしている。

 「どうしたの?」

 カスティリナの声にもアヴィアは声を抑えるように身振りで示す。

 「ちょっと来て」

 アヴィアは聞こえるぎりぎりまで声をひそめて言った。

 何か容易ならぬことが起こったのはすぐにわかった。

 カスティリナは軽くうなずき、アヴィアについて行く。

 音を立てないように扉を閉め、衣擦れも足音も立てないようにしてゆっくりと漆喰しっくいをぶあつく塗った階段を下りていく。

 一階に出る手前で、アヴィアが身振りでカスティリナを止めた。そこの床にアヴィアが持って下りた盆も置いてある。

 台所の奥を、アヴィアは人差し指でそっと指さす。

 カスティリナがそっと覗きこもうとする。

 でも、声の主の姿が見える手前で、アヴィアが肩に手をやって止めた。

 「一万デナリです。払えないお金じゃないと思いますがね」

 落ち着いた、でもどこか投げやりな男の声だ。

 「そんな。そんな余裕があるものですか。脅すんならばもっとお金持ちの店を脅しなさいよ」

 女主人の声は、気丈夫そうだが、ことばの端々が震えている。

 「ほかのお店は今日はお客があるみたいでね。そうすると何かとうるさい。でもこちらは今日はお客がいないようだ」

 カスティリナが振り向くと、アヴィアも目を合わせて来た。

 三階の部屋で、ガラス扉を閉じ、しかも外が明るいので部屋のなかの灯火が目立たない。

 それで客がいないのと勘違いしてしまったらしい。

 二階にはほんとうに客はいないようだった。

 「そんなことより、チェルに会わせてください。チェルは無事なんでしょうね!」

 あのチェルという男の子を人質にして、宿の女主人を脅しているのだろう。

 「無事どころか、とても元気ですよ。いまはね。わたしたちのことを、アルコンナの手先だとか何とか、見当ちがいのことばで、さんざん罵ってくれました。元気のいいお子様ですな」

 「まあ。それで、打たれたり、殴られたり、ひどいことをされたりしてないでしょうね」

 「おとなしくしてもらうために少し打たせてもらいましたけれどね。でも、それぐらいはお母様もなさるでしょう?」

 「な、縄で縛られたりはしてないでしょうね」

 「もちろん縛ってありますよ。何しろ元気で正義感の強いお子様ですから、そうしておかないとつかみかかってきますのでね。ねえ、そんなに心配ならば、いますぐ一万デナリ払うことですよ、おかみさん」

 「そんなっ、そんなお金が、こっ、この家にあるものですか」

 「あります。それは調べてあります」

 「そんなの、何かのまちがいです。勘違いです。そんなお金があれば、もっと部屋も立派にして、もっと人も雇って、きれいにして、もっといい宿にして、もっとたくさんいいお客さんに泊まってもらえるようにするはずじゃないですか」

 「そのために貯めたお金の一部分を大事なチェル君のために使ってもらおう。そういうわけです」

 「そんな……っ」

 女主人はことばを切ってしまった。

 たぶん、お金そのものは貯めてあるのだろう。

 ただ、そのお金のうち一万デナリを払うのは、あまり従順でない息子を失うのと同じくらいの苦痛だ、ということらしい。もしかすると、子どもを育てる何倍もの手間をかけて貯めたお金なのかも知れない。

 男も何も言わない。

 「考える時間も必要でしょう」

 男は短く言って椅子から立ち上った。椅子の音が板張りの床に大きく響いた。

 「しばらくしたらまた来ます。それまでに考えておいてください。一万デナリ払うか、それともチェル君をあきらめるか」

 「あきらめる」という軽いひと言が、女主人を追い詰めたか。

 「そんな」

 女主人は声をれさせて言った。

 「そんなことをして、おとがめを受けないとでも思ってるのかい、あんたは?」

 「そんなことはおかみさんには関係がない」

 男は、ゆっくりと、どうでもいいことのように言う。

 「チェル君ともう一度会えるかどうか、それがおかみさんのほうの問題です。正義感の強い、かわいいお子さんじゃないですか。何にしてもこの家は仲間たちが見張っています。もし人に知らせるようなことをしたら、かわいいチェル君にはもう会えないと思ってください。それに」

 男は思わせぶりにことばを切った。

 「それに、さっきのご質問ですけどね、街の番所なんかに言って出たって動いてくれるものじゃありません。傭兵でも雇えば別ですが、検断けんだん免状めんじょうを持っている傭兵を雇うぐらいなら、一万デナリを払ったほうが安上がりだ。こんな宿のために安く働いてくれる傭兵なんているはずがない。それに傭兵の一人二人ではわたしたちに太刀打ちはできませんよ。よく考えることです」

 ばたん、と、扉の音がした。男は出て行ったらしい。

 女主人はどうしただろうか。足音もしない。カスティリナのいるところからはその姿も見えない。

 ただ、しばらくして、すすり泣きの声が聞こえてきた。

 アヴィアが合図する。カスティリナも小さく頷き、二人は三階の自分たちの部屋に戻った。

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