第2章 天上の大河

第10話 剣

 外はまだ明るい。

 街路を行き交う人たちのにぎやかな声が聞こえて来る。

 パン売りの馬車が鳴らすころんころんというベルの音、野菜売りのからからいう高いベルの音、それに露天の靴屋が靴底を叩く音が、それに混じって届く。

 外の板戸は開けてあるが、りガラスの扉は閉じてあるので、外は見えない。

 アヴィアは部屋に入るとすぐに黒っぽい普段着に着替えて椅子に腰掛け、その窓のほうに目をやっていた。

 わりときれいで、ばねもしっかりしている馬車だったけれど、乗合馬車にずっと揺られてきて、さすがに疲れたようだ。

 それに、あの飾りボタンいっぱいの乗馬服は、着心地が悪いのか、恥ずかしいのか、どちらかなのだろう。

 じっさい、肩から裾までひと続きの黒い普段着は落ち着いた雰囲気に見え、昼の服よりも少し大人びて見える。

 少し、だけれど。

 カスティリナはそのアヴィアのほうをちらっと見た。

 どうしようかと迷う。

 これからやることは、人にはなるべく見られたくない。

 でも、アヴィアを部屋から追い出すとかえって怪しまれる。

 それに、相手がこの娘ならば、べつにいいだろうと思った。

 歳が近いからか、自分から目的地への行きかたを提案したり抜け道に逃げたりするところに自分に似た者への親しさを感じたからか。

 腰につけていた剣を外す。

 そういえばこのアヴィアって子も立派そうな剣を持っていたんだ。

 でもどうしてだろう?

 まさか剣を使えるわけでもあるまい。

 使えもしないのに、しかも女なのに剣を持って歩くのは、貴族だからだろうか。

 よけいなことを考えてはいけないと、カスティリナは剣を横に持ち直し、自分の心を落ち着けてから暖炉の上に置く。

 さかづきは宿の女主人に借りていた。部屋に備えつけの白い水差しから水を注ぐ。

 杯を剣の前に置いて、鞄から林檎りんごを出して杯の右側に置く。

 カスティリナは剣に向かって軽く両膝を折ってお辞儀をした。

 アヴィアは、上目遣いでちらっとカスティリナの顔を見上げただけだ。何もきこうとしなかった。いまカスティリナのやったことは気に留めていないようだ。

 カスティリナはほっと息をつく。

 アヴィアに秘密にしなければならないことがあるとしたら、カスティリナにだってあまり知られたくないことはあるのだ。

 でも、とカスティリナは思う。

 いま自分がやったことは、「この剣は毎日おまつりすることにしてるんだ」というくらいにならば説明してもいい。

 それと引き替えに、アヴィアの隠していることを少しだけ聞いてはいけないだろうか。

 「ね」

 カスティリナが抑えた声で言うと、アヴィアは腰掛けたまま

「ふん?」

と軽い声を立ててカスティリナを見上げた。

 見下ろすとその顔がいっそう清楚でかわいらしい。

 剣の話はやっぱりしないことにした。かわりに、インクリークを出たときから思っていたことをきいてみる。

 「あのセクリートって男の子にさ、ちゃんと会って、逃げたりしないでさ、わたしはあなたの捜しているアヴィアさんじゃありませんってきっぱり言うのではいけなかったわけ?」

 「うん……」

 いまアヴィアと名のっている娘はあいまいな返事をした。

 「それでもだいじょうぶとは思うんだ。たぶんね。でも、それで収まらなかったときにね」

 アヴィアは大きく息をついて肩を落とした。

 この子でもため息ってものはつくんだとカスティリナは思う。

 「あの男の子が騒いで大ごとになると、たくさんの人に迷惑がかかる。だからほんとはいやだったんだ、わたしも、こういう手の込んだことするのは。でも」

 カスティリナが遮ってすかさず言う。

 「なるほど。手の込んだことだったんだ。それを知らされないで、わたしはそれに関わらされた」

 「そういうこと」

 アヴィアはうなずいた。

 「でも、わたしの素姓を探ってはだめとか言われたときに、それぐらい気がついてたでしょう?」

 「いいや」

 カスティリナはきっぱりと正直に言う。

 「だって、護衛の傭兵にいろんなことを隠そうとするっていうのはよくあることだもの。たいしたことでもないのに。傭兵って信用されてない仕事だからね」

 「そう?」

 アヴィアは意外そうに答えた。

 そう言っておかないとカスティリナに悪いと思ったのだろうか。

 カスティリナが言い返すのをためらっているあいだにアヴィアが続けて言った。

 「まあ傭兵全部がどうかは知らない。でも、あんたは信頼されてるよ。わたしの父上にも母上にも」

 「はい?」と問い返しそうになってカスティリナは声を抑えた。

 公女のことをまったく尊敬していないこの娘は、父親と母親には貴族しか使わないような敬語を使う。

 そうか。

 やっぱり貴族か。

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