第9話 他人の街

 上も下も左右もさえぎるものがない。

 道は崖の途中に出たのだ。

 自然の崖ではない。

 上下左右とも石垣だ。それも、さっきのユンジェン廟やいまの地下道と同じように緻密ちみつな石垣でしっかり固められた崖だ。

 下水道を流れてきた水は、二人の足の下で木のといに流れ込み、樋づたいに崖を斜めに流れていく。

 樋と水路の点検や補修のためだろう、崖には木の梯子はしごも取りつけてあった。

 アヴィアに教えてもらわなくても、道はこの梯子しかないことはわかった。

 アヴィアは何も言わず、梯子の支柱に手をやった。

 でも、そのまま立ち止まる。

 梯子の下には何もない。手を滑らせれば崖の下まで転げ落ちる。

 怖いのだろうか?

 そうではなさそうだ。

 アヴィアは、水路の出口から、その細い目で遠くのほうを見ている。

 崖の下には藪が広がっていた。

 その向こうは町並みだ。

 赤黒い煉瓦れんがのままの建物もあるが、ほとんどの建物は白漆喰しっくいで固めてあった。やはり白漆喰で瓦を一枚ずつていねいに固定した赤黒い屋根瓦の屋根が続く。

 その煙突から灰色や白の煙がたなびいているのは昼食の時間だからだろう。

 街の向こうに太い青いリボンのようにネリア川の水面が見える。

 帆をかけた船が見える。帆に風を受けて少しずつ動いている。

 かいや竿で動く小さい船がたくさん行きっている。

 川の向こうには、川沿いに畑地が、その向こうには深緑色に沈んだ森が続いていた。

 あの森の向こうはもうヴィラナ君侯くんこう国の領地なのだろう。

 ネリア川の川面から向こうはもう日が照っているらしい。水面のところどころがちらちらとまぶしく輝いて見える。

 「まだ旧王国に勢いがあった時代」

 アヴィアがその街のほうを見て話し始めた。

 この娘にこんな話しかたができるのかと思うほど、落ち着いた、品のある話しかただった。

 「まだ川の下流の蛮族の国だったヴィラナから都を守るために、この丘の頂上にとりでが築かれて、そこへ物資や兵隊を運ぶための港が作られた。それがインクリークの始まり。そして、修繕したり建て増したりはしているけれど、その丘の上の砦がいまのミュセスキア公の宮殿だね」

 「ああ、うん」

 アヴィアが何を話そうとしているのかはわからなかったが、カスティリナは低い声で相槌あいづちを打つ。

 アヴィアの顔にその晴れ空の明るさが映える。アヴィアは肌がきめ細かくて白くてきれいだ。長いとはいえない睫毛まつげにもその空の明るさが映える。

 アヴィアは続ける。

 「そして、蛮族の襲撃に備えるために、砦と港のあいだには城壁が作られ、そのまんなかあたりの城壁の上に武神びょうが作られた」

 「それがさっきの御廟ごびょうなんだ」

 カスティリナが言う。

 いまのように大公たいこう国とか公国とか君侯国とか辺境へんきょうはくりょうとかいう国が乱立するより前の時代、王がいて、その王国が、ネリア川沿いだけでなく、もっと広い地域を一国で統一していた。

 そして、それは平和な時代だったという。

 アヴィアは優しくうなずいた。

 「うん。でも、聖ユンジェンはもっと後の人だから、最初はその時代の武神のだったんでしょうけど」

 アヴィアは振り向いた。

 「いま通ってきたのはその旧王国の時代の城壁のなかの通路だよ。この崖の護岸ごがんを作ったのもその旧王国の時代。城壁はいまではほとんどが街の下に埋もれてしまって、護岸の壁を造ったのが、ましてこの街の基礎を築いたのが旧王国だなんて、もう知ってる人もほとんどいないけれど」

 王国は分裂して亡びたけれど、その王国の時代に築かれた石組みが崩れずにいて、それがこの娘と自分とを守ってくれたのだ。

 アヴィアはもう一度街のほうを見た。

 「きれいな街」

 そうだ。

 そして、カスティリナはこの美しい街にとっては他人だ。

 ふだんならばカスティリナはそう言ってやるだろう。それで相手が不愉快そうにしたら喧嘩けんかでもしてやる。

 でも、アヴィアが眼下に広がる街を見る目つきは何よりも優しく見えたし、その声は若い女神様の声かと思うほどに美しかった。

 「それで?」

 不機嫌と、不機嫌になってはいけないという思いと、その中間で平板な声になったと思う。アヴィアはかまわなかった。

 「このきれいな街から離れて、この街が他人の街になってしまうんだなって思った」

 少し黙ってから、続ける。

 「あの公女にとってね」

 そうか、と、カスティリナは思う。

 「公女にとって」ではない。

 自分のことなのだ。

 公女と同じようにとつぎに行くのかどうかは知らない。

 ともかく、このアヴィアという娘も、アンマギールに行けばもうこのインクリークには戻らないことになっているのだろう。そのあとでたとえ戻る機会があったとしても、そのときにはここはもう他人の街なのだ。

 この娘は、この街で育ち、この街から出て行く。

 だから、同じようにこの街を去ってアルコンナに嫁入りする公女を見送ることにあんなにこだわったのだろう。

 不機嫌にしなくてよかった。

 もしかすると、この娘の護衛として自分の生まれ育った街に帰れる自分のほうがいまは幸せなのかも知れない。

 たとえ、帰ったところであのアンマギールの街が「他人の街」でなくなるわけではないとしてもだ。

 「さ、行こう」

 カスティリナは声をかけた。

 「このままだと遅くなるし、あの男の子に見つかるとまた厄介だよ」

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