第一章 熱帯夜
ザッ、ザッ、ザッ
昼過ぎ、一樹さんと別れた私は遠くまで広がるあぜ道をルンルンと歩いていた。マンションのないこの島は大好きな碧天が大きく見えて堪らない。透き通った青と爽やかな新緑が、都会育ちの私を出迎えているかのよう。つい数時間前は「島なんて」と思っていたが、いざ着いてしまえばこんなにも受け入れてしまうのかと、私の切り替え能力の優秀さに笑ってしまう。
しばらく田んぼ道を歩き、手入れされた山の人二人分ほどの隙間を歩くと木造建築の平屋が二件並んでいた。赤いトタン屋根に錆びた外壁で唯一の色は玄関の隣にある色とりどりのエキナセアだ。それらは古びた空間の中で一番輝いていた。
引き戸を開けると、昔ながらの廊下が続き、物凄く幼かった頃の記憶を彷彿させる。じっとしていられない当時の私は、この廊下で走り回っていた。少し奥に行けば、「お腹空いたよね。もう少し待っててね」と、醤油煎餅かアイスクリームを選ばせてくれた。
「婆ちゃーん」
玄関から声を出すと、遠くから「はーい」と返事が聞こえた。すると、キッチンから小走りでこちらに向かう嘉代婆ちゃん。
「また大きくなったねぇ。今年十七歳よね?最後にちゃんと会ったの十年前とかだで、婆ちゃん寂しかったわ〜!」
婆ちゃんは十年前よりシワが増した手で私の頬を包んだ。久しぶりの感触に懐かしさを感じる。
「ご飯食べる?」
「うん」
靴を脱ぎ、洗面所で手を洗ってから畳の匂いに包まれた居間に向かった。そこには私の大好きな冷やし中華が待っていた。
「冷やし中華好きなの覚えてたの?」
「そりゃ菜々ちゃんの好物覚えてるに決まってるわよ」
「ありがとう婆ちゃん!いただきます」
夏はそんなに好きではないが、冷やし中華だけは昔から好物だった。それに、しっかりとマヨネーズまで用意されており、胸がいっぱいになる。溢れ出そうな笑みを堪えながら冷やし中華を頬張った。
*
「寝れない…」
時刻は夜の一〇時を回ったところ。私は小一時間ほど布団の上でただ天井を見上げていたらしい。蒸し蒸しとする部屋はお風呂上がりの火照った身体に悪影響で、寝ようと目を瞑っても夢の世界へ入ることは出来なかった。
『今夜は熱帯夜になる事でしょう。明日の天気は…』
夕方に見た天気予報を思い出す。今夜は熱帯夜。昼間から熱を溜め込んだコンクリートのせいで窓を開けてもムワッと気持ち悪い空気が流れてくるのだろう。
__こんなに寝れないなら、いっそのこと散歩でもしようかな。
一度決めた事は変えられない私は、婆ちゃんが寝てる事を確認してから外に出た。
真っ先に目に止まったのは、高層ビルのような余計な光がない自由を手にした星たち。一つひとつ快く輝き私の目を癒してくれた。
「うわぁ…綺麗」
こんな綺麗な星はいつぶりに見たのだろう。というか、そもそも自ら上を見上げたのはいつぶりだろうか。帰り道はいつもスマホをいじって、部屋にいる時もカーテンは閉めっぱなしで、「星を見る」なんて考えは頭から消えていた。スマホがない生活が始まって半日。初めて父親に感謝したかもしれない。こんな綺麗な景色を私はたった小さな金属板のせいで忘れていた。
気がつけば私は浜辺に着いていた。昼に着いた浜辺とは違く、人気のない寂しい浜辺だった。月光が水面を煌めかせ、キラキラ輝くイルミネーションのようだった。深呼吸をすると、潮の匂いが鼻を通る。そうだ、いつかスケッチブックを持ってここに来よう。
ふと、少し離れたところに黒い影を見つけた。木陰に隠れて、黒い塊に黄色の点が二つ。
__ネコ?
一歩踏み出すと、影はビクッと震えた。逃げられる前に何ネコか確かめたい。
「ネコちゃん、怖くないよ〜姿みたいなぁ」
ゆっくりと近づき、残りあと数十センチ。今のところ黄色い瞳しか確認できない。このまま腕を伸ばしたら、抱っこできそう。両腕を伸ばしたその瞬間、
「触るな」
どこからか声が聞こえた。ネコはジロッと私を睨む。咄嗟に腕を引っ込めた。周りを見渡しても、声の正体らしき人はおらず、幻聴かと思った。
「どこの者だ。見慣れない顔をしている。おまえ、都会の者か?」
「ネ、ネコが喋ってる…⁈」
「うるさい」
人生で初めてネコに怒られ慌てて口を手で塞ぐ。当たり前のように喋るネコに脳の処理が追いつかない。軽く自分の頬を叩いたが、痛みが残るだけで決して夢ではなかった。
「え…本当にネコ?」
「信じたくなければそれでいい」
ネコはプイッと海の方を見た。信じたくないが、真っ黒の毛並みと黄色に輝く瞳はまさにネコそのもの。それに、月光で反射していてとても幻想的だった。
「ねぇ、名前とか__
「良い子になりたいなら早く寝ろ」
「あ…!」
私が手を伸ばした瞬間、ネコは森の中へ消えてしまった。走って追いかけても、そこには木々が所狭しと並んでいて、これ以上足が進まなかった。
仕方なく家に帰ろうと振り返った私の足にコツ、と何か固いものがあたった。
「なにこれ?」
暗くてよくわからなかったが、光にあてるとそれはボールだった。中に鈴が入っていて、振るとカラカラと可愛らしい音が鳴る。
「忘れ物かな…」
ボールをポケットに入れ、来た道を戻った。その時、後ろから草が擦れ合う音が聞こえた。波で掻き消されそうなほどの小ささでも私は聞き逃さなかった。
「おまえ、カラカラを見なかったか?」
「え、カラカラ?」
「カラカラ」
「これだったらさっき落ちてたんだけど」
そう言ってしゃがんでポケットからそれを取り出すと、ネコは目を見開いた。そして手のひらに載ったカラカラを小さな肉球二つで取った。
「これだ!探していたものだ!」
「そうなの?見つかってよかったね」
キラキラと目を輝かせながら私とカラカラを交互に見るネコに微笑んだ。ネコはペロペロと私の爪先を舐める。その姿はさっきまでの威厳さを微塵も感じなかった。このままだと無意識に「可愛い」と口が滑ってしまう。
ネコはハッとした表情になり、ゆっくりと口と前足を離した。やばい、口が滑った。
「い、今のは見なかったことにしてくれ…!」
ネコはさっきよりももっと早く消えてしまった。つい先ほどまでいたそこには小さな足跡。波風が私を包み、私のことを慰めているようだ。いや、「作戦失敗」と煽られているようだった。
私の作戦としては、
カラカラを届ける
↓
ネコがやってくる
↓
距離が近くなったタイミングで撫でる
↓
欲を言えば名前を聞く
↓
仲良くなる
だったが、失敗となってしまった。
*
「ネコちゃんって警戒心強いもんね…決して、嫌われてる訳じゃないよね…」
見知らぬネコに嫌われた私は仕方なく家に向かっていた。久しぶりのネコに心が異常に踊っていたのが悪かったのかもしれない。
「でも、黒猫可愛かったなぁ〜」
あの時の記憶が蘇る。砂浜についた小さな足跡と、黒い影。
「目はまん丸で、鼻はシュッとしてて、口は小さくて、毛並みが綺麗で最高のネコちゃんだったのに…こんな絶好のチャンス逃したくなかったな…」
「まさか、おいらのことか?」
「いやいや、あのルックスは神様に感謝しなきゃダメだよ!ありがとう神様!ありがとうネコちゃん!」
「はぁ…どいつもこいつも、おいらの事褒めてばかり…」
「褒められて嬉しくないの?」
「おまえ頭悪いなぁ」
しゅんとした声は、次第にどんどん遠くなっていく。「おまえ」と聞こえた時、脳内がビビッと痺れた気がした。この声と、私のことを馬鹿にしたような「おまえ」は…
「あ!さっきのネコ!」
「あ、やっと分かった?わざわざ後ろ歩いたのにさぁ、居て当たり前かのように会話してるのやめてよね」
小さな口から白い尖った歯をチラリと見せる彼は、毛繕いしながら話を続けた。
「てかさ〜おまえこの島の者じゃないだろ?」
「え、なんで分かったの?」
「何年この島にいると思ってんだ」
ネコの態度にムカつきながらも、私は渋々応えた。
「…菜々。櫻田菜々。お父さんの仕事の都合で夏休みだけこの島にいる婆ちゃんの家で過ごしてるの」
「ふーん」
「何よその言い方!」
毛繕いが終わったネコは、私の横を通り過ぎトコトコと前を歩いた。彼に慌ててついていく。
「おいらはクロ。昔ちーちゃんに言われてからクロ」
「ふーん」
「「……」」
沈黙が続く。ゆらゆら揺れる長くて黒い尻尾を目で追いかけながら歩いていると、ぴたりとクロが立ち止まった。
「カラカラのお返し」
「え、お返し…って、なんで私の家知ってるの⁈」
「だーかーら、おいらはこの島の事ならなんでも知ってるんだから嘉代婆ちゃんのことだって知ってる」
「だとしても私と婆ちゃんが親族関係っていつ知ったのよ…」
扉の隣にあるエキナセアに鼻を近づけるクロを横目に引き戸をゆっくり開けた。幸いなことに、婆ちゃんが起きている気配はない。
「そういえば、クロの家は?」
「ない。ネコなんだからそこら辺に寝てても危なくない」
クロはエキナセアの香りに満足したかのようにそこを後にする。私は声を上げて止めた。
「虫とか車とか危ないでしょ!」
「しっ!嘉代婆ちゃん起きちゃうよ」
言ってる事は全て正しいが、あのときのような悪戯っ子の表情をしたクロにイラっとした。しかし、独りで寂しかった夏休みに彩りが戻ってきた気がした。
「また、会えるよね?」
「会おうと思えば会えるよ」
七月二〇日 天気は晴れ
今日から離島暮らしが始まりました。暑さでやられてたけど、久しぶりに婆ちゃんの冷やし中華を食べれたから疲労回復!スマホが使えないとやる事がなくて、今日は家の周りを散歩しました。すると、小さなボール(カラカラっていうらしい)が大好きな黒猫を見つけました!名前はクロで、人間の言葉を喋る不思議なネコです。明日も会いたいな〜
続く
タイトルは最後につくるもの ぽちゃ @yz_nnn008
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